1章
1 早朝の教室
カーテンを開けると外は真っ白だった。
ここ数日、梅雨が戻ってきたみたいに雨ばかり降っている。八月の後半だから、秋雨って言ったほうがいいのかな。いつもは見下ろせば嫌でも見える竹林も、白い壁に阻まれて全く見えない。
太陽の気配なんて欠片もないけれど、それでもカーテンを順番に開けていけば部屋の中は格段に明るくなった。
最後のカーテンを開けたとき、もやの中から人影が出てきた。肩に担いだ竹ぼうきと、頭の手ぬぐい。庭師の
玄さんって、こんな朝早くから働いているんだ。
ぼんやりと窓の外を見ていると、机の上で電話が鳴った。スマホじゃなくて子機のほう。画面には「リビング」の表示。あくびをかみ殺して、受話器をとった。
「はい。」
「おはようございます、
「うん、そう。」
「朝ごはんの用意、できてますから。早くしないと遅刻しますよ。」
母さんとは違う、女の人の声。「はーい。」と間延びした返事をして、電話を切った。
クローゼットを開けようとして、またあくびが出た。ひさしぶりに朝早く起きたせいかあくびばっかり出る。目をこすりながら、ずっとしまいっぱなしだった制服を取り出した。
今日から二学期だ。
夏休みが終わったとは信じられないくらい、いつもと同じような朝。特に今年の夏休みは学校がないだけの普通の休日と同じように過ぎ去ってしまったから、なおさら実感はない。
去年はまだ友達と夏祭りに行ったりしていたんだけど、今年はあいつの付き合いが悪かったのもあって、ほとんど家か、図書館に行く生活だった。
リビングに行くと、お手伝いさんが「おはようございます」と元気にあいさつをしてくれた。「おはよう。」と返すのに精一杯で、元気な声が出ないのがもうしわけない。二か月前からお世話になっているお手伝いさんは母さんより少し若いくらいで、いまいち、どういう立ち位置で接していいかわからない。今まではおばさんばかりだったから、親戚の人みたいに考えられてたんだけどな。
いや、そこは理由に含まれないかもしれない。
「母さんは?」
「奥様なら昨日から社員の皆さんと視察に行かれていますよ。旦那様は明け方に帰られて、すぐにまたお出になりました。」
「そう。」
ぼくがそっけなく言うと、お手伝いさんは困ったような顔をする。
「さ、顔を洗ってきてください。朝ごはんにしましょう。」
「はーい。」
さっさとリビングを出て、一番近い洗面所に行く。
前までのおばさんだったら、大変ですねご両親ともお忙しくてとかニヤニヤしながら言ってくれて、ぼくも趣味が悪いよサイトウさんとか気軽に返せていたのに。そこまでの家庭の事情に入りこめるほど、肝が据わってないのかもしれない。
両親二人とも浮気をしてるってことは、なんとなくわかっているだろうに。
学校までの道のりは自転車で二十分くらい。そのうち五分は家から県道に出るまでの時間だ。
家自体がどこかの学校かと思うくらい広いのに、あまつさえそれを囲む竹林がある。林っていうより小さな森だ。
迷ったら出て来れなさそうなくらいの面積を持っているから、小さいときは乱立する竹の向こうにある暗闇をちらりとでも見れば、すぐに泣いてしまっていた。じっさい、迷いこんで何度か大人に探しに来てもらったことがある。
迷ったぼくは、この森の中に古くからある土蔵に入ってしまってなかなか見つけてもらえなかった。土蔵の中はよく覚えていないけれど、小さい子が泣いてしまうくらい暗くて、変なものが置いてあったような気がする。
昔からの地主だったという話は聞いているけど、それでもこの敷地はないと思う。下手したら小さな村は一つ入ってしまうんじゃないだろうか。
「おお、
竹林を囲む柵が途切れたところから、竹ぼうきを持った人影が出てきた。長身のひょろ長い作業着は草まみれで、頭に巻いた手ぬぐいも取れかけている。
「玄さん、おはよう。」
「寝坊しなくてよかったな。自転車で行くんか?」
「うん。」
「もう少しで晴れるとは思うが。気をつけて行けよ。」
