第35話 最後は酸味とともに
「お前、二十代は本当に大変だったからなあ」
俺は昔を思い出す。
何かと理由をつけて給料から天引きする、残業をつけさせない、バイトにも休みは許さない、トラブルがあっても自分でなんとかしろ……そんな状況でだんだん痩せていく勇を見て、俺は胸ぐらつかんで連れ戻そうと思ったこともある。
厳しい上司の隙をついて、どうやって休暇をとらせるか。そう仲間で思案しているうちに、勇は過労とストレスでぶっ倒れた。
今と違って、男は働いてなんぼの世の中である。二十代にして無職になった勇は、親兄弟からさえ厳しい言葉をかけられた。
「……お前は、なーんにも言わなかったなあ」
「世の中には、流れってもんがある」
「それが一番ありがたかった」
剣道でも、呼吸が整っていないのに攻めかかったら返り討ちにあう。勇には休む時間が必要だった。それだけのことだ。
「
「ん」
「焼きそばが来てる」
「お前はしんみりという単語を知らんのか」
「焼きそば」
感傷は荒ぶる神の本能に敵わない。俺は諦めて、手を伸ばした。
「おお」
俺の気持ちが、明るくなった。皿の上には、ぷっくり丸く膨れた牡蠣と緑の青梗菜、アクセントにフクロタケ。具が多すぎて、下の麺はほとんど見えない。わずかに端から、濃い茶色がのぞく程度だ。
「中華麺にしては、色が濃いな」
「長崎のかたやきそばってのがあるだろ。あの感じだ」
「ああ、そうか」
それなら外は香ばしく、中に柔らかい麺が残っている。とろみのついた餡と、抜群に合うはずだ。
「私の」
「いや、俺たちにも分けろ」
「最初と話が違う」
醜い争いを繰り広げる三人を見かねて、おかみさんが取り皿をくれた。結局三分の二近くひだるに取られ、残りを老体で分け合う形になる。
「では」
「いただきます」
牡蠣、青梗菜、茸、麺。それをひとまみれにして、口の中に放り込む。
最初に、青菜のしゃきしゃきした食感。強火で一気に仕上げるからこそ、しっかり火が通っているのにべちゃべちゃにならない。続いて、牡蠣からしみ出た出汁が俺の舌の上を滑っていった。塩気が絶妙に食欲をかき立てる。
最後に、麺と茸をいっしょくたに噛む。たれを一番吸い込んだ食材たちが、少しだけ残っていた物足りなさを埋め、後には満足感だけが残された。
「うまいなー」
「ソース味じゃないのも、新鮮だよなあ。まさに中華」
『柿ではなく牡蠣とは』
『この悩ましい曲線を見よ』
『まさにミロのヴィーナス』
俺たちにはひと口分しか与えられていないので、あっという間に至福の時間は終わった。後は余韻で身をよじる霊体たちと、残りをぱくつくひだるを観察して暇をつぶす。
「はい、最後にどうぞ」
全員の皿が片付くと、店主が小皿を出してくれる。そこには、切ったオレンジがのっていた。脂っこい料理が多い中華料理の後にこれを食べると、口の中がさっぱりする。
「みかんだ」
「オレンジな」
「みかん」
ひだるは謎のこだわりを見せる。柑橘類はみかんしかないと思い込んでいるようだ。
(昔の日本人の食生活って、どんななんだろうな)
ひだるを見ていると、だんだんそういう興味も湧いてくる。俺は差し支えのない範囲で聞いてみた。
「基本的に朝と夕しか食べない」
「へえ、昼は?」
「時間がもったいないでしょ。明るいときしか、作業できないんだから」
「そうか、電灯もないもんな……」
夜明け前に起きて、日の出とともに農作業開始。そして暗くなってきたら軽く野菜と米を流し込んで終了。たまに収穫がいい年は、干物など魚がつく時もあったそうだ。室町時代なら一汁二菜、三菜も浸透していると思っていたが、意外に質素な感じである。
「いかんぞー。育ち盛りはしっかり三食食べないと」
ダイエットと思い込んだ勇が言う。怒るかな、と思ったが、ひだるはただ静かに受け流していた。思った以上に大人の対応である。
(これで、祟りさえしなきゃな)
俺はひだるを横目で見ながら、考えを巡らせていた。すると、彼女がいきなり振り向く。
「うおっ」
「暁久。話がある」
「な、何だよ」
──やっぱり気が変わったから、今からこいつ呪ってみるわ。
そんなことを言われてしまうのだろうか。俺の心臓が、早鐘を打ち始めた。
「焼き豚持ち帰り、私もほしい」
「……そんなことかよ」
「豚に謝れ」
ぽかぽかと叩かれながらも、俺は胸をなで下ろしていた。
(このまま祟り神にならず、穏やかに成仏してくれればいいな)
俺はいつの間にか、そんな風に考えはじめていた。その予想が、ある日突然裏切られるとも知らずに。
☆☆☆
「ひだるちゃん、いなくなったんだって?」
「……お前はどうして、そういうことを聞きつけてくるんだよ」
俺はカウンターに肘を置きながら、低く唸った。
「
「あの馬鹿孫……」
まだひだるのことを諦めていなかったのか。余計なことを広めないでくれ、と俺は心底思った。
「はい、お待ち」
タオルを頭に巻いた店主が、俺と勇の前に丼をおく。白飯の上に、鰹のたたきとネギをがっつりのせた一品だ。
「暁久さんの方は、卵抜きで」
「ああ、ありがとう」
この前の検診でコレステロールが高かった俺は、卵の摂取を制限している。対して勇はそんなことに興味を持たず、丼の中の温泉卵を嬉しそうに見つめていた。
「何か、きっかけみたいなのはなかったのかよ」
「あったらこんなに悩むか」
妖怪の考えを読もうなどという考えが不遜なのかもしれない。ひだるは本当に、ある日突然いなくなった。
いや、読めないのは妖怪の思考だけではない。
「今度の賞は、経済産業大臣賞なのよ」
「うん」
「あんたに伝わるように言うと、八段から七段に落とされた感じ」
「それは嫌だな」
「色々言われたわ。かつての栄光はもうないとか、一発屋ですらない連中に」
勝ち気な彼女は、黙ってそれに耐える……という軟弱な手はとらなかった。
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