檸檬色の夜は、思い出さなくていい⑤

 ぐるり、ふにゃり、と視界が朧げに歪む中、僕は酔いをさますために、レモンサワーをこれでもかと胃に流し込む。

 焼酎の刺激が喉を撫で、柑橘類特有の爽やかな酸味が鼻腔をくすぐる。

 ああ、とても、良い気分だ。

 今日の僕は調子がいいぞ。

 手元にあったおしぼりで自分の頬を太鼓のように叩けば、ぽこんぽこんと、実にご機嫌な音色が脳内に響いた。


「いいねぇ、少年。飲みっぷりがいいよ。お姉さんも負けてらんないぞぉ」

「なにをいってるんですかぁ、ポン姉さん。お酒は勝ち負けじゃないですよぉ。ちゃんと味わわないと」

「よっ、ごもっとも! お酒は勝ち負けじゃあ、ありません! 至言だね!」


 ポン姉さんは愉快そうに手を一度叩くと、まだグラス半分以上残っていたハイボールを一気に飲み干す。

 美味しいですか、と尋ねてみれば、わかんない! でもあたしの勝ち! と大変元気の良い返事が戻ってきた。

 僕らの会話は炭酸より軽い。

 ちなみにもう、僕とポン姉さんの酒盛りは二次会へと移行している。

 でも今のところ、僕の脳味噌はぬるぬると廻っている。

 呂律も一緒にトリプルアクセルだ。


「そういえば、例の探し人は見つかったんですか? 元々は、それが理由でこっちに来てたんですよね? どうせ僕はそのついでなんでしょ?」

「なにその面倒臭い言い回し。少年、キモイぞ」


 シンプルに悪口を言われた僕は、それを気にせず肴の桜海老の唐揚げをひょいと口に放り込み、しゃくしゃくと香ばしい食感を楽しむ。

 本来は唐揚げにかけるためにあるのであろうレモンをポン姉さんは手に取ると、そのまま口元へ運ぶ。

 どうやら体内でレモンハイボールをつくりあげるつもりらしい。


「人探しは、もういいんだ。今日は本当に、少年に奢るために来たのよ。まあ、財布を受け取りにきたってのもあるけどね」

「人探しはもういい? なんでですか? 諦めちゃうんですか? 駄目ですよ。諦めないで!」

「少年、君は酔うととてもうざいな。べつに諦めるわけじゃないさ。あたしにはもう、その探していた人を、探す理由がなくなっただけだからね。もうあたしたちとは関係ないから」

「探す理由がなくなった? なんでですか?」

「なんでなんでうるさいな。少年、何でも訊けば教えてもらえると思ったら、大間違いだぞ。たまにはそのモシャモシャのブロッコリーみたいな頭で考えてみたらどうだい?」


 桜色の差し色が入った前髪を指で弄り回すポン姉さんは、どこか挑戦的な微笑みで僕を見つめている。

 目元の黒いアイシャドウも相まって、少し蠱惑的な雰囲気だ。

 油分の多い食べ物を多く食べたせいか、柔らかそうな唇がぷるりと艶光りしている、っていやいや、そんなことはどうでもいい。

 僕は無駄な思考を省くために、レモンサワーを再び身体にぶち込む。

 とてもすっきりした。大変良い気分だ。


「人探しをなぜやめたのか、ですか。いいじゃないですか。ちょうど肴が足りなくなってきたなと思ってきたところです。いいでしょう。この僕がその謎、解いて差し上げます」

「いいねぇ、少年。君の瞳に好奇心の輝きが見えるよ。あたしの好きな輝きだ。酒が美味い美味い」


 いつの間にやらパネルタッチで注文していたのか、若い店員に運ばれてきたライムサワーをポン姉さんは威勢よく飲む。

 アルコールのせいで普段より躊躇なく好奇心に後押しされる僕は、どうしてポン姉さんが人探しをこの一週間でやめてしまったのかという、小さな謎を考えてみる。


 まずは、ポン姉さんがどんな人を探していたのかだ。

 これはほとんど情報がないけれど、たしかこの前、僕に恋人有無を訊ね、その返答で僕が探し人ではないと判断していたのは覚えている。

 ここから分かることが、二つある。

 一つ目は、ポン姉さんの探し人には恋人がいるということ。

 そしてもう一つが、ポン姉さんが顔を知らない相手だということだ。

 顔を知っている相手だったのなら、わざわざ僕に探し人の条件である恋人の有無をきく意味がない。


「どうだい、少年、答えはでそうかな?」

「急かさないでください。今、考えてます」

「えー、はやくはやく。あたし、もう答え言いたいんだけど」

「自分から出題しておいてなんですかそれは。もうちょっと我慢してくださいよ」

「じゃあ、制限時間はね、あたしがこのライムサワーを飲み干すまで。うふふ、やっぱりあたしは焼酎のストレートの方がいいなあ」


 どこかで聞いたこのあるような台詞と共に、ポン姉さんはあっという間にライムサワーを半分以下にしてしまう。

 ペースが早すぎる。僕の推理の猶予とか関係なしに、心配になる飲みっぷりだ。

 考えるんだ雛太郎。

 どうしてこの妖怪サケタリナイは人探しをやめてしまったのか。


「“酒はほろ酔い、花は蕾”、って諺を知ってるかい、少年? 酒は飲み過ぎるのはよくないっていう意味の諺らしいけど、間違ってるよね? だって花は満開の方が綺麗に決まってるもん」


