ほどけかけた靴紐は、結び直さなくていい③



 ずるずると、バリカタの細麺を啜りながら、僕は鼻で息をする。

 今日は意欲と態度以外の部分が不良学生の僕にしては珍しく、昼過ぎからカフェに引きこもり来週提出の課題をこなすという、実に模範的な大学生の休日を送った日だった。

 足りない頭でなんとか東方見聞録に出てくるサラマンダーに関するレポートをまとめ終わった頃には、すでに日はすっかり沈んでしまい、このように僕が長浜ラーメンを夕食にするのにちょうどいい時間になってしまったというわけだ。

 ちなみにマルコ・ポーロの東方見聞録に出てくるサラマンダーは、火を噴く四大精霊の一種や、トカゲやサンショウウオというわけではなく、石綿アスベストのことをいうらしい。

 数時間かけて僕が描いた獰猛で煌びやかな、燃えるドラゴンの絵はまったくの無駄になってしまったのは今日一番の悲しい出来事だった。



「んおれ? ノブじゃねぇか? ノブこんなとこでなにしてる?」

「え?」



 博多ラーメンとの違いが全くわからない、白濁色の豚骨ラーメンをつついていると、ふいに肩を叩かれる。

 何事かと思ってみれば、知らない禿げ頭のオジサンが僕の隣に満面の笑みで座るところだった。


「大学はもう卒業したんだべ? こんなところでなにしてるず。東京馴染めんくて帰ってきたっけ?」

「え、あ、いや、その」

「おいぃー! ノブぅ! がははっ!」

「わ、わわわ」


 僕は完全にパニックに陥る。

 なぜか全くもって面識のない髭もじゃのオジサンに、肩を肘でつつかれているからだ。

 鼻頭を真っ赤にしたオジサンは僕のことをノブと呼びながら、楽し気に哄笑している。

 誰だよノブって。

 僕は本能寺で焼き討ちされた天下人じゃないし、相方に大悟がいる岡山のお笑いコンビでもないぞ。


「店長ぉう! ノブに餃子とビールだしてやってけろ!」

「あいよー」

「いや、ちょっと待ってください。僕、その、ノブさんとかいう人じゃないんですけど、あの、人違いっていうか……」

「相変わらずじゃかあしいのノブは! 黙って食っとけぇ、言うんじゃ!」

「あ、はい。すいません」


 怒られた。僕は知らないオジサンに怒られた。

 だけど餃子とビールを奢ってくれるらしい。

 ノブを恨むべきか、感謝するべきか、僕は迷う。


「そんでどうよノブ。嫁さんは貰ったか?」

「嫁さんですか? いや、まだですけど」

「なして?」

「なして、と言われましても……」

「ノブはぐずらぁもずらぁしとるのぉ」

「は、はい?」


 なんだかドグラマグラみたいな事を言われた気がするが、いまいち訛りが酷くて何を言われているのかわからなかった。

 でもおそらくだけど、僕の予想では褒められてはいない。

 やがて生ジョッキと羽根つき餃子が運ばれきて、僕の長浜ラーメンで満たされ始めていた胃が再び空腹を主張し出した。


「乾杯じゃノブ!」

「あ、どうも、乾杯です」


 現在の僕を包む状況がよくわからないけれど、とりあえず乾杯しておく。

 どこかノブの相方に似ているオジサンは、気持ちよさそうに麦で喉をゴクゴクと鳴らす。

 見ていて清々しいくらいの勢いでジョッキの中身を一瞬で半分に減らすと、謎に口をモゴモゴさせながら餃子を摘まむ。


「ほらノブも食え食え」

「ありがとうございます」


 勧められるがままに、僕も餃子に箸を伸ばす。

 パリパリっとした羽根が崩れたところを、上手い具合にすくいながら醤油と酢で頂く。

 よく焼かれた焦げ目以外の部分は、もちもちとした食感。

 噛めば噛むほど旨味の詰め込まれた肉汁が溢れ、ニラと塩味の香りが鼻腔を抜けていく。

 ごくんと、餃子を飲み込んだ後は、ビールをまた喉に一注ぎ。

 脳から幸せ物質が分泌されていくのを感じながら、僕は一言美味しいと口にした。


「ノブは美味そうに食うなあ」

「すいません、ありがとうございます」

「いい、いい。食え食え。わしはこれさえありゃいい」


 ジョッキの残りをぐっと飲み干すと、大悟オジサンは店員におかわりをご所望する。

 遠慮なく餃子を食べ続ける僕を見つめる瞳は、まるで孫を見守る好々爺のようで、初対面の赤の他人のわりにはそこまで嫌な感じはしなかった。


「でもまたノブに会えるとは思わんかったなあ。人と人の繋がりは、大事にせんとなあ。こうやって飯をまた食えるだけで、いい気なるもんなあ」


 大悟オジサンは眠いのか、目を半開きにしながら、がははと小さく笑う。

 人と人の繋がりは、大切。

 当たり前のような言葉でも、僕より何十年も長く生きてきた人が言うと重みが違う。

 

