ほどけかけた靴紐は、結び直さなくていい

ほどけかけた靴紐は、結び直さなくていい①

 

 僕は昔から、マラソンという種目の意味がわからなかった。

 好きとか、嫌いとか、そういった次元の話ではなく、根本的に理解が及ばないのだ。


 人間というのは怠惰な生き物で、これまで何千年、或いは何万年という長い時間をかけて、とにかく生活が楽になるような工夫を凝らしてきた。

 自動車や洗濯機、エスカレーターなど具体例を挙げればきりがない。

 どれもこれも手間がかかり、体力的にも精神的にも疲弊してしまう生きていくために必要な行為を、できるだけ簡単に、少ないエネルギーでこなすことができるように開発された技術だ。

 インスタントラーメンや冷凍食品。

 これらの食べ物だって、労力を少なくしてより美味しく、手早く、苦労なく食事を楽しめるように生み出された物のはず。

 つまりは、僕たち人間は、本能的に面倒なことや無駄を疎ましく思うようになっているのだ。


 それにも関わらず、このマラソン、或いは持久走やランニングと呼ばれるスポーツは、いったいなんなのだろう。

 普通の対戦型の競技なら理解は簡単だ。

 他人を打ち負かしたり、翻弄するのが好きな人の感覚は、共感はできなくとも想像は容易につく。

 僕自身は他の誰かと競い合ったりすることに興味はないけれど、そういった競争心が自己研磨やより高い目標に近づくための有効な刺激になることは、そこまで違和感を覚えはしない。

 芸術性の高い記録型のスポーツや、百歩譲って短距離走、走り高跳びなどの種目に熱を捧げる人の気持ちも、それなりに分かっているつもりだ。

 誰よりも美しく氷の上を滑って踊ったり、他の誰よりも速く、高く、駆け跳ねることができたら、それは確かにすこぶる気分の良いものだろう。


 でも、マラソンだけは意味がわからない。

 こんなの、ただ疲れるだけじゃないか。

 自転車でいけば時間も浪費する体力も半分以下、いや十分の一以下くらいで済むことを、どうしてわざわざこんな原始的でただただ苦痛が伴うやり方でこなさなければいけないのか。


 と、僕がなぜ酸欠気味の頭で、世の長距離ランナーやランニングが趣味の人に、ぼこぼこに叩かれそうな偏った考えを巡らせているのかというと、それは当然、まさに僕がちょうど今、そのマラソンという苦行に嫌々ながらも勤しんでいるからというのが理由になる。


「ぐうぇっ……はぁっ……もうむりぃっ……でちゃう……口から僕の昼食の納豆とフレンチトーストがでてきちゃうぅ」

「なんだよ、雛太郎ひなたろう。もう根をあげんのかよ。まったく、俺と違って出来の悪い人間は大変だな。ちょっと走ったくらいで息を切らしやがって。というか昼食が納豆とフレンチトーストってどんな組み合わせだよ。絶対マズイだろ。お前は五感全部センスねぇな」


 僕をこんな苦行に誘った張本人である梟崎ふくろうざき先輩は、持ち腐れハイスペックをいかんなく発揮しぴんぴんとしている。

 それにしても五感全てがナンセンスとはこれいかに。

 これで第六感の類があるなら救われるけれど、残念ながら僕はそういった虫の知らせを拾うような経験もまるで持ち合わせていなかった。

 だいたい、納豆とフレンチトーストの相性はそこまで悪くないんだけどな。

 もっとも、べつに美味しさを求めて作ったわけではなく、家にあったのが卵とパンと納豆しかなかっただけだけど。

 メニューを考えるのが面倒になって、全部まとめて一緒くたにして食べたという、なんだか人としてぎりぎりな思考の末の昼食だったので、他人に勧めるようなほどの出来栄えではたしかになかった気がする。


「仕方ねぇな。じゃあ、ちょっと休憩するか」

「うぉえ……っぷ、お願いします」


 真っ白なウインドブレーカーに、ピンクのランニングシューズという組み合わせの梟崎先輩は、近くの公園に走る速度を緩めながら入っていく。

 高校時代のジャージ姿に、ニューバランスのスニーカーという、どこか間抜けな格好をした僕は、乱れに乱れきった呼吸を必死で整えながら先輩に続いた。


「ふー、やっぱ、走るのはいいよな。こうなんか、ぐちゃぐちゃっとした、頭の中のもやもやがすすすっと薄まって消えていく感じがするぜ」


 やけに擬音の多い曖昧な表現を口にすると、梟崎先輩は目を瞑って大きく深呼吸をする。

 時代の流れか、遊具が少なく、妙に広々と感じる公園には、もう日の沈んだ夜間ということもあり、僕たち以外に人の姿はない。


「なんか飲み物いるか? 奢ってやるよ」

「え? 本当ですか? じゃあ、二本くらいいいですか?」

「なんのじゃあだよ。清々しいくらいに図々しいなお前。だけどまあ、いいか、それくらい。俺くらい器の広いイケメンになると、こういうちょっと社会的常識を知らない、頭の弱い後輩すら可愛がっちまうんだよな」

