檸檬色の夜は、思い出さなくていい②
ぐつぐつと、食欲をくすぐる音を奏でるつみれ鍋を眺めながら、僕は八対二くらいの弱気割りレモンサワーで喉を鳴らしていた。
つい最近、酒に飲まれて、これ以上ないほどみっともない醜態を晒していた女性に出会ったおかげで、僕は飲酒に対してだいぶ慎重になり始めている。
その僕に対して、お手本のような反面教師として痛烈に記憶に残っている件の女性こと、ポン姉さんは今頃どうしているのだろうか。
ラーメン屋を出た後、僕は強制的に電話番号をレシートの裏に書かされることになり、その日僕が使った諸々のレシートを全て握り締めてポン姉さんは夜の街に消えていってしまった。
少し心配で、宿泊先まで送ろうか迷ったけれど、筋金入りの小心者である僕はその言葉を言い出せず、結局ポン姉さんの財布が見つかったら連絡するという言葉を最後に、間抜け顔で手を振って見送ってしまったのだった。
「ヒナくんはポン酢派? ごまだれ派?」
「僕はポン酢で」
「はーい、どうぞ」
「ありがとう」
薄らと白い湯気を立ち昇らせる鍋の向こう側に、いそいそと何やら動き回っていた鵜住居さんが腰をおろす。
目の下には、寝不足なのか珍しく隈がついていた。
まだ雪も降り始めていないのに、いつの間にやら部屋の真ん中を陣取っているコタツの中に鵜住居さんが足を入れ、僕はべつにぶつかったわけでもないのにちょっと自分の足を引く。
「なんだかぼうっとしてるね、ヒナくん。もっとも、普段から奈良公園にいる鹿みたいに平和ボケした顔してるけどさ」
「僕は鹿煎餅なんて食べないよ。それにぼうっとしてるのは、どっちかっていうと鵜住居さんの方じゃない? ぼうっとしてるってより、疲れてる感じだけど」
「あー、やっぱりわかる? さすがヒナくん、私のことをよく見てるね」
「べ、べつに鵜住居さんのことばっかりよく見てるわけじゃないよ。僕は元々、色々なものを観察する癖があるだけなんだ」
「うふふっ、べつに私のことばっかりよく見てるなんて言ってないじゃん。私もそういう、観察眼的な意味で言ったんだよ。まったくヒナくんはこれだから」
なぜかやたらと嬉しそうにニヤつく鵜住居さんの視線から逃げるように、僕はまるで酔えないレモンサワーで口元を隠す。
赤面が止まらない。なんてこった。
まんまと罠に引っかかってしまった。鵜住居さんは鹿打ち名人だ。
「ごほんっ、ごほん。そ、それで、どうしてそんな疲れてるの? 悩み事かい? 相談事ならこのみんなの心の窓口、添木雛太郎が聞いてあげるよ?」
「なにその胡散臭い言い回し。心の単位落としまくりそう」
「心の単位ってなんだよ。だいたい僕の成績事情は関係ないでしょ!」
「えへへっ。やっぱりヒナくんといると癒されるなあ。鹿というより羊だね」
「なんで羊? 鹿の方が可愛くない?」
「えー? 羊の方がもこもこしてるじゃん。鹿はもさもさって感じだし」
「もさもさより、もこもこ?」
「そそ。もさもさより、もこもこだよ」
鹿より羊の方が癒されるという、鵜住居さんの謎の感覚はともかく、どうやらあまり深く話したくない内容らしく、そのまま彼女は曖昧に話を逸らしてしまう。
そもそもなぜ今日、いきなり鍋パしようと鵜住居さんの自宅に誘われたのかもよくわかってない僕は、とりあえず彼女の疲労の原因を追究するのをやめておいた。
「あ、鍋、そろそろ食べれそうだね。僕がよそうよ」
「いいよいいよ。自分の分くらい自分でよそうから」
「まあまあ、なんか疲れてるみたいだし、準備とかして貰ったからね」
「……ヒナくん、いいお嫁さんになれそうだね」
「そこはお婿さんでいいでしょ」
それもそうだね、ありがと、と鵜住居さんにしては小さめの声量で、彼女は僕がよそったつみれ鍋を受け取った。
