第19話 キレる老人

 最初は並んで座るだけ。そして徐々に、母への愚痴を吐き出すようになった。


 彼女は「そんなことを言ってはダメ」「孝行しなさい」とは決して言わなかった。時には一時間近くに及ぶ話を、辛抱強く聞いてくれたのだ。ただ聞いてくれる、それだけでこんなに心が安らぐのだと、その時初めて知った。


「……なんでですか?」


 一方的に甘えるだけの関係。それを続けさせてくれるのはどうしてか。ある日、とうとうそれを彼女に問うた。


「私も、同じことをしてもらったから」


 それが答えだった。


「今でこそ、こんなにのんびりしてるけどねえ。病状が分かった時は、泣いてわめいて大変だったのよ。そんな時に──ただ話を聞いてくれた人がいた。彼はもう先に逝ってしまったけどね」

「……そんな」

「だからいいのよ、気にしなくて。ただのおせっかいだから。でもあなたにもしも余裕が出来たら──他の誰かに、返してちょうだい」


 そうすれば、天涯孤独になった自分でも、この世のどこかとつながっていられる気がするから。彼女は言った。


 その会話から一週間後、私は退院した。それからあの人には、二度と会っていない。


 いつ死んだか。

 どうやって死んだか。

 どこに眠っているのか。


 それすら知らないけれど。


「……私は、あの人の娘になりたかった」


 だから、最後の頼みを。一回しかされなかった頼みを──実行したのだ。そうしたら、もう生きていく理由がなくなったように感じた。


 実母には何も残したくなかったから、貯金を無理矢理使い果たした。欲しくない高級ブランド、味がわからないワイン。そういうものに囲まれて死ぬのが、自分には似合いだと思った。


 ……それなのに、今この部屋には異物がいる。


「あ、『ろーすとびーふ』だよねこれ。ちょうだいちょうだい」

「……もう帰ってくれません?」

「個人的にはそうしたいんだけどねえ。暁久あきひさが、こっちに向かってるから」

「さっきから話に出てくるその人、誰ですか!?」


 思わず怒鳴る。しかし少女は、面倒くさそうに指をなめてこう言った。


「諦めなよ。みんな、文奈ふみなを死なせたくないみたいだから」



 ☆☆☆



「ここか」

「よし、降りろ!」

「管理人に話を通してきます。玄関が開いたら、動ける人間はエレベーターへ直行してください」

「了解!」


 浩一こういちが管理人室に消える。俺たちはじりじりしながら、玄関扉が開くのを待った。


「突入!」

「七〇五ですよ、間違えないで!」


 一目散に目標階へ。そして上山文奈かみやま ふみなの部屋へ雪崩れ込む。何故か玄関のノブが壊れていたが、そのおかげで言い訳を考える必要がなかった。


「文奈さん!」

「上山さん、返事してください!」


 ワンルームの部屋は仕切りがなく、玄関から窓まで丸見えだ。俺はすぐに、文奈を見つけた。彼女は初めて会った時と同じように、耳を押さえてうずくまっている。


「生きてる」

「しまった、デカい声はだめだったか」

「……今は、そういう問題じゃない」

「ひだる!!」


 しれっとワインをむさぼっているひだるを見て、俺の拳に力が入る。


「見つけてたのか!」

「まあね」

「連絡入れろ!!」

「そうしようと思ったんだけど、話が長くて。でも、いい時に来たね」


 ひだるはそう言って、形のいい顎をしゃくった。その先にある電話が、鳴り続けている。


「これが怖いみたいよ」


 俺は反射的に、受話器を耳に当てた。


「文奈ちゃん? 遅いじゃないの。どうしてすぐに出てくれないの?」


 全身に粘りつくような悪意を感じた俺は、反射的に電話を切っていた。


「どうしたんだよ」

「キモかった」

「暁久がそんなヤングの言葉を!?」


 驚くいさむ。その横で、また電話が鳴った。そのうち諦めるだろうと思っていたのに、一向にコール音がやまない。


「……もういい加減にしてよ!! いつまで私に指図すれば気が済むの!!」


 電話に負けじと、文奈が叫んだ。


「嫌いなの!! 昔から、あんたなんか大嫌い!!」


 叫び続けて、声がかすれる。それを横で聞きながら、俺は再度受話器をとった。


「えーと」

「あんた、誰よ。娘とどういう関係なの?」

「彼氏です」

「は!?」

「はああああああ!?」


 母親より、周りがうるさい。設定に無理があることは分かっていたが。


「文奈さんからの伝言です。もういい加減にしてくれ、あんたなんか昔から大嫌いだと。歳食っても娘の動向にしか興味がない枯れた女は可哀想ねー、そのまま惨めに死んでいけクソババア」

「……暁久、文奈はそこまで言ってない」


 失礼、本音が少々。


「文奈ちゃんがそんなこと言うわけないわ。あんた、文奈ちゃんをどうしたのよ。出しなさいよ、変態!!」


 受話器から耳を離しても分かるくらいの金切り声がした。俺は眼で、文奈に合図を送る。


「どうします?」

「あ……」

「今ならやり直せますよ、全部俺のせいにすれば済む。後はあなたに任せます」


 文奈は大きく息を吸った。小刻みに手が震えている。


「文奈さん」


 博正ひろまさ一家が、文奈に近づく。背中を守るように、三人が並び立った。


「文奈」


 ひだるが口を開く。


「今までがどうあれ、あなたは生きてる。そしてかつて救ったものが、今度はあなたの背中を守っている」


 文奈が振り返った。ひだるがうなずく。


「私は、あなたが羨ましい」


 ひだるの言葉を聞いて、文奈の眼に光が戻った。俺の手から、受話器をとる。


「……お母さん。そういうことだから、もう電話してこないで。私は勝手に、幸せになるから」

「なんですって!?」


 審判は下された。勇気を振り絞った文奈は、腰が抜けてしまいへたりこんでいる。……喧嘩を売った以上、締めるのは俺の役目だろうな。


「というわけですんで。しつこく俺の女を脅さないでもらえます? 終いには組長が動きますよ」

「く、組長?」


 俺は手招きで博正を呼んだ。さすがに本番に弱い男も、今までの流れは飲み込んでいる。


「……おう。ウチの連れに用か」


 思い切りドスを効かせて放たれた言葉。状況を知っている俺でも、迫力に息をのむほどだ。さて、相手はどう出る。


「切れた」


 博正が困惑した顔で、俺に受話器を戻す。どうやら、終わったようだ。


「ぱちぱち。はい、みんな拍手」


 ひだるに促され、全員が無理矢理拍手をする。しかし明るい音を聞いていると、自然と気持ちが上向きになってきた。


「暁久は相変わらず本番に強いなあ」

「確かに」

「でもいいのか? 組長なんて言っちまって」

「嘘はついてない。町内会長かつ一組組長、平井勇ひらい いさむはお前だろ」


 組にも色々ある。ドスを振り回す強面の組長を想像したとしたら、映画の見すぎだろう。

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