第8話 美味に目覚めた妖
「俺にはさっぱり分からねえけど、まだいんのか、その『ひだる』って奴は」
稽古を終えてから、
「……いるよ」
俺は差し入れからいくらかとって、卓の上に置いておく。
「なんだ?」
「庭に出しとく。実際に食うんだよ、あいつは」
こっちが見ていると手を出さないが、庭から目を離すといつの間にかなくなっている。
「引っ越してみたらどうだ?」
「それも考えた」
しかし、僧は『俺』にひだる神が憑いていると言っていた。それなら、住居を変えたところで無駄なあがきだろう。
「救いは、思ったほど食わないってことだな。大抵じっとしてるからかもしれん」
俺が捧げる量は一人前に足りないくらいだが、ひだる神は大人しくしている。食物をやっているおかげか、あれから外出についてくることもない。奇妙な共同生活が成立していた。
「はじめはただ怖がってたけど、もうしょうがねえと思えてきたしな」
「人生、慣れだな」
「ああ」
どうにもならない時はじたばたしない方が良い、と経験からわかっている。そのため、焦りはなかった。長く生きていると、意外な恩恵があるものだ。
「どうだ、一杯」
「そうするか」
勇は外を指さして言う。気分転換がしたかった俺は、それに乗っかった。
☆☆☆
飲んで食べて、その夜は少し帰りが遅くなった。俺が家の門をくぐると、黒い煙が陣取っている。ご丁寧に人の形になって、仁王立ちだ。
「遅カッタナ」
「しゃべれたのか……」
「私ヘノ貢ギガ遅カッタ理由ヲ述ベヨ」
帰りが遅れたのを咎められている。女房にもされたことないのに、と俺は心の中でつぶやいた。
「外にメシを食いにいってたんだ。ついてこないのかよ」
「前デ懲リタ。人多イ、私ハ疲レル。何ガ楽シイ?」
困った引きこもり妖と化していた。
「店が色々あるんだ。俺が作るより上等なものが食える」
「オ前ノモ良イ」
「どうも。妖も世辞が言えるんだな」
今日のひだる神は、言動が人間じみている。酒が入っていることもあり、俺も気さくに話ができた。
「そういうわけで、夕飯は作らないからな。かわりにこれを食え」
俺は寿司折をひだる神に渡す。
「カタイ」
「包みごと食う奴があるか。中だ中」
俺は折を解いて、寿司に醤油をたらす。ひだるは折の中身を口にした瞬間、固まった。
(なんだ、好きじゃないのか)
今まで何でも平らげてきたひだる神だったが、苦手なものもあるようだ。
(もしくは見たこともないか……だな)
この形の寿司は、近世にならないと出てこない。それ以前の生まれなら、存在自体を知らない可能性もあった。
さてどっちかなと俺が考えていると、ひだる神の体から白いものが浮き出てくる。それは、人の形をしていた。
(まさか、成仏?)
寿司ごときでなんとかなるなら、坊主の心配は無駄だな……俺がそう思った時、白い人影が動き出した。
舞っている。優雅な日本舞踊というより、適当な振り付けの盆踊りだが。
(えらくテンション高いな、この白いの)
とても恨みを抱えて死んだと思えない弾けっぷりに、俺は毒気を抜かれる。技術もなにもない動きに、集中して見入ってしまった。
『我が魂生に悔い無し』
最後に大きく両手を広げ、白い人影が消える。すると、今度はひだる神が動き出した。
「……ウ」
「成仏しないのかよ。あの白いのもお前の一部か?」
「ウマイ」
ひだる神は、俺の話を聞いていない。いつもの小食っぷりが嘘のように、次々と寿司を飲みこんでいった。
そんなに寿司が好きなのか、それとも実は俺の料理ってものすごく微妙だったのか。複雑な思いを抱えたまま佇んでいると、ひだる神が頭を上げた。
「外デ、イツモコレ食ウ?」
「いつもじゃない」
俺が外食するのは、せいぜい週一度だ。そう説明しても、ひだる神はひるまない。
「我モ行ク。食ウ」
「無理」
「オ前ノ行クトコロ、我モ行ケル」
「人、苦手じゃなかったのか」
「モウ平気」
ひきこもりがやる気を出しているが、詰めが甘い。
「思い出せ。お前は、ほとんどの人間には見えてないんだ」
ひだる神はわずかに唸った。
「だからやめとけ。店も、見えない客に給仕するほど暇じゃないぞ」
俺が二人分注文すれば済む話だが、自分に都合の悪いことは黙っておく。外食でばかばか食われる出費は避けたい。
「グムウ……」
ひだる神が困っている。何度呼びかけても、同じ姿勢で固まったままだ。らちがあかないので、俺は勝手に寝ることにした。
☆☆☆
「くぁ」
浅い眠りから覚めた俺は、伸びをする。そして枕元にあった着替えに手を伸ばした。
「ん」
しかし、一番はじめにまとう肌着がないことに気付く。他が全部揃っているのに、腹立たしい。
「ち、俺も呆けたかね」
「
「らくだ色だ」
「らくだって何」
「どこの誰だ、らくだも知らんとは……」
俺は寝間着姿のまま、あることに気付いて凍り付いた。一人暮らしの家なのに、何故他人の声がする?
後じさり、声の主から距離をとった。
「何、その顔」
部屋の隅で、俺をにらんでいる少女。それはしばらく前に、自分をつけ回していた存在そのものだった。
「お……おま……」
「悪い、暁久。俺、昨日小銭入れ忘れてっただろ? お前が持ってるって居酒屋の人が」
俺が震えていると、外から勇のばかでかい声がする。ひだるが鬱陶しそうな顔のまま、障子を開け放った。
勇が赤くなったり青くなったりを繰り返す。そしてようやく、こう言った。
「暁久……お前、そんな若い美人となにをっ。
「何もしてない!!」
必死で弁解していた俺だったが、途中であることに気付いた。
(こいつ、ひだる神が見えてる……!)
前の時は、彼女に誰も気付かなかった。なのに、今回はしっかり認識されている。
(どういうことだ?)
勇になにかあったのか、と俺は勘ぐる。
「いや、その人は普通。私が変わったの」
ひだる神が自分を指さしながら言う。
「前は華やかな男が良かったけど、普通の良さに気付いたの私……ってことか!」
勇が変な方向に解釈する。
「畜生、みんなに言いふらしてやる-!!」
勇はそう吐き捨てると、還暦過ぎとは思えぬ速さで走り去った。寝間着の俺は追走するわけにもいかず、ただ呆然とするしかない。
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