第18話 女には過去がある

「今から問い合わせてみますか」

「できるのか?」

「社員の健診を一部請け負っています。知り合いに当たればいけるでしょう」


 浩一こういちは慣れた手付きでスマホを操り、電話をかける。


「ああ、児玉こだまクリニックの浩一です……武田たけださん、お久しぶり。ちょっと聞きたいんですが、上山文奈かみやま ふみなって従業員はそちらにいますか」


 しばらく間があいた。浩一の眉間に、徐々に深い皺が寄る。


「……いるけど、今日は無断欠勤してる?  携帯もメールも返信なし? 」

「おかしいな」

「浩一、家に行ってみよう。住所聞き出せ」

「車とってくるわ」

千代子ちよこ、みんなの会計。すみれは家に帰れ」

「わかりました」

「嫌よ、絶対私もついてく!」


 平日の静かなファミレスが、一気に騒がしくなった。



 ☆☆☆



「……はあ」


 絶対に今日、やりとげると決めていたのに。自分の優柔不断さが、つくづく嫌になる。


「なんでノブが取れるのよ」


 そこそこの家賃を払っているはずなのに、ロープをかけたノブは体重に耐えきれず、呆気なく落ちた。ばきっ、という音とともに私のやる気も挫けてしまい──死ぬのは午後に持ち越しになっている。


「はあ……」


 今まで失敗ばかりだった。それなのに最後だけうまくいくなんて、楽観的に考えすぎだったのだ。


 また気分が暗くなってきた。テーブルの上に置いたワイン瓶に、自然と手が伸びる。


 しかし指先は空を切る。


「え?」


 絶対に届くところに置いてあったはずだ。私は目にかかる髪を払った。


 次の瞬間、自分の目を疑った。制服姿の女の子が、瓶からワインを一気飲みしている。あまりに豪快なので、途中で止める気すら失った。


「ぶはっ。美味しくないな」


 一本十万円した高級ワインを、彼女は遠慮なく切り捨てる。白い口元に垂れた赤ワインが、血に見えた。


「だ、誰……?」

「あんたが上山文奈?」

「そうだけど」

「よしよし。みっしょん達成。暁久あきひさにおごってもらおう」


 全然向こうは人の話を聞いてくれないのに、こちらは答えさせられている。その理不尽さに、私はある人物を思い出していた。──実の母親だ。


『あら、立派な娘さんね』

『将来安泰じゃない。いいわねえ、上山さんとこは』


 世辞で言われた言葉に、いつも母はこう返していた。


『そうねえ、もう少し経てばやっと安心できるわ』


 それを横で聞くたびに、暗い気持ちが胸を覆った。私には最初から、母と離れて暮らす人生など許されていないのだと、事あるごとに思い知らされる。


 大学進学すら拒まれそうだったが、将来の安定性を盾にようやく公立校への入学を認めさせた。


 彼氏探しもサークル活動もせず優秀な成績をおさめ、やっと有名企業に内定……それでも自宅から出るのに、三年を要した。残業を実際より多いと見せかけるため、ネットカフェの常連にまでなってようやく独り暮らしを勝ち取ったのだ。


 それでも母は、頻繁に電話をかけてくる。


 ねえ、文奈ちゃん。


 最近体が痛いの。どこか病気じゃないかしら。


 年金がようやく入ったのに、聞いてよこの額。これでどうやって暮らせっていうの?


 近所の人がね、娘さんどうしたんですかっていつも言うの。あなた、かわいがってもらってたものね。


 ねえ、文奈ちゃん……


「うるさい」


 わかっている。どの言葉も、「それなら実家に戻るよ」という反応を期待されたものだ。


 だから、必死ではぐらかす。明日も仕事があるのに、私は何をやっているのだろうと思いながら、相手が電話を切るのを待つしかなかった。


 それが嫌だった。嫌だったから、死のうと思ったのに。


「うるさい……ねえ」


 少女の声がして、はっとした。そうだ、ここにいるのは母ではない。玄関の鍵が壊れたから入ってきただけの……赤の他人だ。


「人の声が嫌いなの? それならどうして、菫の話を聞いたりしたの」


 なぜ、この子は菫のことを知っているのだろう。理性が問いを投げてきたが、アルコールで暴走した感情がそれを押し流した。


「どうしてって……」


 十代後半、私は食べまくっていた。それは母との生活からくるストレスだったのだと、今なら分かる。しかし当時はそんなことも分からず、ひたすら喉の奥へ食べ物を流し込んでいた。


 当然、ブクブク太る。ついたあだ名は「豚」だ。高校生ながら健康診断にひっかかり、母の反対を押しきって検査入院となる。


 まだ若く、大した病気もないのに入院した。そんな外面の悪いことを母が公言するはずもない。親の管理を問われるからだ。濁してものを言うものだから、私は他の人からガンだと思われていたに違いない。


 だから、あの人も声をかけてきてくれたのだ。


「うつむいてるけど、吐き気かしら? 看護師さんを呼びましょうか?」


 その時私は、中庭のベンチでひたすらうつむいていた。穏やかな言い方に、思わず顔を上げる。笑みを浮かべた菩薩様のような初老女性が、そこにいた。


「い、いえ。大丈夫です」

「そう、良かった。ごめんなさいね。私がよく気持ち悪くなってたから、他人もそう見えるの」


 大丈夫な顔なんて、していなかったと思う。その時は本当に何もかもに嫌気がさしていたのだから。それでも彼女は、私の意見を尊重してくれた。


「……何で気持ち悪くなるんですか?」

「抗がん剤よ。見つかった時にはステージⅣだったから、もう手術できなかったの。リンパや骨にも転移してるから、もって半年かしらね」


 その人は、やけにあっさりと病状を口にした。あまりに軽快なので、聞き間違えたかと思ったほどだ。


「あの、ごめんなさい。変なこと聞いて」

「いいのよ。もうすぐいなくなる人間ですもの。──だから、どんなことを聞いても大丈夫」

「え?」

「人にはひとつやふたつ、愚痴りたいことがあるでしょう。私はたいていここにいるから、壁の煉瓦だと思って利用してくださって結構よ」


 どう答えるのが正解か、わからなかった。だから、その場から逃げ出した。


 後に、彼女の生い立ちを聞くことができた。おしゃべりな人間は、どこにでもいるものだ。


 裕福な家のお嬢さんだったが、夫が愛人と借金を作って失踪。残された子供をひとりで育ててきたが、その子は十年前に飲酒運転の車に轢かれて亡くなったという。


(自分はなにも悪いことをしていないのに……どうしてそんな運命なんだろう。なんで笑っていられるんだろう)


 比べるのも失礼な境遇だったが、私は彼女に興味を持った。逃げたにも関わらず中庭の彼女に、再び近づく。



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