「うん。行ってきます。」
自転車を押して、竹林の間にのびる石畳の道を進む。少し行って振り返ると、しろいもやにかすむ人影が手を振ってくれた。手を振り返して、すべらないように注意深く歩く。
玄さんは変なしゃべり方をするから声だけ聞けばおじいさんだけど、歳は母さんとそんなに変わらない。確か、母さんの幼馴染だと言っていた気がする。
たっぷり五分は歩いているうちに、周りの緑が濃くなってきた。もやが引きはじめたらしい。県道に出るころにはある程度晴れて、下り坂がよく見えた。そのかわり街のほうはまだもやの中だ。
自転車にまたがって、一応スマホで時間を確認した。大丈夫。ゆっくり行っても間に合う。ついでになにかメッセージが届いていないかチェックする。
今日も、何も言ってこない。
制服のポケットにスマホをすべりこませて、ペダルを強く踏んだ。一回漕ぎ出せば、あとは何もしなくていい。長い下り坂はほとんど高校まで一直線につながっている。
一学期の初めごろは、中学の時と同じように、幼馴染の
何のきっかけでそうなったのか、これといった理由が思い出せないから、決定的な事件は起きていない、と思う。ただじんわりと仲が悪くなっていっただけで。
そもそもあいつがおかしくなったのは六月に入ったころからだった。
いつも無口だけどさらに口が堅くなって、たいてい休み時間ごとにぼくと喋ったりしていたのだけれど、それもなくなってしまった。ありていに言えば避けられていたんだと思う。
夏休みに入ると、連絡はぱったり途絶えた。こっちから何を言っても反応なし。ほかのクラスメイトに聞いてもみんなあいつの行方は知らなかった。
かといって、別に事件に巻きこまれた、とかいうことではないらしい。家の人に聞いたら「長期の旅行に出ています。」って言ってたから。
今日はちゃんと学校に来るんだろうか。
鯉の池と大きな松のある、平屋の日本家屋。ちょうど高校との中間にある秋孝の家の前を通りすぎ、川沿いに出る。家から高校まで、このルートだと一個も信号がない。
川はいつか枯れてしまうんじゃないかってくらい水量が少ないのが常だけど、最近の雨の影響で少しばかり水量が多い。
誰が見てもド田舎。畑と山と小さな町しかない、ぼくらの生まれ故郷。
竹林を歩いていたのと同じぐらいの時間で、高校まで着いてしまった。
駐輪場はいつもより閑散としていて、校内もまだあまり人の気配で満ちてはいない。
下駄箱で靴を履きかえていると、にわかに外が明るくなった。ようやっと霧が晴れてきたらしい。
部活をやっている連中は校庭や体育館にあふれていて、朝練のない部活、そもそも部活をやっていないやつらはまだ学校にいないから、見る教室のほとんどががら空きだ。たまに部活に行ったらしい人の鞄がロッカーの上に放り出されている。
人気のない廊下を歩いて、昇降口から比較的近い一年四組の扉を開ける。
あ、誰かいた。
一番乗りかな、と思っていたのに残念だ。窓際の席に、誰か座っている。
そいつは見慣れない生徒だった。制服はうちの学校の男子の制服。髪はぼくと同じような、ちょっと伸ばし気味のストレート。まさか、転校生だろうか。ちょうど休み明けだし。
雲の間から射す太陽の光をまぶしそうに見ている人影に近づくと、ヤツが座っているのが自分の席だってことに気がついた。
「……あの。」
ひかえめに声をかける。男子生徒が振り返る。
鏡かと思った。
その顔を、知っている。今日の朝見たから。でもなんだか違う。そっか、完全に鏡写しってわけじゃないから――。
「は?」
以外に冷静な声が出た。
相手もつられたのだろう。口の端がちょっと持ち上がった。
「なにがへ、だよ。おはよう、ぼく。」
そいつはにやりと笑って、頬杖をつく。
友人に会った時みたいな口調。まったく同じ声。
ありえない。そんなはずはないのに、
そいつはまさしく、ぼくだった。
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