檸檬色の夜は、思い出さなくていい⑦
はい、これがヒナくんの分ね、とペットボトルの緑茶を手渡されたので、砂漠で泥水を啜る漂流人のような勢いで飲み干す。
レモンサワーの百倍は美味い。やっぱり酒はだめだ。二度とこんなもの飲むものか。以上反語。
「それでぇ? なんで風音がここにいるのぉ? もしかしてヒナすけに会いに来ちゃった感じぃ?」
「はいはい、そういうのいいから
「おい風音。その独身女子同士って言い方はやめろ。私とお前とじゃその言葉の重みがまったく違う」
ポン姉さんにはジャスミン茶を、鴨沢女史にはホットミルクティーを渡しながら、鵜住居さんは白い吐息を漏らす。
「それより問題はヒナくんだよ。なんで私のお母さんと知り合いなら言ってくれないの? 秘密にしちゃって。嫌な感じ。分かってると思うけど、薺ちゃんは人妻だからね」
「べ、べつに秘密にしてたわけじゃないよ。ただ知らなかっただけだって。まさかポン姉さんが鵜住居さんのお母さんだったなんて思わなくて」
「まるで浮気現場で現行犯逮捕されたみたいな反応だな。というかポン姉ってなんだ?」
「あ、それはね! ニッポンイチのポンらしいよ!」
「……たぶんだが、ナズ姉、騙されてるぞ」
「え!? そうなの!?」
「ま、ままままままさか、そそそそそそそんなことないですよ」
「うっわっ! 最悪! このヒナすけの妖怪ヒトヅマタブラカシ!」
「その法的にアウトなあだ名だけは勘弁してください」
なんて人聞きの悪すぎることを言うんだ。
実の娘の前でもやりたい放題。
これがある意味大人の余裕かと僕は驚嘆する。
ただ鵜住居さんは母親のそんな醜態に慣れているのか、少し疲れたように溜め息を夜風に乗せるだけだった。
「はいはい、それはもういいけどさ。ヒナくん、薺ちゃんが私についてなんか変なこと言ってなかった?」
「変なこと?」
「うふふ。それはどうかな。あることないこと、言っちゃったかもよぉ?」
「あることは百歩譲っていいとして、ないことは言うなよナズ姉。はあ、まったく。なんてこんなチャランポランが結婚できて可愛い娘を生んで、私が独身でお間抜けな学生を持たなきゃいけないんだ」
「逆だよ芹ちゃん。こういう頭ポポポーンな人の方が、あっさり幸せを手に入れるんだよ。芹ちゃんは考え過ぎなんじゃないかなきっと」
「賢すぎるのも、損ですね」
「添木、お前は黙れ」
酷い。横暴だ。
しかし何も言い返せない僕は、素直に沈黙することしかできない。
「さて、それじゃあ、そろそろ帰るぞ。指が冷えてきて仕方ない」
「えー、本当にもう帰るのぉ? お酒飲もうよお酒」
「これ以上飲むつもりなら、うちには泊めないぞ」
「ねえ? いつから芹ぽよはこんな冷たい妹になってしまったの? これがアカデミックの闇ってやつなの? 昔はあんなに可愛かったのに。薺が言えなくて、いつもナズネ、ナズネって、あたしの後ろから離れなかったのにぃ」
「う、うるさいな。そんな昔話はいいから、こっちにこい」
「いいなあ。僕も鴨沢先生みたいな妹欲しかったなあ」
「添木、次会った時は覚えてろよ」
「なんでっ!?」
いったいどうすれば僕は、鴨沢女史の好感度を上げることができるのか。それは大きな謎だった。
何を言っても、彼女の機嫌を損ねる結果しか導き出せない。
鴨沢女史の不機嫌を導出するための、万能方程式がこの僕みたいだ。
「じゃあねー、少年! また飲もうね! 今度は風音も一緒に! だから次あたしと飲むまでは振られるなよ!」
「はい。頑張ります! 粘りに粘ります! また飲みましょう! 今日はありがとうございました!」
鴨沢女史に引き摺られるようにして、ポン姉さんは段々と静かさを増し始めてきた街夜に消えていった。
この辺りまで車で来ているらしいのに、本当に僕のことは放置するつもりらしい。
「ねえ、ヒナくん。今のどういう意味?」
「え? なにが?」
「だからその、次飲むまではっていうの……あーあ、いや、なんでもない。じゃあ私たちも帰ろっか」
「なに? なんか鵜住居さん、怒ってる?」
「うるさいなあ。怒ってないよ、呆れてるだけ」
「えぇ!? ど、どうして? 僕、なにかまずいこと言った?」
「まったく、ヒナくんはこれだから。いいからいいから、帰ろ帰ろ。送ってくよ」
「……うっぷ。ごめん。ありがと」
今度は鵜住居さんの気を逆なでしてしまったかと思ったけれど、彼女は物覚えの悪い子犬を見るような優しい諦めを含んだ笑みを見せているので、まあいいかと僕はこれ以上余計なことは言わないように口数を減らす。
