終章
これからもずっと、続いていくものだから
「――なんか、雲をつかむような感じだよな。」
「雲?」
隣で実際に空を見上げながら、秋孝が言う。
季節の感覚なんてなくなってしまいそうなくらい穏やかな空。陽気も暖かで、外でお昼を食べるにはちょうどいい曇り具合だった。
いつもの屋上。あれからもう二年が経とうとしているからか、封鎖は解除されている。ボール遊びは禁止されたままだけど。
「なんにも事実が書かれていないだろ。それなのに最後だけ自信満々とか。」
「はは、辛らつだなあ。」
真面目に答えるその隣で、ぼくはついつい笑ってしまう。
向かいに座っていた佐倉さんも笑っているが、その隣ではかなえがむっくりと頬を膨らませていた。
秋孝が先ほどまで読んでいた雑誌を持ってきたのは彼女だ。たぶんこの記事を書いたのは文美さんだろう。
「しょうがないでしょ。実際そういう症状の人はいっぱいいたけど、みんな病院で取材なんてできないし。」
その後は、無言で秋孝とぼくをにらむ。
言いたいことはよくわかる。かなえも、ぼくも、秋孝も、自分自身がよく知っていることだから。
でも、しょうがない。
当事者だけどずっと眠っていた秋孝と。
表むき交通事故から一年ぶりに、奇跡的に目覚めただけのぼく。
『影』の話も一回も口に出していないから、関係者とは特定されていない。
そりゃあ、取材対象にもならないわけだ。
不服そうなかなえを、佐倉さんがなだめてる。
ぼくが放浪している間に、三人は三年生になった。
こっちは一年眠っていたのとリハビリとで、結局一年生を途中からやり直している。
一人だけ時が止まっていたような気分だ。
実際記憶がなくて戸惑っているのは秋孝のほうだ。今も勉強が丸一年分進んでいなくて四苦八苦しているようで、冗談めかして「留年先で待ってる」と言ったら怒られた。
ぼくがあの巻物を開いた後、改めて偽の秋孝を認識したことで「遠夜由羽が『影』の存在を認識した」ことになったから、【定義】通り『影』の現象はなくなった。
いや、ほとんどなかったことになった。
あるべきものがあるべき場所へ。入れ替わっていた人は元の体に戻り、秋孝も強制的に自分の体に戻った。
精神が移動した衝撃か、「遠夜由羽」が別物になったからか、理屈はわからないけど寝たきりだった意識は無事に目覚めて、代わりにぼくは急に目覚めた上にやたら元気でお医者さんを混乱させた。
佐倉さんは喜び、秋孝はほっと胸をなでおろしたという。
かなえは、ぼくのことに気がついていない――はずだ。
佐倉さんや秋孝とからむとしぜんにお昼を一緒に食べるようになり、話せば話すほど微妙な顔つきになっていく。追及されるのも時間の問題かもしれない。
ちなみに秋孝は「いつの間にか仲のいい女子が増えていた」とこちらも混乱しているようだ。
今のところ、新しい連鎖は起きていない。
ぼくにはそれがわかる。
女子二人はお昼を食べ終わると部活の用事があるそうで、先に校舎の中へ帰った。屈託なく笑う佐倉さんを、手を振って送る。
視線を元に戻すと、開きっぱなしの雑誌が目に入った。
「あ、置いてったなあいつ。」
ぼくは薄っぺらいマイナー誌を持ち上げる。都市伝説の特集ページは見開き四ページほどで、パラパラめくっただけで終わってしまう。
最後のほうに、奇妙な空白がある。
これは、もみ消された文章があったことを示している。
ここには遠夜の家に関する記述があった。けれど、それはとても個人的な話になるし、そもそも「術」に関してはもう解決したも同然だったから、なかったことにしてもらったらしい。
後になって四栂さんから聞いた話だ。また文美さんと戦ったのか、あの人。
秋孝はぼくの横から誌面をのぞきこんで、ぽつりとつぶやく。
「……本当に、あったんだよな。」
「うん。あった。」
思い返せば、瞬く間に過ぎた一年だった。
始まりのあの日を、いまだに鮮明に思い出せる。
もしも、あのとき。秋孝の異変をもっと早くから指摘していれば。あの夜、車の前に飛び出さなければ。
絶対に、別の結末が待っていた。
ぼくはそのまま入れ替わった先でのうのうとやっていたかもしれないし、なんなら入れ替わった自分と仲良くなっていたかも。なんであれば術の事すら知らずに、家のことなんて全部、忘れていたんじゃないだろうか。
感慨深げにうなずく気配がした。隣の男も同じようにおもいだしていたのだろうか。
「でも、なくなったんだよな。」
「――うん。なくしたよ。」
秋孝がぼくのほうを見ているのがわかる。
本当か? っていう疑いと。
そんな力、どこから持ってきたんだ? って疑念。
