不審者には、怯えなくていい
不審者には、怯えなくていい①
かの有名な理論物理学者であるスティーブン・ホーキング博士は、一日で最も頭を悩ませているものは何かと問われて、こう答えたという。
女性のことを考えている。女性たちは完全な謎だ、と。
量子力学や宇宙論に人類の中でもトップクラスに深く通じた博士ですら、女性という摩訶不思議な生き物の謎を解き明かすことはできなかったのだ。
ゆえに僕は思う。
頭の出来がごくごく平凡で、中等教育レベルの物理学すらまともに理解できていない僕が、女性のことをまったくもって理解できないのは当然のことなのだと。
そしてその、一般相対性理論の矛盾点を見つけ出した天才物理学者を、一日で最も悩ませていた大きな謎は、今僕の目の前で肉まんとピザまんを交互に頬張っていた。
「う~ん、美味しい。肌寒い季節に食べる暖かい食べ物は、真夏に食べる冷たい飲み物に勝ると個人的に私は思うよ。うん」
「……
「ん? ヒナくんはもしかしていちたすいちもできないの? うふふ。乳児にも劣る学力だね。肉まんとピザまんの味がするに決まってるじゃん」
肉まんとピザまんを両手に持って、ほぼ同じペースで二つのまんを減らしていく鵜住居さんは、今日もいつも通り腹立たしい。
だいたい乳児だって一たす一はできないだろ。というか僕はべつに一たす一くらいできるし。
大学の夏季休暇もあっという間に終わってしまい、十月上旬に入り早くも後期の講義が始まり出していた。
まだオリエンテーション期間なので、そこまで頭を働かせなくてよいのが唯一の救い。今だ夏休みボケが抜けない僕は、九月末にひょんなことから知人となった鵜住居さんとこうして、大学の共有スペースで食事を共にすることが多くなっていた。
もっとも、僕がいったいどんなひょんなことを経験したのかは、いまだに謎に包まれているのだけれど。
「それにしてもヒナくんは顔に似合わず小食なんだね。食べる量まで雛に合わせてるの?」
「雛に合わせてるってなんだ。そんな名前由来のベタなキャラ付けなんてしてないよ。だいたい、僕ってそんなに大食いしそうな顔してる?」
「うん。してるしてる。中華料理屋に入ったらラーメンと炒飯のセットを頼んで、付け合わせで餃子と酢豚を頼みそうな顔してるよ」
「どんな顔だよそれは。僕はわりと標準的な体形だし、むしろ鵜住居さんの方が食欲旺盛そうな感じじゃない?」
「ヒナくん最低! 女の人にたいしてデブだなんて! 正気? 私が肉切り包丁持ってたら、今頃ヒナくんは全身北京ダックだよ!」
「で、デブとは言ってないよ。見た目のことじゃなくて、性格というか、そういう内面的な印象を言っただけなのに」
もしも肉切り包丁を手に持っていたら、今頃僕のことを全身北京ダックにしていた鵜住居さんは、不満そうに唇を尖らせている。
実際、彼女はわりとスタイルが良いというか、典型的な八頭身体形だ。
身長こそ百七十センチには届かない程度だけれど、一目でわかるほどの小顔なので全体のバランスが抜群に良い。
その涼し気な外見とは裏腹に、天真爛漫というべきか、わんぱく小僧を思わせる雰囲気のため、小食か大食らいかといえば後者のようなイメージを抱いたのだ。
「ヒナくんにはデリカシーが足りないよデリカシーが。そんなんだから彼女の一人もできないんだよ」
「う、うるさいな。余計なお世話だよ。というかなんで僕が彼女いないこと知ってるの?」
「そんなの見ればわかるじゃん」
「失礼さの極みだね君は。そういう君はどうなのさ? 彼氏とかいるの?」
「は? ヒナくんそれ本気で言ってる?」
「え、そ、そりゃまあ、もちろん。僕は君と違って、人を見た目で判断しないからね」
「はあ。まったくヒナくんはこれだから。スットコドッコイとはまさにヒナくんのためにある言葉だよ」
鵜住居さんは一度食べる手を止めて、これみよがしに溜め息を吐く。
僕はそんなにすっとこがどっこいしているのだろうか。
結局鵜住居さんは自らの恋人の有無を明かすことなく、再び幸せそうな咀嚼の世界へと旅立ってしまった。
続けるべき言葉を見失った僕も、仕方ないので一旦菓子パンをかじることに集中する。
しかし、冷静に考えて、もし鵜住居さんに彼氏がいた場合、僕の立場はいったいどうなるのだろう。
因果関係が全くもって不透明なのだけれど、確かな事実として僕は鵜住居さんを一晩自宅に泊めてしまっている。これはいわゆる浮気に入るのだろうか。
そこまで考えて、僕は末恐ろしくなった。
今にも鵜住居さんの、身長百八十後半はあるラグビー部所属のコーカソイド系イケメンハーフ彼氏がやってきて、僕のことをタコ殴りにするのではないか。
唐突に身震いし出した僕を不気味に思ったのか、対面に座る鵜住居さんが嫌そうに顔をくしゃくしゃにする。
彼女は僕を蔑むときだけ、普段からは想像できないほどやたらと不細工になった。
「なにヒナくん? その菓子パンそんなにマズイの?」
「いや、マズイのは僕の安全面の方だよ。鵜住居さん、もしも男女関係のもつれで僕が被害を被りそうになったら、君の方から何とか頼むよ?」
「男女関係のもつれ? それはもう手遅れでしょ。ヒナくんにはちゃんと責任とってもらわないと」