ちなみに僕がこの鍋に関して料理を担当した部分は、ニンジンの皮むきだけだ。
鵜住居さんに勧められて、初めてスプーンを使ってみたけれど、僕には包丁でやる方が合ってるなと思った。
「いただきまーす」
「いただきます」
行儀よく両手を合わせる鵜住居さんに合わせて、僕も控えめに礼をする。
白菜にはしっかり熱が通っていて、噛めば柔らかく野菜の旨味が溢れ出てくる。
薄切りのニンジンに昆布ポン酢の爽やかな酸味が合っていて、僕は今年も冬が来るなあと一人季節の移り変わりを思う。
「それで、ヒナくんは最近面白いことあった?」
「藪から棒だね。僕は普通の大学生だからね。そんなめったに面白いことは起こらないよ」
「そうなの? でもなんか考え事してるみたいだったけど」
「考え事ってほどじゃないけど、そうだね、まあちょっと気になることがあって」
「なになに。話してみてよ」
本当にただ鍋を食べたかっただけなのか、鵜住居さんは自分が語り手になろうとすることはせず、僕の話を聞きたがる。
こうやって彼女の整理整頓された家に招待されるのは、何気に久し振りなので、何かしら改まって喋りたいことがあるのだと僕は推理しているけれど、やはり気が進まないらしい。
知らないふりをするのが得意な僕は、鵜住居さんに関する推理を披露することなく、彼女の誘導に乗って最近あった面白エピソードを語ることにする。
「実はこの前、財布を失くしたっていう女の人に会ってね。その人の財布がちゃんと見つかったか心配してたんだ」
「へー、財布かあ。たしかにそれは失くしたら結構ショック大きいかも」
「なんでも人探しをしにこっちに来たらしいんだけど、飲み過ぎて財布をどっかに置き忘れちゃったみたい」
「酒を飲んでも飲まれるな。ずいぶんと悪酔いする人なんだね。まるでヒナくんみたい」
「失礼な。僕が悪酔いしてるところ、君は見たことでしょ」
「いやいや、あるから。まったくなに言ってるのヒナくんは。相変わらず何にも覚えてないんだね。このオタンコナス」
「あー、そうか。初めて会った時、僕、すごい酔ってたんだっけ? あいにくまったく覚えてないけど」
「ほんとありえないよ。私との初めてをお酒のせいにして全部忘れちゃうなんて」
「そ、そのうち思い出すって」
「うそつきー。べつにいいですよーだ」
拗ねたようにしながら、鵜住居さんはつみれを箸でつつく。
僕が鵜住居さんと初めて出会った夜の記憶は、いまだにレモンサワーの泡の中に沈んだままだ。
何かしらきっかけがあれば、思い出せるのではないかと期待しているけれど、今のところその兆候はない。
というか、私との初めてって言い方。
なんかあれだね。
いやべつにそれってわけではないけれど、ほら、あれな感じがするよ。
具体的にどれと言われると、言うのが躊躇われるというか、適切な表現が思いつかないというか、まあ思いつくと言えばつくんだけど、とにかくとってもあれだよね。
「その人、大学生とか?」
「いいや、社会人だと思う。年も僕らより数歳上じゃないかな」
「いい歳して泥酔して、財布失くしてるの? ほんとに日本生まれでよかったねその人。国が国なら、もうその人財布どころか臓器の二、三個失くしてるよ」
「まあ安全大国ニッポン、だからね」
「なにそのしょうもないフレーズ。ヒナくん、コピーライターの才能ゼロだね」
鵜住居さんがいつにもまして冷たい。
受け売りなのに僕のセンスが落第扱いされた。
ポン姉さんのフレーズは二度と使わないと僕は決心する。
「それでヒナくんは、財布をどこで失くしたのか、いつもの癖で考え込んでたの?」
「まさか。財布をどこで失くしたかなんて、情報が少なすぎて僕には推理のしようがないよ。それは僕が解くべき謎じゃない」
