檸檬色の夜は、思い出さなくていい 了

 ちょっとばかり考えてみたけど、私が思うに好奇心はぎの刃みたいなものだ。

 それぞれは脆く僅かな切れ端にしか過ぎないんだけど、集めれば集めるほどたしかな鋭さをもつようになって、深い切れ込みを入れることができるようになると思う。

 

 でも取り扱いには、大きな注意が必要かな。

 使い方を間違えてしまうと、壊れて自らを傷つけてしまうし、やたらめったら使い回しても、やっぱり壊れちゃって他人を傷つけてしまうかもしれないから。

 だからなるべく慎重に、丁寧に扱わなくちゃ駄目なの。


 たとえとして、こんな話を喋ろう。

 大学一年生の夏から、一年間海外に留学していた私は、大学二年の夏になって生まれ故郷である日本へ最近帰ってきたところだ。

 私には高校三年生の頃からお付き合いをしている同級生の男の子がいて、彼もまた私と同じように現役で大学進学を決めていた。

 その彼の名は、白鳥樹しらとりいつきくんという。

 それぞれ東北地方だけど、異なる大学に進学していた私と樹くんは、住む場所が違っても関係を続けようと互いに誓っていた。

 樹くんはスポーツ万能で性別問わず友人の多い、いわゆる人気者タイプの人で、何を考えてるかわからないとか、不思議ちゃん、とかそんな風に評されることの多い私とは全然違った種類の人間だった。

 だけど、私はそんな樹くんが大好きだった。

 憧れていたとまで言っていいと思う。

 そんな樹くんは、私が留学を決めた時も、優しい笑みで応援すると言ってくれた。


『海外に行ったら、髪とか染めてみたら? 風音なら、レモンイエローとか似合うんじゃない?』


 黒髪に黒縁眼鏡がトレードマークだった私に、向こうの国に馴染めるように髪を染めてみたらと、樹くんはアドバイスをしてくれた。

 私はその言葉が嬉しかった。檸檬色レモンイエローなんて派手な色を、私も身に着けていいんだと許された気がした。

 その日から私は、黄色が一番好きな色になった。

 そして言葉通り、私は一年間の留学に旅出った。

 でも樹くんとの連絡は一ヵ月に一回はメールでしてたし、心の距離は私からすればちっとも離れている気はしなかった。

 私にとっては一年なんて、あっという間に過ぎていく時間。

 もちろん樹くんと会えなくて寂しいと思う事はあっても、その気持ちが冷めることなんて、まったくなくて、それは彼の方も同じだと思っていた。


 そう、思ってた。

 でも人生はそう上手くはできてない。

 やがて時が経って、私と樹くんが二人とも大学二年生になって、一年振りの再会を私が住んでる方の街でした時、私は違和感を覚えてしまった。

 疲れが溜まっているだけとか、久し振りに会ったからだとか、いくらでも違和感の正体に関する言い訳があったのに、どうしてか私はその違和感の正体を推理し始めてしまう。

 力強く目を真っ直ぐ見てくる癖があるはずの樹くんと、やけに視線が合わず、不自然なまでに弾まない会話。

 音楽に疎くて、流行りのアイドルやアーティストもまったく知らなかった樹くんが着ていたのは、洋詞が特徴的なジャパニーズロックバンドのロゴ入りロングシャツ。

 せっかくの一年振りの二人っきりの時間なのに、樹くんは数分に一回はスマホの画面に目を落として、なにやら操作を繰り返している。


 気づかなくていいことに、気づいてしまう。

 考えなくていいことを、考えてしまう。


 ここで私にはある一つの推理が構築されていて、一度推理してしまえば、どうしてもその推理が正しいのか確認しなきゃ気がすまなかった。

 だから私は、トイレに行くねと言って、一度席を外すと、あえて時間をかけた。

 しばらくしてから、私がいなくて退屈しのぎにスマホを弄り出した樹くんの背後から、気づかれないようにそっと彼の画面を覗き込んでしまったのだ。


 “はやく、会いたいな”、“うん、あたしも”。


 画面に表示されていたトーク内容は、私の心臓をいとも簡単に握り潰して、残酷なまでに推理の正しさを証明していた。

 会いたい、なんて言葉、そういえば私が留学している間に、一言だって言って貰ったことはあったっけ。

 自分の推理が間違っていなかったことを知った私は、何にも気づいてない振りをして席に戻ると、ただ一言、樹くんに問い掛けた。


『樹くんはさ、この私の髪の色、どう思う?』


 さっきまで私の知らない女と、愛の言葉をかけあっていた樹くんは、少しの間考えるそぶりを見せると、はっとしたような表情で答えを返す。


『ああ、そういえば髪染めたんだね。あんまり似合ってる感じしないけど、風音がそれでいいと思うなら、いいんじゃない?』


 その返事を聞いた瞬間、どうしてか私は涙が止まらなくてなってしまって、数分間泣きじゃくった。

 それを不安そうというか、困ったように眺めるだけの樹くんは、またスマホを手に取る。

 だから私は、樹くんに別れを告げた。

 初恋の相手の前から、立ち去ることを決めたのだ。


『これまでありがとうございました。さようなら』


 樹くんは少しだけ驚いたような顔をした後、うん、そうだね、と安心したように呟いていた。

 それでまあ、結局なにが言いたいかというと、私がこうやって今夏の終わり、秋の始まりの夜に、川辺で一人黄昏たそがれているのは、失恋のショックを少しでも慰めるため、つまりはそういうことなの。




