第2話 貪欲なひだる神

 竹刀を構えたまま、擦るように右足を踏み出す。踵を浮かせたままの左足を引き寄せ、基本の構えに戻った。「送り足」の稽古だ。


「伊藤。剣道では何が一番大事だと思う?」

「えー……竹刀を振る腕の力、かな」

「一に眼、二に足、三に胆力。力はようやくその後だよ。伊藤、うまくなりたかったらよく観察すること。特に上級者の足を見なさい」


 俺を指導してくれた先生は、かつてそう言っていた。その教えを愚直に守っていてよかったと、今身に染みて思う。続いて開き足・歩み足の稽古も行い、ようやく素振りに入った。


 背筋を伸ばす。右足を前に踏み出し、竹刀の先が尻に付くほど大きく振った。そしてまっすぐに下ろす。左足を引きつけながら、床に剣先が近づくまで動かした。それを何度も繰り返す。


「うん」


 自室を改造して作った、練習室。竹刀を振りかぶってもかすらないように天井が高く、板間で道場と同じように動ける。大きな鏡もつけて、基本の素振りがぶれていないかチェックできるようにもした。


 ただまっすぐ上げて、まっすぐ下ろす。それだけのことが、どうしてこんなに難しいのだろうと、時々思う。初心者はこれをバカにするが、きちんとできるものなど皆無だ。だから最初は竹刀も持たせず、両手を合わせるだけで振りの訓練を行う。


 歩いても歩いても、先が見えない。俺は運良く、一度も試験に落ちないまま八段と呼ばれるようになった。最年少──四十六歳の八段ということで、地方紙にのったりテレビが取材に来たこともある。それでも、純粋な喜びが継続したのは三日ほどだ。


 やればやるほど、もっと改善しなくてはと思う点が増えていく。八歳から始めた剣道は、今や五十七年目。大学も会社もそれで入ったようなものだし、妻も息子も友人たちも口をそろえて俺を剣道バカだというが、それでも剣の頂は遥か遠くだ。


「終わりにするか」


 いつもより早いが、もうしばらくしたらひだるが起きてくる。終わりにした方が賢明だろう。俺は頭を振って、迷いを払った。


 竹刀を腰の高さまで引き上げる。左膝を床につけ、次に右もそれにならう。膝立ちになってから正座になり、静かに竹刀を下ろした。両手を太ももの上にのせ、息を吸う。


「今日も、ありがとうございました」


 場に、人に。そして無理を叶えてくれる己の肉体に。三つの存在に感謝して、いつも俺の稽古は終わる。


 掃除を終えて寝室へ戻ると、美少女がしきっぱなしの布団を食べている。何を言っているんだか自分でも分からないが、木曜日になるといつもこうだ。


「ひだる」

「まむまむ」


 口の中に布団を詰め込んでいるから、何を言っているかわからない。


「うまくないだろう、そんなもの」

「噛んでると味がする」


 ここに来てから大分経つのに、死んだ頃の記憶が消えないらしい。


 人の姿をしているが、彼女はひだる神──飢えて死んだ者が集まってできた妖(あやかし)なのだと再確認する。成仏できない魂たちをまとめている人格──俺はそれをひだると呼んでいた。


 彼女は室町と呼ばれていた時代の生まれで、農家の三女として生活していた。その頃、長男以外の存在は決して歓迎されていない。ましてや体力に劣る女の子、ということで、普段から常に後回しにされてきた。


 状況が決定的に悪くなったのは、ある年の夏。嵐……今で言う大型台風が、村々を直撃したのだ。川が氾濫し、田が流される。わずかな収穫に頼って生活していた一家は、たちまち食うに困った。


 それに加えて、下水が広がったことで感染症が流行。食べられなくて体力が落ちていたひだるは、あっという間に病に倒れた。貧乏なりに看病してもらえた──と思いきや、全くそうではない。