「じゃあ、人探しの方?」
「そっちも聞く限り、若い恋人持ちの男っていう情報しか僕にないからね。ヒントが少なすぎる。それも僕にとっては解かなくていい謎だよ」
「若い恋人持ちの男かー。とりあえずヒナくんではないね。え? ないよね?」
「うるさいな。確認するまでもないでしょ」
「もし恋人ができたら、ちゃんと私に報告してよ?」
「えぇ、なんで?」
「なんでじゃない。約束してください。さもなければ今日から毎日数時間おきに恋人の有無を確認するスタンプ送り続けます」
「それは勘弁してください。約束します。恋人ができたら鵜住居さんに真っ先にご報告いたします」
ただでさえ、同年代と比べて明らかに劣っている交際関係の経験値量に関して、必死で考えないようにして思考逃避をしているのに、日常的にそのあまりに非情な現実を突きつけられたら、僕はきっとどうにかなってしまう。
「よろしい、ヒナくん。それでよし」
「でも鵜住居さんも、もし恋人ができたら教えてよ? え? というかいないよね?」
「もしいたら、その人とつみれ鍋食べてるよ」
「そ、それもそうか」
と、そこまで言って、僕は思う。
では実際今、一緒につみれ鍋を囲んでいる僕は鵜住居さんにとって、どんな存在なのだろう。
おっと、あぶないあぶない。
僕はポジティブシンキングに浮かれ染まる桜色の思考を、慌てて灰色に塗り潰す。
勘違いしてはいけないぞ、添木雛太郎。
君は鵜住居さんにとって、ただのいつも暇で相手をしてくれる都合の良い友人というだけなのだから。
「……ちょっと、トイレ借りるね」
「どうぞー」
レモンサワーがまだ割り足りなかったのか、やけに頬が熱くなってきた僕は、逃げるようにしてコタツから足を出す。
これ以上は、過ぎた望みだ。
可愛らしく、一緒にいて楽しい、愉快な女友達ができたということだけで、僕は満足しなくてはいけない。
ちらりと檸檬色の綺麗な髪を横目に見ながら、僕はそれでも浮つく気分を抑えられない。
バスルームの扉を開ければ、ふわりと女性の部屋特有の石鹸に似たいい香りがここでもする。
乙女らしい奥ゆかしさか、それとも僕が雑な性格をしているだけか、鵜住居さんのトイレはユニットバスにも関わらず、僕の家とは違いバスタブのところはカーテンがしかれて見えないようになっている。
鵜住居さんと知り合って間もない、というか次の日にここに誘われた時と比べて、小物が幾つか増えている。
あまり細かく観察しすぎると、なんだか背徳感というか、変態としての自責の念が湧いて出てくるので、僕は意図的に視線を外してさっさと用をたしてしまおうとする。
――しかし、その時、僕の無駄に豊かな好奇心と、意味もなく周囲を観察してしまう癖が、気づかなくてもいい違和感、小さな謎を見つけてしまう。
「……あれ、歯ブラシが、増えてる?」
シャンプーや化粧水などが置かれた、洗面台周り。
前に来た時には、たしかに一つしかなかった歯ブラシが、一つ増えている。
片方は鵜住居さんのイメージカラーでもあるイエローの歯ブラシで、もう一つは彼女がめったに身に纏うことのない赤色の歯ブラシ。
僕の頭の中に、シンプルな推理が駆け巡る。
恋人がいないからといって、僕以外に仲の良い男友達がいないということにならない。
これはきっと、解かなくてもいい謎だ。
そういうことに、しておこう。
僕は知りたくなかった推理に気づかない振りをしながら、急速に冷めた頬をぽりぽりと掻いて、そういえばつみれとつくねは何が違うんだろうと、むりやり別の考え事をし始めるのだった。
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