恋文の返事は、書かなくていい⑦


 自分は体験したことがないが、肉離れというものは非常に痛いと聞いている。

 まずもう、名前からして痛々しい。

 実際はどういった状態を指すのかわからないが、骨から肉が剥離してしまうような印象を受ける。

 ミートグッバイなんて俗称もあるらしいけれど、そんなポップな呼び方で僕は誤魔化されない。

 とにかく、僕は人生で一度だって自慢のぷにぷにお肉を手放したくないというわけなのだ。



「なんだ、もうへばったのか、添木。まだ足は二本残ってるぞ。もう少しくらい無理が効くだろ」

「まだ二本ってなんですか。一本でも失ったら致命傷なんですけど」



 ぴくぴく、ぴくぴく、と強制的に電気を流しているわけでもないのに勝手に痙攣する僕の両足。

 リフトを登り切った後は、鴨沢女史と僕、そして大森親子と鵜住居さん、といった形でなんとなく別れて滑り始めた。

 その穏やかとはいえない性格から、きっと厳しい指導が待っていると構えていた僕だったが、実際には特別目立った叱咤が鴨沢女史から届くわけではなかった。


 しかしだからといって、特別優しいわけでもないのが、さすが鴨沢女史。

 彼女はとにかく、僕に休むことを許さなかった。


 基礎を丁寧に教えた後は、ひたすらに僕を滑らせる。

 滑り終えたら、すぐにリフトに連行され、再び滑り下ろされる。

 これを小一時間ほど繰り返せば、か弱な雛太郎にはあっという間に限界が来る。

 そういうわけで、僕はこうして、あと指一本でも動かせば両足の筋肉がサヨナラララバイを歌い出す寸前で、なんとか口を押さえ込んでいる状況になっているのだった。


「いつも腹の立つほど飄々としているお前の苦しげな様子を見ると、なんだか晴れやかな気持ちになるな。新年って感じだ」

「どこで年明けを感じてるですか。幸先悪すぎる」


 時々粉雪が舞う蔵王のゲレンデの端っこで尻餅をつく僕に向かって、涼しげな表情で鴨沢女史が毒を吐く。

 この真冬という季節、さらにほとんどまともにスノーボードを滑れていないにも関わらず、僕はもう全身汗だくだった。

 

「まあだが、初めてならそれなりに滑れた方だな。センスはないが、根性はある。無駄に怪我をされても、運ぶのが大変だからな。このくらいにしておくか」

「鴨沢先生は余裕そうですね。心も冷たい分、汗ひとつかいてないし」

「不思議とお前の顔を見ていると、体温が下がるんだよ。血の気が引くという奴だな。お前と話していると私の自律神経は狂いやすい」

「それは不思議ですね。僕はよく喋るマイナスイオンと呼ばれるほどの癒し系のはずなのに」

「イオンというところ以外は合ってるな」

「もうそれマイナスしか残ってないじゃないですか!」


 それだけ喋れるなら、大丈夫そうだな、と言い残すとそこで鴨沢女史は僕を置いて再びリフトの方へ歩いていった。

 足が攣りかけて動けなくっている教え子をひとりぼっちにして、心が傷まないのだろうか。

 さすがの鉄仮面だ。

 鴨沢女史の方が東北の冬よりよっぽど厳しい。



「おやおや、こんなところで、奇遇だね、ヒナさん。雪だるまの物真似かい? よくできているよ」



 捨てる神あれば、拾う神あり。

 ひたすらに足の回復を待つことしかできない僕へ、凛とした声がかかる。

 雪の結晶の形は、その全てが違うらしいという噂を確かめることくらいしかやることがなかった僕が顔をあげれば、空より蒼いライトブルーのニット帽が目に入った。


「あれ? 夕鳳ちゃん? 鵜住居さんとか鷹也さんと一緒じゃなかったの?」

「あたしはここらで小休憩さ。あの二人ほど丈夫にできてない」


 すでにスキー板を一旦取り外している夕鳳ちゃんは、よっこらせ、と現役JCとは思えない老骨じみた声を上げながら僕の隣に座る。

 そういえば僕と同じで、夕鳳ちゃんはスキーは割と初心者に毛が生えた程度と言っていた。

 どうやら鷹也さんと鵜住居さんが元気いっぱい滑りまくり牧場する中で、ひと足先に羽休めをしにきたようだ。


「ヒナさんはどう? 芹叔母さんの猛特訓には耐えられているかい?」

「見ての通り、僕はスパルタの戦士にはなれそうにないよ。古代ギリシャじゃなくて令和の日本で過ごせて本当に感謝だ」

「ふふっ。身体はへとへとでも、そのユーモアは疲れ知らずなんだね。風音さんや芹叔母さんがヒナさんを気に入るのも分かる気がする。ヒナさんは、うちの家系の女性受けがいい」