 わけのわからないアル中特有の戯れ言をほざくポン姉さんを眺めながら、僕は改めて、そもそもこの人は何者なのかを考える。

 名前も年齢も知らない。

 知っているのは既婚者で、妹がこちらに住んでいるということだけ。

 そんな人がわざわざ、恋人持ちの、僕のような若い男を探すとしたら、どんな理由があるだろう。


「さすがに今の君じゃあ、解けないか。君のような妻子のいない、お子様にはまだ難問だったかもね」


 ふと僕は、ポン姉さんの目を見てみる。

 真っ直ぐと見つめ返されるのは、期待ではなく、同情の光。

 彼女は言った。今の僕には解けないと。妻子のいない僕には、難問だと。

 それはつまり、僕が将来、妻や子を持った時には解けるようになっているということだ。

 想像してみる。妻がいて、子供が生まれた僕が、顔すら知らない、恋人がいるというだけの若い男を探す理由を。


「そうか。だから、“あたしたち”、って言ったのか」

「お? わかったのかな?」


 きちんと、丁寧に、こつこつと考えるだけ。

 そうすれば、小さな謎は解きほぐれる。

 ポン姉さんは言った、もうあたしたちとは関係ないから、と。

 彼女は言っていない、妹だけがこの街に住んでいるとは。

 鍵は家族だ。

 ポン姉さんが探している相手が、ポン姉さんに直接関係のある相手とは限らない。


「ポン姉さんが探していたのは、“娘さんの彼氏”、ですね。そして探す理由がなくなったのは、もう娘さんが彼氏と別れていて、その彼氏が家族候補から、ただの他人に変わってしまったからです」


 桜が満開に咲いたかのような笑みを見せて、ポン姉さんはパチパチと手を鳴らす。

 次にライムサワーをぐっと一気にあおると、嬉しそうに空いたグラスをテーブルの上に置いた。


「ピンポンパンポンポーン! 驚いたね。まさか、本当に当てるとは思わなかったよ! これはどうして人は見かけによらず、頭が回るもんだねえ!」

「まあ、僕もやる時はやるってことですよ」


 ドヤ顔を自覚しながら、僕はレモンサワーをゆっくりと堪能する。

 勝利の美酒とはまさにこのことだ。

 それにしても自分で推理しておいてあれだが、こんな若く見えるポン姉さんに、もうそれなりに大きなお子さんがいるなんて驚きだ。

 いったいどんな子なのだろう。


「あたしの娘がさ、こっちで一人暮らししてるんだけど、彼氏がいるっていうから顔を見てやろうと思って、先週乗り込んだのよ。そしたらなんと、もう別れたっていわれて、あたし、驚いちゃった。母、娘の地雷を全力で踏みました」


 ポン姉さんは悪いことしちゃったな、とまるで悪びれずに舌をだす。

 いきなり一人暮らしの部屋に親が乗り込んできたと思ったら、彼氏の顔を見せろとせがんでくる。

 しかもちょうど別れた直後。

 想像しただけで、あまりの悲惨さに震える。

 迷惑をかけた当の本人は、よくこんな風にあっけらかんとしてられるものだ。

 僕は娘さんの心中をお察しして、せめての償いをと思ってレモンサワーを完飲する。


「まあ、別れたってわりには、あんまり引き摺ってないというか、風音かざねも元気そうでよかったけどね。あ、少年もお酒おかわりする?」

「レモンサワーをお願いします。でも元気そうならよかったです。その娘さん、えーと、風音さんっていうんですか? その子は何歳くらい……ってえ? ちょっと待った。風音?」

「そそ、風音があたしの娘の名だよ。なに? どうしたの? もしかして少年が風音の元カレだったりする?」


 僕は戦慄する。

 酔いとは全く別の理由で、身体がぶるぶると震え出す。

 馬鹿な。

 そんなわけがない。

 そんな偶然があってたまるか。


「……あ、あの、ポン姉さんって、本名はなんていうんですか?」


 おそるおそる、僕は尋ねる。

 いま目の前に座って、へべれけ状態で、さらなる酒を注文するポン姉さんの名前を今更に、知るべきだと思った。

 この人が誰なのかは、きっと本来は解かなくてもいい謎なのだろうけれど、もう遅い。

 僕は推理をしてしまった。

 もう確かめずにはいられない。

 好奇心という言葉で飾るには、物足りないほどの焦燥が僕の喉を渇かしていた。


「え? 名前? ああ、そういえば、ちゃんと自己紹介してなかったね。……あたしの名前はウノスマイナズナ。鳥の鵜の住まう居どころに、春の七草のなずなって書いて、鵜住居薺うのすまいなずな。ならば少年、あたしも問おう。君の名はなんていうの?」


 運命って呼ぶべきだよ、といつかの記憶の中で、年齢的には小さく、身長的には大きい方の鵜住居さんが呟く。

 遠くからまた運ばれてくる透き通るようなレモンサワーと、真っ赤なジョッキワインを眺めながら、そして僕は自らの添木雛太郎そえぎひなたろうという名を、想い人の母親に告げるのだった。




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