「汚い。長男に穢れがついたらどうする」


 実の父親の鶴の一声で、彼女は納屋に移された。ろくな手当も受けず、食料もないまま死んでいくまで、そう時間はかからなかったという。


 恨んだ。彼女はぐずぐずと、世の中の全てを呪った。


 よほど意思が強かったのか、彼女は五百年近く魂のまま彷徨っていた。その根性がようやく評価されたのか、死後五百年……一九六○年代になって妖として二度目の体を得る。


 時は戦後復興期。豊かになり、レジャーと称して日本人が山や川にくり出した時期だ。彼女は時に彼らを襲い、時には脅かし、時には持ち物をぶん取り──まあ、たちの悪いことしかせずに数十年暮らした。


 そうやって徐々に力を蓄えた彼女は、ある時こう思ったという。


「街の方が、いっぱい人間がいてお得なのではなかろうか」


 意を決して人里へ移動してきた彼女──ひだるが、たまたま姿を現したのが我が家だった、というわけだ。最初にへまをやってしまい、俺は彼女にとり憑かれたまま日々の生活を送っている。


「暁久。早く行かないと食べられなくなる。みんなが困る」


 ひだるは、普段俺に干渉してこない。妖や死んだ魂がそばにいても、体調を崩すことはない。現役で稽古に励み、弟子たちから「ラスボス」「魔王」「名前を呼んではいけないあの人」と様々な愛称をいただくことができている。……うん、泣いてない。泣いてないけど。


 しかし、それには条件がある。週に一回、うまいものを食わせることだ。


 実体を持ち、食事までこなせるのはメイン人格であるひだるだけだ。しかし彼女が食べたものは、内にいる成仏できない魂にも共有される。魂たちはそれを限りなく楽しみにしていて、現代人はまずやらない派手なリアクションをしてくれる。霊感がない人間には全然見えないのだが。


 年金暮らし、たまに悪友が経営する道場でバイト。この経済状況ではそんなに高いものはおごってやれないが、彼女たちは大変満足しているようだ。昔は一生食べられなかった大ご馳走を毎週食べていると思えば、現代人は贅沢だ。


「暁久が着替えるまで布団食べてるから」

「はいはい」


 さっさと外に出ないと、大事な布団がよだれでべたべたにされてしまう。俺は素早く寝間着を脱ぎ捨て、息子が買ってくれた軽装に着替えた。そして妖と共に、家を出る。


「何が食べたい?」

「はんばーがー」


 年寄りにはキツいものに興味を示している。ひだるは昔ながらの日本食や野菜食にはほとんど食いつかず、カロリー高めのものが大好きだ。


 見た目は可愛い女子高生なのに、コメントはほぼぽっちゃり芸人と変わらない。料理番組を見ていて、「ここでいらない油を捨てましょうね」と言ったアナウンサーに罵声を浴びせていたこともある。


 俺の好みは正反対で、できるだけ素材の良い物をシンプルに調理していただきたい。そこに美味い酒があれば、言うことなしだ。


 しかし、主導権を握るのはあくまでひだる。満足させてやらないと祟られるので逆らうわけにはいかないのだ。……後で、胃薬買っとこう。


「通りにモクドあったな? あそこでいいか」

「イヤ」

「何故だ」


 専門チェーンを紹介したのに、にべもなく断られる。


「今日はここへ行きたい。この前、直己にねだったけど無理だった」


 ひだるは器用にスマホを操り、店のホームページを出してきた。最初は文字も読めなかったのに、ここ数ヶ月で急速に成長してきている。もともと、地頭が良いのだろう。


「なるほど……個人がやってる本格的なとこか」


 米粉パンに国産肉のハンバーグを贅沢に使用したバーガーセットは、一番安くても千円の大台に乗っている。確かに中学生の小遣いでは辛いだろう。あいつ、好きな女子にはおごりたがるしな。


「うまそうだな」


 今まで全く興味がなかったが、この店の写真には心が動く。パンの狐色に始まり、チーズの黄、ハンバーグの茶、レタスの緑にトマトの赤。鮮やかな具材が重なって築かれたタワーは、普段食べない者の目から見ても美しい。付け合わせのポテトが少量なのも俺には望ましかった。


「よし、行くか」


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