ほどけかけた靴紐は、結び直さなくていい②
人間、気まぐれで普段しないような無茶をしてはいけない。
僕は今、完全に筋肉痛だった。
この遅発性の身体的疲労の原因は、明らかに三日前に梟崎先輩と一緒にランニングしたことが原因だ。
先輩許すまじ。
肉体的強靭性だけは
「もう、ヒナくんは本当にだらしないなぁ。そのランニングとやらに行ったの、三日も前なんでしょ? なんでまだ筋肉痛なの? 肉体年齢だけ還暦迎えちゃった?」
そんな痛みに苦しむ僕を、心底呆れたといった表情でジトっと見つめてくるのは、トレードマークの明るい金髪を普段とは違ってポニーテールにまとめた
なんでもレンタルCDショップでまとめ借りしたい漫画があるらしく、それの持ち運び役として僕は連れ回されているところだった。
「僕の身体は仙人の域に入ってるんだ。仙人は運動なんてしない。常識じゃないか」
「えー、むしろ仙人の方が体力とかありそうじゃない? だって山奥とかに住んで霞み食べて生活してるんでしょ? もう疲れるとか筋肉痛とかいう概念超越してそうじゃん」
「それはたしかに一理ある。僕もまだまだ修行不足ということか」
「うんうん、不足だねぇ。ヒナくんも一回、山に一週間くらい籠ってみたら?」
「そんなことをしたら、僕は間違いなく筋肉痛が来る前に天寿をまっとうしてしまうだろうね」
「まったくヒナくんはああ言えばこう言うのお手本だね。この文句タレ小僧!」
いつもの如く、僕は唐突に罵倒される。
でも僕から言わせてもらえば、どちらかといえば、のらりくらりと言い返してくるのは鵜住居さんの方で、僕はむしろいつも引き下がることの方が多いと思う。
「ほらほら、さっさと歩く。私早く漫画の続き読みたいんだから」
「ちょ、ちょっと押さないでってば。今の僕は茶柱より繊細なんだ。もっと丁重に扱ってよ」
「はいはい、そういうのいいから。筋肉痛の時って、実は逆に運動した方が早く治るらしいよ」
「え? そうなの?」
「ううん、知らない。適当に言った」
そのあまりに思いやりのない物言いは、菩薩でも眉を顰めるほど。
僕はひいひいと情けない声を上げると、鵜住居さんは嬉しそうにうくくと笑った。
楽しそうで何よりだ。
「でも最近運動してないなー。私もちょっと走ろっかなあ」
「そうした方がいいよ。あんまりぐうたらしてると、すぐにぶくぶく丸くなっちゃうよ」
「は? なんか言った?」
「あ、すいません。なんでもないです」
さっきまでのにこやかな笑顔が一変、能面も泣いて逃げ出すような無表情が鵜住居さんから向けられ、本能的恐怖から謝罪の言葉を僕は秒で捻り出す。
彼女はぽわんぽわんとしているようで、案外地雷を大量に埋め隠していて、ちょっと調子に乗るとすぐに僕の身に危険が迫るのだ。
「そ、そうだ。もし鵜住居さんが高校の頃陸上部でさ、昔からの部活仲間と定期的に一緒に走ることがあったとしてさ、ある日突然走りたくなくなるとしたらどんな理由がある?」
「なにいきなり。べつに私、元陸上部じゃないけど」
「いいから、いいから。た、たとえの話だよ」
危険な雰囲気を感じた僕は、空気を変えるために、多少強引に話題を転換させる。
咄嗟に口に出たのは、ちょうど先日梟崎先輩から聞いた仲良しグループの乱の話だった。
「うーん、そうだなあ。その部活仲間とはけっこう仲良い設定?」
「だね。マブダチ」
「うっわ。語彙が三世紀古いね。ちょっと引いちゃった」
「そんなに? なんかごめんなさい」
なんで僕はさっきからこんなに謝ってるんだ。
というか三世紀って古過ぎるだろう。
まだモーツァルトやベートーヴェンが自慢げに交響曲を奏でている時代だぞ。
同年代に言葉の古臭さで引かれるなんて、もしかして僕は浮世離れしていると言う意味では本当に仙人に近いのかもしれない。
「仲が良い友達と一緒にランニングかー。たしかにそれはけっこういい感じだね。わざわざ止めるとしたら、なんだろ。しかも陸上部だよね? ってことは走ること自体は好きなわけだもんね」
しかしどんなに口が悪くても、鵜住居さんはれっきとした好奇心の虜だ。
何かしらの謎を放り投げれば、彼女の柔軟で無邪気な頭はよくも悪くも答えを求めて推理を始めてしまう。
僕らはなんだかんだで、似た者同士なのだ。
「真っ先に考えられるのは、やっぱり“怪我”、かな。一緒に走りたくなくなったんじゃんなくて、一緒に走れなくなっちゃったんじゃないかな」
怪我。
その可能性は、たしかに僕も少し考えたものだ。
幾つかの浮雲がゆったりと空を漂う、抜けるような青の晴れ間から注ぐ心地良い陽の光を浴びながら、僕は三日前から頭の片隅で考え続けていた小さな謎を真ん中に引っ張り出す。
どうして、梟崎先輩の友人は、もう一緒に走りたくないと言ったのか。
それなりに思いつきがないわけではないけれど、どれも僕の中でまだしっくりときていない。
「でももし、怪我なら、正直にそう言うんじゃないの? だって仲の良い友達なんだからさ」