「あーあ、樹くんに引っ越し作業手伝ってもらおうと思ってたのになあ。マットレスどうやってロフトまで運ぼうかな」


 もうすでに時刻は日付を変える頃。

 こんな夜遅くに、九月にしては涼し過ぎる川辺にいるような変わり者は、当然私以外いない。

 見回りをしている警察か何かに見つかったら、すぐに声をかけられてしまいそうな怪しさだ。

 だけど私は、どうしても家に帰る気にならなかった。

 あの誰もいない、空虚で、思い出のない部屋に戻るのは、今だけは嫌だったのだ。



「ヒィイヤ! ミズゥ! ミズゥがいっぱいだあ!」



 するとどこからともなく、奇妙な鳴き声が聞こえてくる。

 本能的な怯えから私は自分の両肩を抱く。

 おそるおそる声がした方を見てみると、そこには何がそんなに楽しいのかニヤニヤしながら、両足の靴を脱いでいる青年が一人いた。

 好奇心が強い性格が悪い方に出てしまい、その場を離れればいいものの、私はもしゃもしゃとカリフラワーみたいな頭をした青年から目を離すことができない。

 青年はそのまま靴下も脱ぐと、嬉しそうにはしゃぎながら川の中に侵入していった。

 くるぶしまで九月の清流に浸かると、そのふやけた顔をした青年は、ハハハと高らかに哄笑した。

 これはひどい。絵に描いたような不審者だ。

 しばらく見ないうちに、日本はずいぶんと治安が悪くなったらしい。

 じゃぷじゃぷと、ただ裸足を水につけただけで満足したのか、不審者は川からあがると、ぐっと伸びをした。


「いやあ、やっぱ水はいいなあ。酔いがだいぶ冷めたぞお!?」


 やたら声がでかい。完全に独り言なのに、とても声が大きい。

 酔いを冷ますために水というのはわかる、水を求めて川にくるのはどうかと思うけど百歩譲ってそこは許すとしよう、気になるのはその水を使った酔いの冷まし方だ。てっきり飲むために水を求めていたのかと思ったけれど、実際には足を浸けただけ。

 果たしてそれで酔いが冷まされるのかははなはだ疑問だ。

 もっとも川の水をそのまま飲むのも、衛生面を考えると難しいところなので、ある意味彼のやり方が正しいとも言えるかもしれない。


「おや! おやおやおやおや! ごきげんよう! ご令嬢! こんな夜更けにどうされました!」


 うわ。最悪だ。私は悪寒に震える。

 どうしたことか、不審者が私の方を向いて、私に声をかけているような気がする。

 現実とは思えないというか、認めたくないけれど、どうやらそれは間違いなさそうだ。

 逃げるべきか。どう考えても逃げるべきだ。

 靴下を履いて、靴を両手に持って、こちらに近づいてくる不審者から、私は逃げようと身構える。


「推理しよう! ご令嬢! 君がどうしてこんな時間に、こんな場所にいるのか!」


 だけど、そこでピタリと足が止まる。

 不審者の明るい山吹色の瞳が、真っ直ぐと私を見つめてくる。

 申し訳程度の街灯と、満天の星々だけが照らす世界で、私はそんな彼のどこか優しさを感じる瞳を見つめ返した。


「夏の終わり、秋の始まり。季節の変わり目は、いつだって心の変わり目。君の美しい瞳は、さっきまで泣き腫らしていたのがわかるほど赤くなっている。こんな夜更けに一人、少女が誰もいない場所で泣く理由はたった一つだ」


 いとも簡単に看破される私の現状。

 どっからどう見ても、頭のネジのちょっと外れた人にしか見えない青年は、ここが街中だったら確実に近所迷惑になるに違いない声量で叫ぶ。


「きちんと、丁寧に、こつこつと考えるだけ! そうすれば、小さな謎は解きほぐれる! 君は失恋したんだね!」

「う、うるさい! 君はいったい誰なの! いきなり現れてぺらぺらと! 通報するよ!」


 わはは、と遠慮のない青年は緊張感なく笑う。

 真っ暗な川底に沈んでいた私の心をかき乱して、むりやり掬い上げるように、彼は片手を大きく掲げた。


「僕の名前はソエギヒナタロウ! 元気いっぱいの大学二年生! 君はもっと! 顔を上げるべきだよ! そんなに綺麗な目をしているのに、下ばかり向くのはもったいない!」

「だ、だから、うるさいって……」


 ソエギヒナタロウ。

 私は心の中で彼の名を繰り返す。奇妙な縁もあったもので、私と同じ大学二年生だ。

 急に彼の目を見るのが恥ずかしくなった私は、少しだけ夜風に目を逸らす。


「これが君のかつての想い人だとしよう! そうしたら、こうだ!」


 すると、やはり若干、というかだいぶネジが弾け飛んでいるのか、いきなり彼は左足の方の靴を思い切り川に向かって投げ込んだ。


「え。なにしてるの?」

「見ての通りさ! 君の想い人は、川の流れに乗って、君からどんどん離れて行く! 人と人の出逢いは川の流れと一緒だよ! いつだって様々なものを乗せて、流れ続けている! でもだからといって、寂しがることはない! 枝分かれしたからといって、元々の源泉が変わることはないんだ! 綺麗な思い出は綺麗なままでいい! 君が今日流した涙を、恥ずかしがることはないよ! いつかその涙は、もっと美しい大海原に繋がっていくんだから!」