本来なら男である僕の方が鵜住居さんを家まで送っていってあげたいところだが、すでに僕は肩を支えられないとまともに立つことすらできない体たらくなので、どうすることもできない。
彼女の黄暖色の親切心に甘えるばかりだ。
「そういえばさ、先週、もしかして薺さん、鵜住居さんの家に泊ってた?」
「うん? そうだよ。先週は、芹ちゃんが出張でこっちいないっていうから、私の家に泊ったんだー」
「あー、やっぱりそうなのか」
「なんで? 薺ちゃんが言ってたの?」
「いや、先週、鵜住居さんの家に行った時、歯ブラシが二つあったから」
「ふーん? へえ? なるほどねえ?」
駅前の飲み屋街をちょっと離れてしまえば、宵の小道には僕と鵜住居さん以外、ひとっこ一人いない。
これが過疎化が進む地方都市の現状だ。
そんな二人っきりの秋の終わりの中、隣りで鵜住居さんがなぜかニヤニヤと意地悪な微笑を覗かせている。
ホットココアを手元でくるくると回しながら、僕をおちょくる時によく見せる目の輝きを光らせる。
「だからヒナくん、この前鍋パした時、トイレから戻ってきた後、変な感じだったんだ」
「な、なにがだからなんだよ。それに変な感じになんて、僕なってた?」
「なってた、なってた。心ここにあらずって感じに。具合でも悪いのかなって思ってたけど、やっとわかったよ。謎が解けた」
「たぶんだけど、その推理は間違ってるよ」
「ううん、絶対にこの推理は当たってるよ。心配しなくても、ヒナくん以外の男の人は、私の部屋に入れたこと、ないよ」
聡い鵜住居さんは、僕のたぶんなんて曖昧な誤魔化しを、絶対と言って容赦なく打ち破ってくる。
彼女はいつだって真っ直ぐで、躊躇わない。
僕の解かれたくない謎を、迷いなく推理してしまう。
「ほら、今、ほっとしたでしょ?」
「し、してないってば」
「うふふっ。まあいいよ。私は寛大だからね。そういうことにしておいてあげましょう」
僕が恥ずかしさに居心地の悪さを感じれば感じるほど、鵜住居さんの機嫌が回復していくようだ。
髪には桜色のメッシュ。真っ赤なマフラー。ポン姉さんが好む赤色。
やはり確認するまでもなかった。あの赤色の歯ブラシはポン姉さんのものだったのだ。
僕らの会話だけが響き渡る夜の街は、退屈な更けに耳でも澄ましているのか、普段より静かに思える。
「つみれとつくねの違いって、鵜住居さん知ってる?」
「なに急に。その下手っぴな話題逸らし。知ってるよ。魚肉か、豚とか鳥とかの肉かの種類の差でしょ?」
「それは一説で、実際は調理方法が微妙に違うみたいだよ」
「へえ? そうなんだぁ?」
「なにその顔。鵜住居さんにしてはぶさいくだよ」
「まったく失礼だなヒナくんは。冗談とか照れ隠しでも、女性の外見を馬鹿にしちゃだめだよ?」
「ごめんなさい」
「素直でよろしい」
見せつけられたあまりにも鬱陶しいニヤケ顔。
それに対して、二重の意味での酔いに任せて、口から飛び出てしまった僕の失言を、心優しい鵜住居さんは見逃してくれる。
好意のある相手に悪態をついてしまうなんて、二十歳を過ぎた男が何をしているのだろう。
情けない。男のツンデレは流行らないぞ。
「でも、この感じ、懐かしいね」
「懐かしい?」
「うん。酒臭くて、私の気持ちもお構いなしに、失礼なことばっかり言うヒナくんと、一緒にこの街の夜道を歩いたのが、なんだかもうずっと前のことみたい」
僕から視線を外して、鵜住居さんは澄んだ夜空を見上げる。
もしかしたら、彼女しか知らない星座が描かれているのかもしれない。
「……僕さ、まだ思い出せないんだ。僕が君と初めて会った夜のことを」
「……そっか。ヒナくんは思い出したい? 私が君と初めて会った夜のこと」
空から視線を落として、鵜住居さんは澄んだ瞳で僕を見つめる。
きっと、僕の知らない思い出がその奥には隠れているのだろう。
「じゃあさ、この私の髪の色、ヒナくんはどう思う?」
すると鵜住居さんは、文脈を度外視した問い掛けをしてくる。
どうしてそんなこと訊くの、と確認する前に、僕は反射的に答えてしまう。
「そうだな。とても綺麗だと思うよ」
「……ふふっ。なら、思い出さなくていいよ」
僕の返答を聞いた鵜住居さんは、そう言って嬉しそうに笑う。
だから僕は、結局また諦めてしまう。
緩やかな秋風が通り抜け、微笑みが深まる宵空に浮かぶ。
鵜住居さんがどうして笑っているのか、僕にはわからなかったけれど、べつにそれでいい気がしていた。
なぜならそれは彼女が、解かなくてもいい謎だと言ったのだから。
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