「仲が良いからこそ、言えなかったんじゃない? もし自分が怪我してるってわかったら、他の友達たちが気を遣って走りにくなるかもって思って」
「うーん。たしかにそれも一理あるか。他の友人たちは、これまで通り集まって欲しいから、自分自身の怪我は隠した」
「そそ。ヒナくんは、友達なら素直に話すべきとか思うかもしれないけど、友人への親愛の示し方は、案外色んな形があるからねえ」
「僕もべつに、その考え方を理解できないとは言わないよ。まあ、たしかに僕は、本当に仲が良い友達相手とは、互いに隠し事をしない関係でいたいとは思うけどね」
鵜住居さんの言うように、友達グループの雰囲気を優先して怪我を隠したという考え方が、やはり最も有力に思えるけれど、僕はどうしてもひっかかりを覚えてしまう。
気になるのは、言い方だ。
もう皆との集まりには参加しない。もう一緒に走りたくない。
この言葉は、あまりに棘があり過ぎる気がする。
ここまで露骨に突き放すような言い方をする必要があっただろうか。
友人を慮る奥ゆかしさよりは、むしろ明確な怒りを感じてしまう。
「後出しになっちゃうけどさ、そのもう走れなくなることを友達に告げる時の言葉が、もう一緒に走りたくない、だったらどう?」
「えー、なにそれ。後出しじゃーん」
「だから後出しになるけどって言ったじゃん。ごめんってば」
小さく束ねた金髪の毛先を、うなじを掻くようにしながら触ると、鵜住居さんは迷うように目を細めた。
「一緒に走りたくない、か。その台詞はたしかに怪我を隠してるというには、攻撃的過ぎるかなあ。友達のことを想ってるなら、たしかにもっと別の言い方がある気がするね」
情報の正確性を上げると、鵜住居さんも僕と同じように推理を一旦取り下げる。
地味に筋肉繊維だけではなく、関節にも痛みを蓄積させていた坂がやっと少し平坦になると、視界に目的地のレンタルCDショップが見えてきた。
最近のレンタル店は、漫画本も豊富に品揃えているらしい。
あまり漫画を借りるという発想のなかった僕は、なんとなく不思議な感覚だ。
「その友達たちの仲には、異性もいるの?」
「え? あー、そうだね。いるよ」
「となると、恋だね」
「へ? コイ? なにが?」
「だからヒナくん、恋だよ。まな板の上にいる方じゃないよ」
脳内でぴちぴちと口を開けた魚に餌を与えていた僕に、鵜住居さんがなぜか意地悪そうな顔で念押ししてくる。
恋、か。
それもまた、僕の中になかった発想だ。
僕がこの謎から感じていたのは、感情で表現するなら、“怒り”、だった。
どうも僕のイメージする恋とやらからは、程遠いものに思える。
「友達グループの誰かを好きになっちゃったから、もう一緒に走りたくない、つまりは会いたくなくなったってこと? ふつうに考えて逆じゃない? 好きなら、むしろもっと会いたくなるんじゃない?」
「ふふふっ、ヒナくんは乙女心がまったくわかってないなあ。これだから雛太郎じゃなくてピナ太郎って呼ばれるんだよ」
「いや、呼ばれたことないけど」
鵜住居さんはお得意の鬱陶しい表情をしながら、やれやれと僕に見せつけるように首を横に振っている。
好きな相手には、いつだって会いたい。
そんな僕にとっての常識は、この世界ではそこまで通用しないものなのだろか。
「好きすぎて会いたくないって思う事もあるわけよ。いつだって乙女の恋心は知恵の輪よりも複雑に絡まってるんだから」
「それはちゃんと解けるようになってるの?」
「もちのろんだよ。時間をかけて、真剣に取り組んでくれれば、最後にはちゃんと解けるって約束してあげるよ」
悪戯っ子特有の輝きを目に潜ませて、鵜住居さんは白い歯を見せて笑う。
好きすぎて、会いたくない。そこから感じるのは、焦がれるような苦しみ。
もう一緒に、走りたくない。そこに感じるのは、突き放すような怒り。
言われてみれば、似たような感覚がしなくもない。
でも、僕はまだどうしても、どこか歯の隙間に野菜の繊維質が絡まったような違和感を拭いきれなかった。
「ヒナくんはないの? 好きな人と会いたくないって、思うこと」
「僕はないよ。いつだって、好きな人とは一緒にいたい。いつ会えなくなるのか、わからないからね」
「……そっか。ヒナくんに好かれる人は、幸せ者だね」
じゃあ、鵜住居さんは幸せ者だね、なんて気障なことを言おうかと思ったけれど、目の前ではにかむ彼女の笑顔があまり可憐だったから、僕は無駄に恥ずかしくなってしまって口を噤んでしまう。
鵜住居さんが走り出したら、僕はたぶん追いつけない。
だからこうやって、隣りを一緒に歩ける時間を、できる限り大切にしようと思っている。
彼女の隣りを歩けるなら、漫画本の十冊や二十冊運ぶ覚悟くらいは、こう見えて持っているのだ。
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