檸檬色の夜は、思い出さなくていい⑥
パヤパヤ、パヤパヤ、とやけにご機嫌な耳鳴りがずっとしている。
喉の内側をナメコでくすぐられているような、気持ちの良いのか悪いのかよくわからない不思議な感覚の中、僕はやっとのことで三軒目の店を出る。
すでに意識は不明瞭で有耶無耶。
今が何時で、ついさっきまで何を飲んで、何を食べていたのかも全く思い出せない。
「おい! ヒナすけ! まだ飲めるだろ! 飲めよこら! 若者おい!」
「パァア! 僕の頭はもうパァアになってしまったよ! ポン姉さん! どうして酒が飲めようか! いや飲めるはずがない!」
「反語を使うな少年! 男みせろ男を! あたしの娘を寝取った男の本気、見せなさいよヒナすけおい!」
「ヒィーヤッ! 僕は寝取ってなんていませんよぉ! 元カレのこともまったく知りませんしぃ!」
僕より身長が頭一つ分以上小さいくせに、ポン姉さんは肩を組むような体勢を取ってくるせいで、必然的に屈むような前傾になってしまって、今にも口からナイアガラしてしまいそうだ。
「それでぇ? どこまで行ったの? 乳首の一つや二つ触ったんか? おい、ヒナすけ! いい度胸じゃないか! 実の母親の前で、その態度は!」
「さ、触るわけないじゃないですか! それに、そんな大声で乳首とか言わないでくださいよ! 恥ずかしいなあもう。娘さんに言いつけてやる」
「こら、ヒナすけ! それだけはやめて! 風音にチクったら、許さないからね! 乳首だけに!」
「うるさ。全然上手くないし、面白くないですよ、ポン姉さん」
「ヒナすけの顔の方が面白いって? あははっ! それはたしかに!」
「顔は関係ないだろ顔は!」
完全に酔いが回ったらしく、どうでもいいことで笑いまくるポン姉さんは、知らない間に僕のことをヒナすけと呼ぶようになっていた。
ほぼすっぴんに見える薄化粧の鵜住居さんとは違って、アイシャドウや真っ赤なルージュという濃い化粧のせいで気づかなかったけれど、どうやらこの泥酔人妻が彼女の実の母親なのは間違いないらしい。
言われてみれば、若干テンションの高い感じや、僕を小馬鹿にするのが心底楽しそうなところとかには、血の繋がりを感じなくもない。
すでに僕が鵜住居さんと、少なくとも知人以上の関係性があることは告げてあるけれど、今のところそれ以上の感情は伝えていない。
面倒なことになるのは、目に見えているからだ。
というかすでに現状、わりと面倒くさい。
「ずっと思ってたけど、ヒナすけ、こけしに似てるよよね」
「こけし? 苔とかじゃなくて?」
「あ、苔っぽさもあるわね、たしかに」
「いやないでしょ。苔とこけしってなにも似てないですよ」
「似てる似てる。なんかこう、ぼやあっとした感じ……うっぷ、とか」
「ちょっと待って? 今、完全に軽く逆流してましたよね? この距離感で吐くとかやめてくださいよ? というかもう肩組むのやめません?」
「えー! やだやだやだ! 肩組むのやめなーい!」
「暴れないでくださいよ。僕も逆流しそうです」
「なら一緒に出しちゃう? 一緒に吐けば怖くないって」
「赤信号渡るときみたいな言い方やめてください」
なんだこの人。子供か。
鵜住居さんの方がよっぽど大人っぽいぞ。どっちが親で子なのかわからない。
僕は無駄に肩を揺らすポン姉さんのせいで、加速度的に具合が悪くなる。
もう今自分が立っているのか、歩いているのかすら定かではない。
「はあ、まったく。馬鹿みたいに騒がしい、同じ人類として恥ずかしい輩がいると思えば、属や種を越えて、まさか直接血の繋がっている相手だとはな」
するとその時、棘を越えてナイフのように鋭いアルトの声色が前の方から聴こえてくる。
焦点があっちこっちに勝手に飛んでいってしまう中、なんとか声のした方を見てみると、そこにはなぜか僕の指導教官の姿があった。
「あ! 芹ぽよじゃーん! なんでこんなところに芹ぽよがいるのー!?」
「なんでじゃないだろ、馬鹿ナズ姉。自分で迎えに来いと連絡しておいて、何をわけのわからんことを言ってるんだ」
ニット帽を被って、ナイロンのアウターを着込んだ
知らない間に迎えの連絡を送っていたことは驚きだけれど、鴨沢女史がポン姉さんのことを姉と呼ぶことには今更驚愕することはない。
ポン姉さんが、鵜住居さんの母だと知った時点で、僕の鴨沢女史に対する誤解はすでに解けている。
きちんと、丁寧に、こつこつと考えただけだ。
鵜住居さんの鴨沢女史は家族だよ、という発言からてっきり鴨沢女史が彼女の母なのではないかと僕は思い込んでいたが、それは当然のように間違いで、実際は叔母と姪の関係にあったらしい。
「そうだった! すっかり忘れてた! お迎えありがと! ていうか芹ぽよもお酒飲む?」
「飲むわけないだろ馬鹿。ほら、うちに泊るんだろ。さっさと行くぞ」
「もぉー! さっきから馬鹿馬鹿うるさい! ちょっとヒナすけ! なんか言い返して!」
「こんばんは、鴨沢先生。月が綺麗ですね」
「ああ、添木か。なんだ? 今からお前を殺してもいいという意味か?」
「夏目漱石と二葉亭四迷が泣いて怯えそうな解釈ですねぇ!?」
自らの姉と教え子が泥酔状態で肩を組んでいることが、そこまで意外ではないのか、鴨沢女史はとくに表情も変えずに睥睨している。
「先週、間抜け面の飲み友達ができたと聞いた時、その特徴からまさかと思っていたが、やはりお前だったか。類は友を呼ぶという言葉が、まさかこれほど信憑性を持っていたとはな」
「いやあ、でも助かります。僕もうフラフラで、家に帰れるか心配だったんですよ」
「頭がボウフラだって? 誰がお前も送ってやると言ったんだ?」
「ええ!? 酷い! こんな酩酊状態の可愛い教え子が心配じゃないんですか!?」
「微塵も興味がないな。添木だか粗大ゴミだか名前も忘れたよ」
なんて心のない教員なんだ。というか粗大ゴミは無理があるんじゃないかな。
思いやりという概念を失ってしまった鴨沢女史は、縋るような視線を送る僕を鼻で笑うだけ。
「芹ぽよケチじゃない? いいじゃないの。ヒナすけの一人や二人、送ってあげようよー」
「こんな奴が二人もいてたまるか。いいんだよ、こいつは。私はナズ姉だけで十分だ。添木の担当は別口だ」
「別口? 僕の担当は他にいるってことですか?」
「そういうことだ。いい友人を持ってよかったな。もっとも、友人以上になるつもりなら、相応の覚悟はしてもらうがな」
「芹ぽよ、それってどういう意味――あー、なるほどねえ。いいねえ。青春だねえ。でも今日は乳首触っちゃだめだからね」
「だから触りませんってば!」
変なことを口走るポン姉さんを叱りつけていると、再び前の方から僕らに近づいてくる人影が目に入る。
秋の暮れに吹く夜風は、火照った身体に心地良い。
色鮮やかなレモン色の髪を靡かせ、心の奥底まで見透かしてしまいそうな唐紅の瞳を煌めかせるその人は、やがて僕と目が合うと穏やかな笑みを浮かべた。
「やっほ、ヒナくん。なにを触らないって?」
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