「よくわからないけど、今日から夕鳳ちゃんは僕のことお義兄さんと呼ぶってことでいい?」

「……ただ、ちょっと褒めたらすぐに調子に乗る性格は治した方がいいと思うよ」

「あ、はい。すいません」


 女子中学生に怒られた。とても恥ずかしい。


「そういえば、三つ目の謎は解けたかい?」

「三つ目の謎?」

「そう。蔵王三不思議の。ヒナさんが担当だって聞いたよ」

「ああ、その話か。やっぱりそれ、担当制なんだ」


 ちょっと褒められるとすぐに調子に乗ってしまう性格の治し方について、本気で悩み出した僕の思考を、夕鳳ちゃんが軌道変更してくる。

 知る人ぞ知る、知らなくてもいい、蔵王三不思議。

 その一つ目の謎は、すでに鵜住居さんが解いていて、二つ目の謎は夕鳳ちゃんが解き、そして三つ目の謎は僕が解き明かすことになっているらしい。


「申し訳ないけれど、まだ解けてないよ」

「そうなのかい? へえ。まあ、あたしもまだ解けてないから、何も言えないけれど、意外だね」

「意外? なにが?」

「風音さんが、ヒナさんは発想力というか推理力というか、そういった方向の知性なら自分より優ると言っていたからね。期待しているのさ。あたしから見ても、風音さんは賢い。そんな風音さんが、ある一つの面であったとしても、自分より賢いと明確に認めている同年代は他に知らないからね」


 なんということだ。

 変なところで適当な鵜住居さんは、またもや非常に変なところで、とても変なことを言っている。

 僕が鵜住居さんに優る?

 おいおい、冗談はその可憐さだけにしてくれ。

 東北が誇る大准教授お墨付きのポンコツである僕に、そんな知性があるはずがないじゃないか。

 決して超えられない程高いハードルを目の前に置かれても、くぐることすら畏れ多く、申し訳ない顔をして横を通り過ぎることしか僕にはできないぞ。


「夕鳳ちゃん。残念ながら、それは俗にいうデーマゴーゴスだよ。真実は自分の目で確かめないと。ほら、目の前の哀れな雛太郎を見てごらん? 期待するに値するように思えるかい?」

「ふふっ。妙なところで自信がない。もしかしたら、一番ヒナさんに期待してないのは、ヒナさん自身なのかもしれないね」


 しかし、可憐で賢い従姉妹の戯言を素直に聞いてしまった夕鳳ちゃんは、いまだに澄んだ瞳を僕に向けたままその綺麗な色を変えない。

 これは困った。

 とても困った。

 こんなに真っ直ぐに期待されてしまうと、さすがの僕でも応えて上げたいと思ってしまう。

 まだ若く純粋な彼女の幻想を、壊したくはない。

 男、雛太郎。

 ここらで、一肌脱ぐべきか。

 しかし、今すぐにでも脱いであげたいが、僕の愚鈍で重苦しい頭のスキーウェアは中々に脱ぐのに時間がかかりそうだ。


「なら、まずはあたしの推理をご披露しようかな。ちょっとした余興だと思って、聞いてくれると嬉しい。二つ目の謎についてのね」


 蔵王山第二の不思議、深夜の見えない客と勇敢な犬。

 たしかそんなタイトルだった二つ目の謎。

 いまだに僕がさっぱり仮説のひとつも生み出せていない小さな謎は、夕鳳ちゃんがすでに解き明かしているという。

 ひゅるりと、ふいに通り抜ける雪風。

 基本的に僕なんかよりよっぽど大人びた雰囲気の夕鳳ちゃんが、珍しく子供らしい自慢の玩具を見せびらかすような顔をして喋り出す。


「まず、話の中身は覚えているかい?」

「まあ、一応覚えてるよ。今朝読んだばかりだからね」

「さすがヒナさん。大事なことは、よく覚えている」


 たしか、深夜の見えない客と勇敢な犬は、こんな話だったはずだ。

 旅館の夜番をしていた女性が、鈴の音を聞いて受付に向かうが、そこには誰もいなかった。

 しかし、鳴り続ける呼び鈴の音。

 部屋はどこ、と聞こえる見えない客の声。

 怖くなったA子だったが、なぜか看板犬が受付に向かうとその不思議な呼び鈴は鳴らなくなった。

 簡単にまとめれば、そんな感じ。

 蔵王三不思議、なんてふざけた物語の一つや二つを覚えているだけで褒められるなんて、今日もこの世界は僕に優しい。


「見えない客と勇敢な犬。この謎を考える上で、整理すべきことがある。それは、話の中に出てくる夜番の女性A子と看板犬の違いについてだ」

「へ? 女性A子と看板犬の違い?」

「そう、A子には見えなくて、看板犬には見えた。ここに、どんな条件の差がある?」


 A子と看板犬の違いなんて、ありすぎてむしろ共通点を探す方が難しい。

 まず、人と犬だ。

 生き物の種類が違う。

 そこの種類が異なれば、大抵のことは違う。

 僕は頭を悩ませるが、ぽわぽわとしたしっくりこない中途半端な考えしか浮かばない。

 まずいな。

 このままでは夢見るJCの期待に応えることがまるでできそうにない。


「そうだな。犬と人だし、嗅覚とか?」

「なるほど。面白い。それはあたしにはない発想だ。でも、今回の謎には関係ない」

「あ、はい」


 一瞬褒められたと思ったけれど、すぐに切り捨てられる。

 嗅覚ではないとしたら、あとはなんだろうか。

 体毛の濃さだろうか。

 なんだか凄く違う気がする。

 