慣れているからか、秋孝が何を思っているのかはなんとなくわかるようになった。当然の疑問だろう。すべてを知っているとはいえ、聞いただけでは信じるところまでは行けないだろうから。
ぼくはその場にごろりと寝転がった。
「おい、制服汚れるぞ。」
「いいよ。後できれいにするから。」
頭上を、ゆっくりと雲が流れていく。
この世界は変わらない。
いや、ぼくの周りはちょっと変わった。庭からは玄さんが消え、家には父さんが毎日帰ってくるようになり、時たま四栂さんが後ろに隠れがちなコミュ障な女性を連れてくる。
でも、それくらい。
あっけないくらいに危機は去って、いつも通り学校があり、朝が来て夜が来る。また、次の日がやって来る。
その繰り返し。
「……お前が、守ったんだよな。」
返事はしない。
ぼくは、守れたんだろうか。
守ろうと思ったわけじゃない。ただ押しつけられた義務を、ぼくなりにこなしてみただけだ。それが結果的に多くの人を救ったのなら、それでいいんじゃないだろうか。
秋孝がぼくの行動を「守った」と【定義】するなら、それでいい。
ふいに、うまい返しを思いついてにやりと笑った。
「知ってるだろ? 秋孝。」
すべての事のてんまつを知っているのは、ぼくの、一番信頼のおける友人だけだ。
仕返しだろうか。返事はなかった。
始業十分前になって、どちらからということもなく、立ち上がる。
「じゃあな。」
階段のところで、秋孝が立ち止まる。その手には丸めた雑誌が握られている。
三年生の教室はすぐそこだ。
「じゃあ、また後で。」
ぼくはといえば、いまさら一年生の教室も居心地が悪くて、一階にある進路指導室をねぐらにしている。あと、高いところにある教室はご法度だとも言われた。前科があるから仕方ない。(そのくせ、本当に注意すべき人物は一番高い階にいる)
階段を降りようとするぼくを、秋孝がずっと見ていた。
その寡黙さも、静けさも、なにも変わらない。ぼくの長い打ち明け話でさえ、相づちも打たずに聞いていた。
その重い口が、今開く。
「――なあ。」
呼びかけに、ぼくは振り向く。
「なに?」
秋孝はなにかを言い淀んでいるようだった。
ぼくは、待つ。
察することはできても、秋孝のほんとうの気持ちはどうなのか、ぼくにはわからない。
誰だって、相手の気持ちが完璧にわかることなんてない。
察することはできる。相手と同じ空気をより多く感じていれば。相手がどんな時に怒って、どんなときに悲しむのか。それを理解していると、なんだか相手に近づけた気分になる。
でも、人の距離には、結局「相手を理解すること」と、「自分が歩み寄ること」が必要なんだと思う。
ぼくは、きっとこれからも、誰にも歩み寄れないと思う。
相手に見せる「ぼく」がないから。今までもそうだったけれど。「遠夜由羽」が術になった時点で、もう人とは別のものだと思うから。
だから、こんなに近くに感じられる人は、もうこいつぐらいしかいないのだ。
難しい顔をした後、秋孝はゆっくりと口を開いた。
「いまだに信じられないんだ。」
「おう。」
「俺が――」
「本州最北端まで自転車で行ったって、話。」
その大真面目な声に、ぼくは失笑を押さえられなかった。
「む。その反応はまさか。やっぱり嘘だったんじゃ。」
「それはない。本人が言ってた。本人に訊け。」
「本人……?」
「お前乗っ取ってたやつのほう! 今度うちに来ると思うから!」
「本当か?」
「もうめんどくさいやつだな!」
息が苦しい。気にするって言ったって、他になにかあるだろうに。
秋孝の中では重要問題なんだろう。どこか抜けてるのは相変わらずだ。
なんか、ほっとした。
「いいじゃん。信じられないなら自分で行けば。」
ぼくの言葉に、秋孝も口の端を上げる。
「その時は、お前も道連れにしてやる。」
悪魔みたいなセリフだ。
「いいよ。最北端でも最南端でも付き合ってやるよ。」
「絶対だぞ。」
「おう。」
「やっぱナシはナシだぞ。」
「ああ。今度の夏休みでいいか?」
「……俺、受験生なんだよな。一応。」
「こっちに来ちゃえばいいんだよ。」
階段下からの誘惑は手で振り払われた。
ふった手を見て、秋孝が小指をのばす。
「指切りするか?」
「そこまでしなくても、守るさ。」
「逃げるなよ?」
「こんなことで逃げるか!」
半分降りかけた階段を二段抜かしで登って、秋孝の前に立った。
きっとこれからも変わらない。前と同じように、こんなふうに、じゃれ合いながら生きていく。
「約束な!」
「おう。」
言いながら、腕を上げる。
いつか、の約束に向けて。
寡黙なそいつと、生真面目にハイタッチをした。
ダブル・ダブル 水沢妃 @mizuhi
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