7 本性

 それから一週間、ぼくは部屋からほとんど出なかった。家には時おり物に当たる音が響いていている。いよいよ母さんとの仲が危ないみたいだ。

 あの人と顔を合わせるのは嫌だった。もうどんな顔をしていいのかもわからない。

 早くどっかに行ってくれればいいのに。

 その間、やつはせっせとぼくの代わりをしていた。一週間で、外はそれなりに騒がしくなっているらしい。

 佐倉さんへのちょっかいはエスカレートしていて、ぼくにも飛び火したけれどそれなりに穏便に済ませたらしい。やつの穏便がどの程度なのか聞いたけれど、やつはにこにこして答えなかった。あの人はなぜかずっと家にいて、母さんは見限ったように家にいない。あとは朝の家政婦さんが変わったらしい。この間屋上から落ちたボールが人に当たってしまったせいで、屋上が立ち入り禁止になったそうだ。

 やつは荒れ放題のリビングにいるのが嫌だから、とうまく理由をつけては、毎回ぼくの食事を部屋まで運んできた。もしもぼくが引きこもっていなかったとしても同じことをしただろう。

「大丈夫、由羽。」

 いつものように教科書の進み具合を言って、ぼくの影はベッドに寝ころんだ。

「この間言ってたことと、やっていることが違うわけだけど。」

「ぼくも、こんなにお前に頼ることになるとは思わなかった。」

 そろそろ元の生活に戻らないと、こいつなしにはやっていけなくなる。それだけは避けたかった。

 明日は学校に行くよ、と言おうとしたとき、遠くから何かがぶつかる音がした。それからかすかに怒鳴り声。

「あの人、まだいるの。」

「うん。なんかずっと変なこと言ってるんだけど……。そろそろ通報されそうな雰囲気だよ。」

 そうなったらどんなに楽だろう。

「ごめん。もう一日、代わりに学校に行ってくれ。」

「……由羽。昨日は、明日こそ行くって言ってたよな。」

 ちょっと怒ったような声。ぼくは教科書に目を落としたまま、「頼む。」ともう一回言った。自分でもびっくりするくらい部屋から出るのが嫌だった。引きこもりの気持ちなんて今まで全く分からなかったけど、今は部屋の外が宇宙になってるんじゃないか、なんて突飛な妄想までできてしまっている。

 ぼくもぼくだけど、やつのほうだって奇妙な反応をしている。

「何でも手伝うって言って近づいてきたのに、頼られると怒るのか?」

 返事はすぐに返ってこなかった。やつは微動だにしないまま、こっちをじっと見ているようだ。ぼくも問題集から顔を上げなかった。

「ぼくは、どんなことでも有言実行してしまう由羽が好きなんだよ。」

 その声は聞き取り辛いくらい小さくて、震えている。

「たとえそれがクラスメイトを見捨てる行為でも。がんばって普通に過ごそうとして、決して自分を崩さない由羽が好きなんだ。」

 ベッドがきしむ音がして、やつが立ち上がった。ぼくの横まで歩いてきて、なぜだか黙りこくる。

 見上げると、無表情なやつがこちらを見下ろしていた。

「なんだ?」

「ねえ、由羽。今この状況で、君とぼく、どっちが『遠夜由羽』を上手に演じられてると思う?」

 冷たい声。やつのこんな声、はじめて聞いた。

 怒りさえ通り越した声だった。

「なにを言って……。」

 反射的に椅子から立ち上がって、やつから離れた。

 やつはお構いなしに、一歩ずつぼくに近づいてくる。ぼくは後ずさりをするしかなかった。

「学校ではいちおう佐倉さんを助けてるんだ。君には言ってなかったけど。彼女、強がってるけどけっこう追いこまれててさ。だから放っておけなくて。家でもね、ちゃんと父さんを止めようとしてるし、新しい家政婦さんともうまくやってる。」

 広い家といっても子ども部屋なんてそんなに広いわけじゃない。すぐに背中が本棚にぶつかった。

「君が思っているほど、お父さんは悪い人じゃない。」

「なにを言って……。」

「本当さ。こうやって暴れているように聞こえるのも、ちゃんと理由があるんだ。――佐倉さんも、由羽が感じたのとは比べ物にならないくらい脆い人だよ。由羽は本質をなんにも見られてない。」

 やつはぼくの目の前で止まる。

「もっと頭の切れるやつだと思ってたよ。」

 その笑顔は、恐ろしいほどに完璧だった。

「家族のほうも大変なのにクラスメイトを助ける『遠夜由羽』と、なんでも一歩引いて見て、自分の問題すら遠ざけて逃げてる『遠夜由羽』。人が見たら、どっちの由羽のほうを好きになると思う? どっちのことを、本物の由羽だって思うかな?」

 真っ白になりそうな頭を、やつから目をそらして引き戻す。

 今になって、ようやく、「」がわかった。

「お前、これを狙ってたんだな……!」

「はは……。なんのこと?」

 とぼけやがって。さんざん自分に頼らせて、ぼくの代わりをすることで、自分こそ本物になってしまう。ぼくを手伝うというのは、ぼくの位置を乗っ取るための手段――。

 最悪だ。父さんのことがなければ、もう少しこの事に早く気がつけたかもしれないのに。

「……どうして、こんなことするんだ?」

 自分にそっくりな顔を見ることもできない。やつがぼくをまっすぐ見ているのがわかる。恐ろしいくらい落ち着いた目をしているのも、なぜだか手に取るようにわかった。

「ぼくはね。かわいそうな人がいると助けずにはいられないんだよ。それに君は、昔っからいつか助けてあげたいと思っていたからね。」

 やつが「ねえ、由羽。」と手をのばしてくる。ぼくはその手をはたいて、やつの前から逃げ出した。

 部屋の扉に手をかけて、ぴたりと止まる。ドアノブに触れた手がカタカタと震えていた。

「出られるの? 今の君に。」

 後ろから甘い声が聞こえた。優しくて暖かくて、無条件に愛してくれる。そんな夢みたいな声。

 影の言うことなんて信じられない。

 ぼくにその声を向けてくれるはずだった人たちは、そのころ自分のことで手いっぱいだった。今は、それどころじゃない。もうすぐ壊れてしまう。

 いや、ぼくのほうがもっと早くひび割れてしまいそうだ。

「大丈夫だよ。ぼくが君の代わりに、上手に『遠夜由羽』をやってあげる。もう戻れないことはわかってるよね?」

「……ああ、そうだな。」

 震える足を無理やり動かした。

 部屋を出て、父さんに会うこともはばからずに階段を降りた。なるべく物音を立てないように照明のしぼられた廊下を歩く。明るいリビングから飛び出している何かの破片は見えたけれど、それすら無視して玄関にまっすぐ向かった。

 薄暗い玄関で、電気も点けずに靴箱から自分の靴を出した。かすかに届くリビングの明かりだけで、靴を乱暴に履く。

 ふいに、手元が暗くなる。

 ぺた、ぺた、と裸足の足音が近づいてくる。

「……由羽?」

 後ろから、低い声がした。

 ぼくは氷漬けになったみたいに固まっていた。

 誰かが後ろに立つ気配がした瞬間、「ちょっと出てくるね。」と言って大股で動き出す。引き留める声がしたけれど、無視した。

 がらりと引き戸を乱雑に閉めて、つめたい夜風の吹く外へ出る。竹林から響いてくる魔物の声みたいな葉擦れの音が、ぼくを呼び寄せているようだった。


 後ろから追いかけてくるような気配は感じなかった。

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