恋文の返事は、書かなくていい⑧
ちゃぽん、ちゃぽんと僅かに濁った湯船の表面を、赤ん坊と張り合えそうな頼りない足を浮かべたり沈めたり僕はしている。
日常生活で嗅いだら違和感しかない硫黄の香りも、今は僕の疲れ切った体を癒すためのアロマディフューザーの類にしか思えない。
黄泉がえるという言葉があるが、ここで言っている黄泉は温泉のことを言っているに違いない。
きっと黄泉の黄は、硫黄の黄のことを言っているのだと、語源も何も知らない無知な僕は勝手にそう決めつけることにした。
「いやあ、気持ちいいねぇ。温泉はいつ入ってもいい。夏は汗を流せて気分がいいし、冬はもちろん暖まるからいい。春と秋は、まあなんかいい」
途中で適当になりながらも、僕の隣では鷹也さんが彼なりの表現で蔵王温泉を絶賛している。
雪山を薄っぺらい板に乗っかって滑り降りる遊びを終えた僕たちは、夕食前に汗を流すべく旅館の温泉に浸かっているところだった。
「それにしても皆さん仲良いですよね。親戚と一緒に年始スキー旅行だなんて。毎年行ってるんですか?」
「いや、そんなことはないよ。ちょこちょこ各々で会うことはあったけどね。こうやって皆んなで旅行に来たのは結構久しぶりな気がする」
「今回は鴨沢先生が企画したんですよね? なんか僕的には意外です。そういう家族イベントみたいなの、なんか興味なさそうだし」
「なはは。まあ芹は気難しいからね。外から見るとそう見えるだろうね。でも、ああ見えて情熱家っていうか、義理人情に厚いんだよ?」
「え? 鴨沢先生がですが? 人類初のコールドスリープを実用化しそうに見えるのに」
鷹也さんの意外な鴨沢女史評に、僕は驚く。
東北の冬より厳しい寒さで有名なあの鴨沢芹准教授が、僕を虐める時以外に情熱的になる場面があるとは思えなかった。
「じゃあ一つ面白いことを教えてあげよう。内緒だよ」
「内緒話、大好きです」
何かを企んでいる表情で、鷹也さんは僕に耳を貸すようにジェスチャーを送る。
成人男性が二人並んで、肩を寄せ合いヒソヒソ話。
絵面的にはだいぶ厳しいものがあるかもしれないが、それは温泉の湯気で誤魔化しておく。
そして鷹也さんは悪戯好きの近所のお兄さんみたいな表情で、そっと僕に耳打ちをするのだった。
「実は芹はね、ラブレター書いたことあるんだよ」
※
完全にのぼせてしまった。
僕は旅館の自動販売機コーナーの前の腰掛けに座り、爽健美茶みたいな味のするお茶を紙コップで啜っている。
僕の頭の中でぷかぷかと浮いているのは、大森親子から聞いた二つの驚きの話。
まさか鷹也さんと夕鳳ちゃんの両方から、偶然にも同じ事柄について話を聞くことになるとは思わなかった。
「あれ、ヒナくんだ。どうしたのこんなところで?」
「お、鵜住居さん。ちょうどいいところに」
奇妙な謎について頭を悩ませていると、そこに僕と同じようにお風呂上がりの鵜住居さんが通りかかる。
頬を僅かに紅潮させ、いつもよりしっとりとした白肌が色っぽい。
なんて下世話な感想は、百八では収まりきれず年を越してしまった煩悩の底に丁重にしまい込んでおく。
「ちょっとこっち来て。内緒のご相談があるんだよ」
「珍しいね。ヒナくんが内緒話だなんて。いつだって何だってもぬけ筒抜けなのに」
「もぬけの部分、要らなくない?」
僕が手招きをすると、警戒心の薄い鵜住居さんは素直に僕の横に腰を下ろす。
ふわりと、僕の人生では決して自らの体から香ることはないであろう信じられないくらいいい匂いがして、心がどきりと汗ばむ。
どうして同じ温泉に入ったはずなのに、こんなに違う匂いがするのだろうか。
それは大きな謎だった。
「それで? なに?」
「鵜住居さんはさ、鴨沢先生のラブレターの話、知ってる?」