「違うのはだよ、ヒナさん。風音さんが解いた一つ目の謎と同じで、この謎もわかってしまえば単純だ。作者は謎を難解で複雑なものにする気はないらしい。この謎も解くのに特別な知識は必要ない」


 視点が違う。

 その言葉を聞いて、僕の頭からぽこん、という空気の抜ける音がした気がした。


 そうか。

 そういうことだったのか。


 二つ目の小さな謎は、解けた。

 僕の瞳に、理解の光が宿ったことに気がついたのか、夕鳳ちゃんは嬉しそうに女を細める。


「……なるほど、違うのは視点のか。見えない客は、犬の視点の高さだと見えるんだ」

「ご明答。あたしと同じ答えに辿り着いたみたいだね。おそらく、見えない客は、自分の部屋の場所が分からなくなった小さな子供なんだよ」


 初めて泊まる宿。

 好奇心旺盛な子供が、夜に部屋を抜け出した。

 しかし、似たような見た目の部屋が並ぶ旅館の中で、迷子になってしまった。

 そして、受付に助けを求め、必死に手を伸ばし、呼び鈴を鳴らした迷子の子供。

 りん、と鳴り響く音。

 ただ子供は背が小さく、受付の下にすっぽり身体が隠れてしまい、A子からは姿が見えない。

 そんな中で、視点の低い看板犬だけが、その子供の姿を見つけることができた。

 看板犬は迷子の子供を導き、一件落着。


 おそらく、それがこの謎の答え。


 胸にすっと染み込んでいく感覚。

 夕鳳ちゃんはきっと、間違っていない。


「まあ、犬が子供を正しい部屋に本当に導けるのかとか、細かいところは怪しいけれどね。だけど、とりあえずこれがあたしの出した答えだよ」

「いや、なんかあってるっぽいね、それ。すごいしっくりくるよ。さすが夕鳳ちゃん。よく解けたね」

「べ、べつに大したことないさ。あたしは皆より若くて、背が小さいからね。あの宿の受付も、ちょっと高いなって思ったりしたから、他の人よりこの発想に辿り着きやすかったんだよ」


 年相応に照れたように頬を掻く夕鳳ちゃんはあまりも眩しい。

 迷子になった夕鳳ちゃんが、あの気だるげなバーニーズマウンテンドッグに連れられて部屋に戻っていく光景を想像したら、なんとも微笑ましい気分になった。


「……今、ヒナさん、なんだかやたらと失礼なことを考えなかったかい?」

「まさか。僕の頭の中は心温まるハートフルストーリーでいっぱいだよ」

「まったく。これだからヒナさんは」


 どこか聞き覚えのあるセリフを口にしながら、夕鳳ちゃんは青のニット帽を深く被り直す。

 だけど、これで、蔵王三不思議の内、二つの答えは出た。

 残るは、あとひとつ。

 いよいよ、なんの準備もできていない僕の番がきてしまった。


「ともかく、あとは三つ目の謎だけだね。期待してるよ、ヒナさん。あと、賭けのことはもちろん覚えてるよね?」

「げ」

「げじゃないよ、げじゃ。上々で頼むよ」


 意味深な瞳で、さりげなく夕鳳ちゃんは例の賭けの話題も挟んでくる。

 ひんやりと、分厚いウェア越しに伝わり出す雪の冷たさと一緒に僕は思い出す。

 一つ、願いを叶える。

 さりげなくウヤのムヤムヤでなかったことになったりしないかなと思っていたが、残念ながらあれは雪山で見た夢として獏に食べて貰えはしなかったらしい。


「……どんな願いなの? 女子中学生らしく可愛らしいお願い事だとありがたいんだけど」

「それなら心配いらない。ヒナさんのお望み通りの、女子中学生らしい可愛らしくて仕方がない願い事だからさ」


 小休憩が終わったのか、よっこいしょ、とこれまた女子中学生とは思えないくたびれた声を漏らしながら、夕鳳ちゃんは立ち上がる。

 小ぶりなお尻についた雪をぱらぱらと手で払うと、改めて僕に向かい直す。

 座ったままの僕の視点は見上げるような形で、立ち上がった彼女は見下ろすような視点でこちらを見つめる。

 鼻水が詰まっていて、体毛も薄めの僕は、迷子になんて決してならなそうな少女の願い事に耳を澄ます。



「なに、大したことじゃない。ちょっと、とあるをヒナさんには探し出して欲しいんだ」



 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る