「は? え、ちょっと待ってなにが? 手遅れ? ごめんどういう意味?」
「それよりさ、ヒナくん。ちょうど今、ヒナくんのその挙動不審な態度で思い出したことがある」
「いやいや、待って。普通にスルーしないでよ。責任って何の話」
「この前のオリエンテーションで仲良くなった女の子、あ、イズミちゃんって言うんだけど、和風の和に、水の泉で、
「だからその責任って……あー、もういいや。それで? その友達がなんだって?」
当然のように僕の問い掛けを無視して、鵜住居さんは友人の女の子の話を唐突に語り出す。
僕からすれば、なるべく、というよりは危機感を持ってはっきりとさせておきたい話題だったのだが、円盤投げの如く遥か遠くに放り出されてしまった。
全てを諦め、僕は好奇心に目を輝かせる鵜住居さんの話に耳を傾けることにする。彼女はいつだって話し手で、出題者。
そして僕はいつだって彼女の聞き手であり、回答者なのだ。
「ついこの間の話なんだけど、和泉ちゃんがさ、部屋で寝てたら、知らない男の人に襲われそうになったんだって。俗にいう、不審者だね」
「襲われそうになった? わりとちゃんとした事件じゃないか。涼しい季節になって、変な輩が出てきたのかな。でも部屋で寝てたら襲われただなんて、女子大学生にしては不用心過ぎない? 部屋の鍵をちゃんと閉めてなかったってことでしょ?」
「それがさ、ちょっと話はややこしくてさ、和泉ちゃんが寝てた部屋は自分の部屋じゃないんだよ」
「自分の部屋じゃない? どういうこと?」
ちっちっちっ、と鵜住居さんは指を一本立てて横に振る。
肉まんの最後の一口を頬張ると、喉を一度鳴らしてから話の続きを語る。
「和泉ちゃんには彼氏がいてさ、その彼氏が住んでる大学寮の一室で飲み会から帰ってくる彼氏を寝て待ってたんだよ。うふふっ。まるで私とヒナくんみたいだね」
「な、なにが私とヒナくんみたいなのかはわからないけれど、つまり自室じゃなくて、彼氏の家に不審者がやってきたってことか」
「こういう時のヒナくんは理解が早くて助かるよ。まあ、そういうことなんだ。どう? 私的に、けっこうこの話、気になるところがあるんだよね」
彼氏の部屋で寝ていたら、見知らぬ男が入ってきた。
ただの不審者遭遇の話に聞こえるけれど、たしかに考えてみると不自然なことが幾つかある気がする。
「一応確認しておくけど、その子は大丈夫だったんだよね?」
「うん。その時は真っ暗だったし怖くても出せなかったみたいなんだけど、近くにあったスマホを手に取ったら、通報を怖れたのか知らないけど、部屋の外に消えていったみたい」
「なるほどね。不審者というよりは、物取りだったのかもね。鍵は開けてたの?」
「そこ、なんだよ。私が思う疑問の一つ。和泉ちゃんは部屋の鍵は開けてたみたいなんだけど、これはただあの子が不用心なだけじゃないんだ」
「それはたしかにそうだね。部屋の鍵も本来は閉めるべきだけど、“大学寮”ならその油断もわかる」
「やっぱりヒナくんもそう思う? だよね。だって、大学寮は“いつだって鍵が閉まってるんだから”」
僕は鵜住居さんに頷いて見せる。
うちの大学の学生寮は、ここ数年防犯上の問題に非常に注意してきていて、今では玄関口がオートロックになっているのだ。
要するに、部外者は寮生の部屋の前にすら行けないということ。
不審者がそもそも、和泉ちゃんが寝ている部屋まで辿り着くことは不可能ということになる。
「それでね、もう一つ気になることがあって、不審者がいなくなった後、彼氏がすぐに帰ってきたらしいんだけどね、その彼氏は不審者なんて見てないって言うんだって。それどころかすれ違った奴すらいなかったって」
「すぐに帰ってきたっていうけど、どれくらい?」
「五分も経ってないって言ってた」
「五分か。それはさすがに気づかないとおかしいね」
消えた不審者。
聞けば聞くほど、不自然な点が浮かび上がってくる。
だいたいそもそも、わざわざ大学の学生寮なんて、そんな忍び込みにくい場所になんのためにその不審者はやってきたのか。
どうしてもその彼氏の部屋に用事があったのか、それとも鵜住居さんの友人の和泉ちゃんが目的で、その子が部屋にいることを知っていたのか。
疑問は無数に浮かび上がる。
実に奇妙な不審者だった。
「この不審者はどうやって大学寮に忍び込んだのか、どうして和泉ちゃんの彼氏の部屋へやってきたのか、そしてどこに消えたのか。これは謎だよ、ヒナくん」
幾らかばかりか頭を悩ませてみても、すぐに答えはでそうにない。
たった今、菓子パンで補給した糖エネルギーが瞬く間に消費されていく錯覚を覚える。
「どう、ヒナくん? これは解かなくてもいい謎? それとも解くべき謎?」
鵜住居さんは、どこか挑戦的な視線で僕を見やる。
これが小さな謎なのか、大きな謎なのか、それはまだわからない。
ピザまんの最後の一口を飲み込む鵜住居さんを見つめ返しながら、僕は今更ながらに思う。
僕のことを見てたらこの不審者の話題を思い出したという彼女の言葉、わりかし酷い発言なんじゃないかと。
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