 でも僕は余計なことを推理してしまう。

 

 大悟オジサンは、もうそれなりにいい歳だ。

 普通だったら奥さんもいるだろうし、息子や娘は超えて、孫だって本当にいてもおかしくない。

 それにも関わらず、駅前の飲み屋街で、今一人で晩酌をしている。

 もし僕がいなかったら、喋る相手もおらず、寡黙な店主と、十回喋りかけて一回返事が返ってくるくらいの、会話と呼ぶにはあまりに寂しい作業に勤しむだけだっただろう。

 

 どうしてこの人は、家に帰って、家族と夕食を共にしないのだろう。


 考えられる可能性は幾らでもある。

 奥さんと仲が悪いとか、今日はたまたま奥さんが留守にしているとか、そもそも結婚していないとか、結婚していたけれど何らかの事情で別離してしまったとか。

 僕は長浜ラーメンのスープを掬って、匂いとは裏腹に案外あっさりとしている味わいを楽しむ。


「ノブも人と人との繋がりは大事にせんといかんぞ。わかったな?」

「はい。肝に銘じておきます」

「がはは。んだんだ。ノブは素直でいいず」


 どこの誰だか知らないノブの好感度を上げながら、僕は改めて考えてみる。

 それはここ最近僕の頭の中で、よく考えられている梟崎先輩の友達の話だ。

 べつに、僕が悩む必要は全くもってないのだけれど、一度気になってしまうと仕方がない。

 正しいかどうか確認まではしなくても、僕なりに納得のいく答えが見つからないとどうもやきもきして落ち着かないのだ。


 梟崎先輩は言っていた。もう一緒に走りたくないと言った友人は、友達のために先輩やコーチに食ってかかるほど芯のある奴だったと。


 それはつまり、その友人はどちらかといえば、友達想いで、友人を大切にするタイプの人間だということだ。

 陰口を言うような人でもなければ、言いたいことを我慢して押し込むような人でもないように思える。

 ちょっと友人に不満などがあれば、直接その本人に言うような漢気のある人間性。

 そんな、人と人の繋がりを大切にするような人が、それを一方的に放棄するような時は、どんな時だ?


 鵜住居さんは言っていた。怪我でなければ、恋だねと。


 好きな相手がいるから、会えない。 

 そういった感覚を僕が否定することはない。

 そういう人もたしかにいるだろう。

 だけど、どうしても、その梟崎先輩の友人が、そういったたぐいの人だとは思えなかった。

 好きになったら即告白、とまではいかないけれど、俗にいう好き避けと呼ばれるようなものをするほどいじらしい性格をしているのは、どうにも違和感がある。


 餃子をまたひとつまみ。ビールで喉を鳴らし、長浜ラーメンの残りを啜る。


 人と人の繋がりは大切にし、恋愛感情に関して臆病な方でもない。

 そんな人が、友人との距離を置くのはどんな時だ。


「おい、ノブ? どうしたず? ぼげぇっとした顔しと?」

「あ、すいません。ちょっと考え事をしてて」

「冷める前におわしちまえ。わしはもう要らんからよ」


 出会った当初から一貫して僕をノブとかいうどこぞの大卒と勘違いしている大悟オジサンに急かされ、ラー油で味に変化を加えながら餃子を食べ進める。

 

 ――待てよ。僕をどこぞのノブと勘違い?


 餃子の油でいつも以上に回転数の良い頭が、きゅるりきゅるりと動くのが分かる。 

 とある仮説が電撃的に脳裏に浮かび、僕はぬぅあっ!と思わず叫ぶ。


「な、なしたノブ? 餃子でも喉に詰まらせたっけ?」


 梟崎先輩の友達は、友達想いだ。

 それは先輩の言葉と雰囲気からも明らか。

 となれば、その人の発言はきっと、常に友との繋がりを第一優先にしたもの。

 友達との繋がりを捨てるためじゃない。

 繋がりを保つために距離を置いたんだ。

 一旦距離を置くのは、友情に問題がないとしたら、恋愛が関係している。

 でも、それはきっと、その人自身の恋愛が関係していなくてもいい。

 仲良しグループの友情関係という靴紐がほどけかけていても、いますぐに結び直す必要はない。

 靴紐を結び直すための両手は、もっと大切なもので埋まっていたんだ。


 

「僕、わかったかもしれません、大悟オジサン。ほどかけた靴紐は、結び直さなくていい」

「は? なにいってるず? ノブが履いてるのはサンダルじゃねぇか。それにわしの名前は大悟じゃねぇぞ?」 



 あっけにとられたような大悟オジサンの前で、最後の餃子を食べ終えると、僕は梟崎先輩にメッセージを送る。

 これはきっと解かなくてもいい謎だけれど、先輩だけは僕の推理を知っておいてもいい気がしていた。




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