「それは先輩の器が広いのではなく、僕が実際に可愛いんじゃないですか?」

「お前って、本当にくそうるせぇな。ちょっとこれ見てみろ」


 梟崎先輩は急にスマホで写真を見せてくる。

 そこに映っていたのは、ただの僕。


「なんですかこれ? 居酒屋で僕がピースしてるだけの、何の変哲もない写真ですけど」

「見たか? じゃあ教えてくれ。これのどこが可愛いんだ?」

「やめてくださいよ。そんな具体例まで出して、丁寧に僕の可愛さを否定しないでください。悲しくなるじゃないですか。だいたい、僕が言ってる可愛さっていうのは、内面的な話ですから」

「あっそ。お前は心も、どちらかといえばブスだと思うぞ。成績悪いし」

「成績は関係ないでしょ成績は!」


 心がブスと言われると、顔面をけなされるよりも、なんとなく傷ついた。

 そんな僕の傷心を適当に笑って流した梟崎先輩は、しかしなんと本当にミネラルウォーターとスポーツドリンクを一本ずつ僕に奢ってくれた。

 話しの流れで適当に頼んでみただけだったのだけれど、試しに言ってみるものだ。

 案外、本当に梟崎先輩は人としての器が大きいのかもしれない。


「でも珍しいですね。先輩が僕をランニングに誘うなんて。いつも一人で走ってるんですよね?」

「なんかお前、最近太ってきたからな。ちょっと、鍛えてやろうと思って」

「え、僕、最近太ってきたんですか?」

「冗談だよ。太ってきた気がするのは本当だけどな」


 おい、それは結局冗談なのか、そうじゃないのか、どっちなんだ。

 僕は自分の腹のあたりを摘まんでみる。

 あまり気にしていなかったけれど、言われてみれば若干余計な肉が付き始めている気がしないでもない。


「にしても先輩、よくこんなつらいこと一人でできますね。健康のためとか、そういうのありきでも、僕はむりですね。ウォーキングですらまともに続く気がしないです」

「まあ、俺の場合、陸上やってたってのもあるからな。元々、走ることに抵抗がねぇんだよ」

「へー、そうだったんですか。先輩ぼっち気質ですもんね。陸上部とか、なんか違和感ないです」

「全陸上部員に謝れ。だいたい、陸上部時代の仲良かった奴らと、一緒に走ることもあるしな」

「それは意外ですね。先輩に僕以外の友達がいたなんて。なんだか妬けますね」

「本気で気持ち悪いから、二度と妬くなよ」

「すいません。気持ち悪さが過ぎました」

「おう、反省しろ」


 ちょっと冗談半分で嫉妬しただけで、これほどぼろくそに言われて、謝るはめになる大学生も中々いないだろう。

 この世はとにもかくにも優しく手厳しい。


「だけどそうやって、地元の奴らと一緒に走ることも、もうないかもしれねぇんだけどな。そういう意味じゃ、ある意味お前の指摘は的を得てるかもな」

「どうしてですか? 先輩がイケメンだからですか?」

「いつも俺が自分で言ってることなのに、お前に言われると不思議とムカつくな」


 お買い得ペットボトルサイズのダカラを半分ほどまで飲んだ梟崎先輩は、僕から視線を外すと、どことなく寂しそうな顔で誰も乗っていないブランコを見つめた。


「元陸上部で六人の仲良いグループがあってよ、そこの皆で、高校を卒業した後も定期的に集まって一緒に走ってたんだ。男女比も、男三の女三で、なんとなくバランスがよくて、わりと楽しくやってた。でも最近、そのうちの一人が、もう集まりには参加しない、一緒に走りたくないって言い出したんだ」


 男女混合の仲良しグループ。

 同じ元陸上部という繋がり。

 僕からすれば、なんとも憧れるような関係性だ。

 でも梟崎先輩はどこか醒めた、退屈そうな眼差しで、小風に揺れる空っぽの座板を眺め続けていた。


「そいつがそう言ったせいで、なんとなくグループがぎくしゃくして、集まる予定を立てづらくなったんだよ。たしかにそいつはちょっとトラブルメーカー気質というか、部活の先輩とかコーチにも、相手が間違ってると思ったら迷わず向かって行くような、気難しい奴だったけど、悪い奴じゃなかった。芯のある、友達想いの奴だったんだ」


 なのに、あいつはもう、俺らとは一緒に走れないと、そう言ったんだ。

 そう言葉を繋げた梟崎先輩は、いつもの自信過剰気味の雰囲気をまるで見せず、飼い主を失った犬のような寂しさだけに包まれていた。



「最後に会った時も、あいつはさ、楽しそうに笑って言ったんだ。また、一緒に走ろうね、ってさ」



 どうしてその“また”が、もう来ないのか、それがわからないと梟崎先輩は嘆く。

 僕が二本分のペットボトルを飲み干しても、まだ先輩はもう一度走り出そうとはしない。


 それは小さな謎で、僕はその謎をすぐに解こうとはせず、ただ先輩を待っていた。


 疲れてはいても、靴紐は解けていない。

 今夜はもうちょっとだけ、先輩と一緒に走ってあげてもいい気がしていた。




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