「あー、鷹也さん? それとも夕鳳ちゃん? まあ、知ってるよ。鵜住居家では有名だし」
「えぇっ!? 知ってるの!?」
「そりゃね。逆になんでヒナくんが知っていて、私が知らない芹ちゃんの話があると思うのかがわからないよ」
なんてこった。
夕鳳ちゃんも鷹也さんも、あんなに超ハイパーウルトラトップシークレットだよ、みたいな顔で言ってたのに。
大森家にまんまと嵌められてしまった。
「中学生の時にラブレター書いたって話でしょ? 特にうちのお母さんが酔っ払ったらその話いつもしてるからねー」
そう、まさに僕が聞いたのはその話だ。
大森親子曰く、鴨沢女史が教える側ではなく教えられる側である麗若き女子学生だった頃、想い人に一筆恋文をしたためたということがあるらしい。
「へぇ。じゃあ、本当なんだ。信じられない。あの鴨沢先生にそんな情緒があったなんて。そういうのは直接言うタイプだと思ってた」
「まあ、芹ちゃんにも乙女の部分があるってことですよ。まったくヒナくんはこれだから」
やれやれといった様子で、なぜか鵜住居さんが僕を憐れみの視線で見る。
多分だけど、この鵜住居さんの態度を鴨沢女史が見たら、彼女も僕ごと怒られる気がする。
「実はさ、夕鳳ちゃんからさ、そのラブレターを手に入れて欲しいって言われてるんだよね」
「ふふっ。なにそれ。夕ちゃんもそういうところは現役JCって感じがして微笑ましいね」
「夕鳳ちゃん曰く、常に持ち歩いてるとか」
「あー、ね。それ、私も聞いたことある。常に持ち歩いてるっていうか、常に見えるところにあるってニュアンスだった気がするけど」
賭けに負けた僕に対しての、夕鳳ちゃんのお願いは中々に難問だった。
若い頃に鴨沢女史が書いたという恋文を探し出せ。
話を聞く限り、常日頃から手に届く範囲に置いているらしい。
「でも自分が書いたラブレターを今でもずっと持ち歩いてるって、鴨沢先生も結構ギリギリなことしてるよね」
「それ、芹ちゃんに言っていい?」
「鵜住居さんに殺人幇助の罪を着せたくはない」
「たしかに。スノボの角が赤く汚れそうだからやめておくね」
いきなり雪の山荘事件に巻き込まれたくはない。
しかも僕が第一被害者だし、推理するまでもなく犯人が明白すぎる。
多分事件発覚から解決まで二ページくらいで済んでしまうに違いない。
「でも案外、直接聞いたら教えてくれるかもよ」
「いやいや、それはないでしょ。だったら夕鳳ちゃんもわざわざ僕にラブレターを探してなんてお願いしないんじゃない?」
「んー、そうかな? というか、なんか前に直接夕鳳ちゃんはその話聞いてた気がするけど」
「えぇっ!? どういうこと!?」
ここで衝撃の事実がさらりと明かされる。
せっかく冷めてきた熱が、再び僕の肌を汗で濡らしだす。
「つまり、夕鳳ちゃんはそのラブレターの中身を知ってるってこと?」
「うん。たしかね。私はあんまり他人の恋愛事情とか深掘りしないタイプだから、詳しく聞いてないけど」
鴨沢女史のラブレターを探して欲しい。
そう僕にお願いした本人である夕鳳ちゃんは、どうやらすでにその答えを知っているらしい。
それは、小さな謎だった。
どうしてわざわざ答えがわかっている謎を、僕に解かせようとするのか。
そもそも、引っかかる点が幾つかある。
まず、鷹也さんの口ぶりも今となってはおかしい。
内緒話、と言っていた。
しかし、鵜住居さんの話からすると、どうやらこの話題はどうもそこまで秘密ではないらしい。
むしろ鵜住居家では定番の有名な話題みたいだ。
それをなぜ、鷹也さんは僕に内緒だよ、なんて思わせぶりな口調で伝えたのだろうか。
「もしかして、僕、嵌められてる?」
そこまで考えて、僕は一つの推理に辿り着く。
夕鳳ちゃんは、そもそもラブレターの在処や中身には興味を持っていないのではないか?
