戻っていくのはいつもの居場所

第36話 鰹の余韻がぶち壊し

「海外賞よ。まだ日本人がグランプリを取ったことのないところに挑戦するわ」


 そう高らかに言い残して、貴久子きくこは海外を走り回る生活を始めた。俺はそれを止める術などなく、今でもほとんど会わない状態が続いている。そんな風に女には弱い俺だから、愛想を尽かされたのか。


「女に二人も逃げられてさびしい?」

「そういうんじゃない」


 自分に憑いていた相手が、突然いなくなったのだ。どこで何をしているのか、気になって当然ではないか。……それを寂しいと言うのだろうか。


「そういえば、博正ひろまさはどうした。最近見ないな」

「元気は元気なんだけどよ。糖尿の検査に引っかかってな」


 幸い重症ではなかったものの、食生活や薬の指導のために入院することになったという。


「あいつなら、何か知ってると思ったのに」

「なんでアレが美少女の動向を知ってるんだよ」


 ひだるの正体を知らないいさむは口を尖らせるが、俺は無視した。


(……一回、見舞いに行ってみるかな)


 道場で聞けば、誰か入院先を知っているだろう。


「おい、まずくなるぞ」

「ああ、すまん」


 集中するあまり、丼のことを忘れていた。それではせっかく作ってくれた店主に失礼である。


「いただきます」


 俺は丼に向き合った。鰹にネギをのせて、白米と一緒に口に入れる。さっぱりした醤油ベースのたれと、肉厚な鰹が絶妙なバランスだった。


(魚の身がぶ厚いのに、サクッとかみ切れる)


 魚は古くなればなるほど、ゴムのような変な弾力と生臭さが出てくる。ここのはそれがまるでなく、口の中からあっという間になくなった。


「ぬた、使うか?」

「ん」


 俺がうなずくと、勇からチューブ容器が回ってきた。


(そうそう、これこれ)


 容器の中には、黄緑色のペーストが入っている。最初に見た時は、何かと思ったものだ。


「土佐ぬた……」


 ニンニクの葉、味噌、酢を混ぜて作った土佐の調味料。主張が強いので淡泊な食材には向かないが、鰹に合わせると酸味とうま味のバランスがたまらない。勇はぬたまみれにして鰹を食べるが、俺はアクセント程度にするくらいが好きだ。


「ふー」


 残り三分の一くらいになったところで、俺は手を止める。この店にはもう一つ、お楽しみがあるのだ。


「だし、俺が先」

「……好きにしろ」


 カウンターに大鍋が置いてある。この中には鰹出汁が入っており、丼の残りをお茶漬けにして締めるのが最高なのだ。


 残ったご飯と鰹に、淡色の出汁をかける。温かい汁を受けて、鰹がほんのり白くなった。


 冷めないうちにかきこむ。熱でほぐれ始めた鰹が出汁と混じって、もう一杯いけそうな気すらしてきた。


「大にすればよかったかな」


 勇も同じ事を考えていたらしい。


「でも、もたれるからなあ」


 丼のサイズは大・中・小あるのだが、いつも『大』を注文するのをためらってしまうのだ。


「食い残すのも悪いし。ひだるがいればいいが──」


 俺は自然にそう言ってしまった自分に驚いた。


「んぐ」


 咳払いでごまかす。いつの間にか妖に、頭の中を浸食されているようだ。



 ☆☆☆



 それからさらに一週間たっても、ひだるは帰ってこなかった。俺はようやく腹を決める。


 ほぼ年寄りしかいないバスに乗って、博正がいる病院に向かう。詳しい場所はわからなかったが、同乗していた老人たちが一斉に向かう方へついていったらすぐに見つかった。老人たちはぞろぞろと、建物へ吸い込まれていく。


 面会のために受付で名前を記入し、病室へ向かう。待合でも老人、エレベーターでも老人、室内も老人。なんだか生気を吸い取られているようで、俺はげんなりした。


 とどめに辿り着いた部屋をのぞいてみると、本人がいなかった。


「ああ、玉利たまりさんでしたら……今、栄養指導中ですね」


 うろうろしている俺を見かねて、若い看護師が声をかけてくる。


「いつ終わりますか」

「その方次第になりますので、ちょっと……」


 粘っても具体的な時間はわからなかった。


(仕方無い、出直すか)


 粘っても得るものはなさそうだ。俺は諦めた。


(さて、どうする。本屋にでも寄って帰るか?)


 そう思いながら俺が病院を出かけた時、後ろから声をかけられた。


「待たれよ」

「は? 俺?」

「玉利氏からお聞きした。伊藤いとう殿か」


 袈裟をまとった、年配の坊主が立っている。しかし、最初に来た人間とは別人だ。彼の全身から、わけのわからない自信がにじみ出ていた。


「『祓い』の件でお話が」


 俺はしばし坊主をにらみ、そしてうなずく。こいつの話を聞いてみよう、と思った。



 ☆☆☆



「貴殿にとりついていたのは、強力なひだる神であった」


 病院近くのファミレスで、塔のように積み上がったパフェにスプーンを突き刺しながら坊主が言った。ものすごい勢いで、アイスクリームが減っていく。


「はあ」

「祈ること三十万回、ようやく奴の首根っこをとらえることに成功しましてな。いや、骨が折れました」


 坊主はにわかに真言を唱え始める。ウエイトレスが、心底嫌そうに振り返った。


「お困りだったでしょうが、もう心配はいりませんぞ」

「……はあ」


 話のつじつまは合っているし、実際ひだるは消えてしまった。しかし俺は、割り切れない返事をする。


「ということで……布施を」

「あ?」


 話に乗り気でない俺を置いてきぼりにして、坊主は慣れた手つきで計算を始める。


「経費もろもろ、しめて三百万なり」


 俺は飲んでいた珈琲を吹きだした。


「もちろん、分割も承っておりますぞ。とりあえず、手付金をいくらかいただければ」


 坊主はもみ手せんばかりだ。俺は卑屈な笑みを浮かべてみせる。


「やってくださったことはありがたいんですがね。老人なもので使い道もなくて。ここの支払いを除くとバス代くらいしか持ってないんですわ。じゃ、これで」


 俺は坊主の目の前で、財布をひっくり返してみせる。散った小銭を数えてみると、二百九十七円あった。


「どういうことですかな」

「どうも何も、今言った通りですよ。これしかないので。見ます?」


 俺は財布を広げてやった。食い入るように見つめる坊主の顔が、徐々に赤くなっていく。散った小銭をかき集めたのは、さすがの根性だが。


「そ、それでは後日回収に参ります。ご自宅は、玉利氏から聞いておりますので」

「はあ、じゃお先に失礼します」

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