家族が集う洋食屋のオムライスと牡蠣バター 豚カツを添えて
第15話 謎の女
「ひだる」
「終わった?」
「ああ。面白かったか?」
「こいつがおいしそうだった」
主人公が豚の姿になってしまったからって、ひどい言いぐさだ。
「ねえ、豚食べたい」
医院を出てからも、ひだるはずっと言い続けている。俺はため息をついた。
「今日は月曜日だ」
「
「引退した男の痛いところをついてくるなあ、おい」
「豚あ、豚あ」
「大きな声で騒ぐなっ」
俺が注意したのと同じタイミングで、誰かが「ひっ」と声をあげた。そちらに顔を向けると、若い女性が耳を押さえてうずくまっている。
「すみません、大丈夫ですか」
俺とひだる、どちらが原因か分からないが率先して頭を下げる。しばらくして彼女は立ち上がったが、まだ顔がひきつっていた。連れが俺たちに、厳しい目を向けてくる。
「
「
女性と一緒にいたのは、
しかし菫は俺を無視して、ひだるに食いかかっていく。
「初対面の女性に豚なんて、失礼じゃないですか」
「なんの話? 私は豚を暁久にねだってただけ」
ひだるは淡々と答える。悪感情がないし相手に好かれたいという欲もないから、あっさりしたものだ。
「え?」
「どんな食べ方でもいいから豚肉をおいしくいただきたい。暁久はダメって言うから、そちらがおごってくださっても何らやぶさかではないおごれ」
「ち、ちょっと待って」
人外に迫られて、菫がうろたえる。ちょうどいい機会なので、俺は重ねて聞いてみた。
「それにしても菫ちゃん、学校はどうした? 休みじゃないだろ」
「……っ」
痛いところをついたようだ。菫は口元を歪ませ、どう言い訳しようか考えている。
(友達……か? それにしちゃおかしいな)
服だけではわかりにくいが、文奈と呼ばれた女性が身につけている装飾品はいずれもブランド物のジュエリーだ。学生がおいそれと買える価格帯のものではない。
(嫌な予感がするなあ……)
俺は腕組みをしながら、菫と文奈を交互に見ていた。すると唐突に、文奈が走り出す。ヒールを履いているとは思えない速さだった。
「あ、待って!」
文奈を追って、菫も駆けていく。彼女は驚いたというより、明らかにほっとした顔をしていた。
「……逃げた」
ひだるが悔しそうな顔をしてつぶやく。
「まあ、仕方ないか。あれ以上揺さぶっても何も出なさそうだったしな……しかしお前、生気を吸って逃げる相手を止めようとしなかったのは偉いぞ」
俺が言うと、ひだるが動きを止めた。
「偉かった……わけじゃない。怖かった」
「怖い?」
「あれは、おかしなもの。身に入れれば、私も染まる」
ひだるの顔から、笑みが消えている。俺の背中を、寒気が駆け抜けた。
☆☆☆
「そうか、年上の女性と……」
その夜。俺は博正を呼び出し、日中にあったことを伝えた。男関係でなかったことに、博正は初めほっとしている様子だったが、次第に顔を曇らせる。
「たまたま休講だったかもしれないがな。それならそう言えばいい。逃げる必要はないはずだ」
「いったいどこで、そんな女性と知り合ったんだろう」
「聞き覚えはないのか。文奈って名前に」
「全くない……どうして、授業にも出ずそんなところで」
博正は苦悩している。どうして、どうしてと堂々巡りになっていることに、自分では気付いていない。
(克服したと思ったがなあ)
博正は俺より遥かに良い体格だ。上背もあるし、手足も長い。それなのにさっぱり剣道で段が取れなかったのは、精神的なものによるところが大きい。
同じ作業を淡々とこなす、自分が知っていることを教える、そういう作業なら非常に有能なのだが、不測の事態に極めて弱い。今ならばテンパりやすい、とでも言うのだろうか。若い頃は試合に負けるたびに、道場の外で泣いていたものだ。
「博正、落ち着け」
「あ……」
俺が声をかける。博正は、ゆっくりと顔を上げた。
「ひとつずつやろう。まず、菫ちゃんにもう一度当たってみてくれ。俺から聞いたといって、女性との関係を聞き出すんだ。親のお前になら話すかもしれない」
「わ、わかった」
「それでも隠したり誤魔化したりするようなら、俺たちに言え。
「でも、忙しい二人に迷惑は……」
「お前、俺に坊主を紹介したことあったよな。その時、迷惑だと思ってたか」
博正は首を横に振った。
「俺たちも同じだ。だから、頼れ」
「……ありがとう」
でかい体に似合わぬ蚊の鳴くような声で、博正が言った。彼が夜の闇に消えていくのを、俺は見送る。
家の中に入るなり、ひだるがのっそりと顔を出した。
「まだ豚子の話?」
「その呼び方やめい。文奈だ文奈」
「豚子にしては立派な名前だなあ」
覚えるつもりがないとみた。俺に怒られるのを察知して、素早く部屋の隅に消える。その様を見て、俺の頭にある考えが浮かんだ。
「ひだる。文奈のにおい……みたいなものは分からないか。お前なら姿を消せるし、近距離にいればどこでも見つけられるんじゃないか」
「あの匂いは忘れようがないけど。それでも嫌」
「とっておきの豚カツを食わせてやるぞ。人気の老舗のやつだ」
ひだるの肩がぴくっと動いた。
「しにせ……?」
「おかわりも許そう。追加で俺おすすめの牡蠣バターをつけてもいい」
「け、ケチな暁久が追加を許した?」
「さあどうする!! 牡蠣は冬季限定だ、この時期を逃せば来年まで待ちだぞ!!」
「あ、悪代官め」
俺が煽りに煽ったおかげで、ひだるは捨て台詞を残して消えていった。やる気になったのだと判断し、俺は電話で勇と浩一に協力を依頼する。
「さて、誰が一番はじめに情報を持ってくるかな」
俺がゆったり座布団に腰を下ろしていると、電話が鳴った。
「はい」
「ああ、元気そうね」
「お前もな、貴久子」
妻からの国際電話だった。フラフラしているが、たまにこうして電話をかけてくる。
「ちょうどよかった。聞きたいことがある」
俺は、文奈が身につけていた装飾品の額を聞いてみた。
「そうねえ。カスタマイズしてなきゃ、全部で五百万前後ってとこじゃない?」
「だよなあ。実は……」
頭の中で組みたてていた仮説が実証されて、俺は気が沈んだ。博正一家は貴久子も知っているため、これまでのいきさつを話す。
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