「……ふふっ、なにそれ。意味わかんない」


 酔っ払いの戯れ言らしく、意味がわかるようでやっぱりわからない変なことを彼は大声でのたまわっている。

 言っていることがめちゃくちゃだ。

 川の流れが止まらないことを示すために、わざわざ靴を片方投げ捨てた理由もさっぱりわからない。

 でも、それでも、なんだか私は笑ってしまう。

 馬鹿みたいだ。実際ちょっと馬鹿なんだろう。

 絶対に変人だ。関わらない方がいいに決まってる。

 だけど、私は一歩踏み出してしまう。

 どこまでも屈託なく笑う、片方だけ靴を履いた彼の元へ、私は近づいていく。

 だって、なんだか、ほっておけないから。


「……はいはい。わかったわかった。君の言いたいことはよくわかったから。もう帰ろうね。だいぶ酔ってるみたいだし、家まで送って行ってあげるよ。道はわかる?」

「あはは! ありがとう! 君は親切な人だね!」


 ふらふらな彼の肩を支えるようにして、私たちは川辺を出る。

 秋の始まりを告げるさらさらとした風が、私たちのちょっぴり狭い間をするりと抜けていく。


「……あのさ、私のこの髪の色、君はどう思う?」


 ふいになぜか私は、そんなどうでもいいことを彼に訊いてしまう。

 どうせ明日には黒髪に染め直そうと思っているのだから、感想なんて、知らなくてもいいのに。



「そうだな。とても綺麗だと思うよ」



 でも彼は、まったく迷う素振りをみせずに、すぐにそう返してくれる。

 やっぱり、髪、染め直すの、やめようかな。

 ふらふらと千鳥足で、夢でも見ているかのように、彼は微笑んで私を見つめている。


「……ソエギヒナタロウってどんな字を書くの?」

「添える木にお雛様太郎!」

「……ふふっ、雑な説明だけど、わかったよ。ちなみに私の名前はね、鵜住居風音。鳥の鵜が住まう居どころに、風の音って書いて、鵜住居風音」

「へえ! 髪と顔だけじゃなくて、名前も綺麗なんだね!」

「……えへへ。ありがと」


 添木雛太郎そえぎひなたろう、か。なんて呼ぼうかな。

 添木くんか、雛太郎くんか、それともまた別のあだ名か。

 そのうち彼は、ここが僕の家だよ! と、とあるアパートの前で騒ぎ出す。

 私は彼が階段から転がり落ちないように気をつけながら、部屋の前まで押し込む。

 鍵すらまともに取り出せないようなので、仕方なく彼の代わりにポケットをまさぐって、それらしきものを見つけ出す。

 鍵を開けてみれば、雑多というには修飾が足りないほど散らかった彼の部屋は、どうしてか不思議と心が落ち着く。

 彼の肩を持って、ベッドに落とせば、これで私の役目は終わりだ。

 もう夜も遅い。さすがに眠くなってきた。


「待って」

「……え?」


 すると、帰ろうとした私の手を、彼がとる。

 酩酊状態とその浮雲みたいな人柄に油断していた私は、いとも簡単に体勢を崩し、彼が握った手に引き摺り込まれてしまう。


「もう秋だよ! 夜は寒くなる! ちゃんと毛布は被らないと! ほら!」

「え、あ、はい。ありがとう?」


 しかし、私が一瞬想像したような事は何もおきず、彼はベッドの上の毛布を丁寧に私にかけると、その横で自分自身は何も羽織らずに寝転がってしまった。

 口は半開きで、微かに寝息が聴こえる。

 試しにそのぷにぷにとした頬を指でつついてみたけれど、もう何の反応もない。



「……おやすみ、ヒナくん」



 だから私は、もうなんだか全部どうでもよくなって、彼と同じ様に目を閉じる。

 私はこの隣りで眠る彼のことを、まだ何も知らない。

 だけど、この先、もっと彼のことを知りたいと思った。


 それは、好奇心というには、少しばかり熱を持ち過ぎた感情。


 添木雛太郎という謎は、解かなくてもいい謎かもしれないけれど、私は解きたい。

 だいぶ酔っていたみたいだし、あの川辺での出来事をどれくらいまともに覚えているかは怪しいところ。

 でも、それでもいい。



 檸檬色はじめましての夜は、思い出さなくていい。

 ただ私は、もうちょっとだけ私のことを彼に知って欲しいし、これから先、知ってもらおうと思うのだった。




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