鷹也さんは悪戯気な顔をしていたけれど、あれは鴨沢女史に対する悪戯ではなくて、僕に対する悪戯を仕掛けていることを意味しているのではないか?
「それ、あり得るね。たぶん、ヒナくん、あの悪戯好きの親子に揶揄われてるよ。うふふっ。まあ、気持ちはわかるかも。ヒナくんがぷるぷるしながら、芹ちゃんにラブレターの話題ふってるところ想像したら、おかしいもん」
「やっぱり! だよね!? うわあ! 危ない危ない! まんまと罠にかけられるところだった!」
これはミスリードだ。
知らぬ間に僕は誘導されていた。
あの曲者親子に、鴨沢女史への生贄、或いは見せ物として下拵えされていたのだった。
「いやあ、助かったよ。鵜住居さんがいなかったら、僕今頃蔵王火山のマグマを噴火させてるところだった」
「うふふっ。私としたことが失敗しちゃった。私も夕鳳ちゃんに乗っかればよかった」
「ちょっと鵜住居さん!?」
「冗談だよ。ヒナくん年明け早々ぴよぴよ騒がしいな」
苦笑する鵜住居さんは、それでもどこか優しい表情をしている。
僕はうっかりそれに見惚れてしまって、湯上がりとは別の熱気に侵される。
「それに多分、その話をしても芹ちゃんは別に怒んないと思うよ。本当に聞かれたくない話だったら、こんなふうにダシにされないからね。夕鳳ちゃんなりに、芹ちゃんとヒナくんがもっと仲良くなって欲しくて、ちょっと悪戯したのかもね」
「えー、それは身内贔屓じゃない? 絶対ただ面白がってるだけだよ」
「ほら、表面上、ヒナくんと芹ちゃんって、ちょっとギスギスしてるように見えるからね。もう私は二人が仲良しこよしだってわかってるけど、あの二人は今回初めてヒナくんと芹ちゃんの独特なコミュニケーションを見るわけだから」
「それは好意的な解釈すぎる気がするけどなあ」
言うほど表面的なギスギスか? と思わなくもないけれど、鵜住居さんがそう言うと不思議と正しい気もしてくる。
言われてみれば、夕鳳ちゃんがお願いの内容を話してきたのは、僕が鴨沢女史に見捨てられて一人ぼっちになっている時だし、鷹也さんが内緒話をしてきたのも僕が鴨沢女史に対して冷たいイメージを抱いていることを伝えた時だ。
そう考えれば、大森親子なりに鴨沢女史の印象を変えるために僕にこんな話を持ちかけてきた気がしなくもない。
「芹ちゃんはさ、勘違いされやすい人だからさ。きっとヒナくんにも、仲良くなって欲しかったんだよ」
「まあそういうことにしておくか——ってあ」
鵜住居さんの大森親子に関する推理をそこまで聞いて、僕の頭にまったく別の角度から閃きが生まれる。
ああ、そうか。
そういうことだったのか。
これもまた、一種のミスリード、と言うよりは
大森親子が僕を鴨沢女史とコミュニケーションを取るように誘導したように、あの“三つ目”の謎も、また一つの誘導をしたかっただけなんだ。
「なに? どうしたの? ヒナくん?」
「僕、わかったかもしれない」
「え? 芹ちゃんのラブレターの在処がってこと?」
「違う。そっちじゃなくて」
これは解かなくてもいい謎だけれど、解いてもいい謎だ。
知らなくてもいい推理だけれど、知ってくれたら、少しだけ温まる。
「知る人ぞ知る、知らなくてもいい、蔵王三不思議。三つ目の謎の在処が、わかったんだよ」
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