恋文の返事は、書かなくていい②
しんしんと積もり続ける深雪を眺めながら、僕は人生で卵を腐らせた経験があったかどうかを考えていた。
もふもふと言うよりかはごてごてと言った方が正確なウェアを着込んだ、沢山のスキー客が何人も僕の目の前を通り過ぎていく。
客層は年齢だけではなく人種も様々で、鼓膜に届く声のうち半分ほどは音としては捉えられても、言葉としては捉えられない。
あぁ、とにもかくにも寒くて眠い。
白い吐息が新年の青空に昇る早朝に、僕はバスの停留所で一人寂しく掲示された蔵王温泉の地図を眺めている。
もちろん僕はシーズンごとに雪山を一人駆け降りるボーダー趣味は持っていないし、休日になればわざわざ山を登って温泉巡りをするほどの行動力は持ち合わせていない。
つまり、どうして僕がこうやって硫黄の匂い漂う有名温泉街にいるのかといえば、それは当然友人の一人に誘われたからという、案の定な受動的な理由に他ならない。
そして付け加えて、どうして僕がこうやって喋り相手も持ち合わさず、ぼんやりと自慢の間抜け顔を無意味に晒してるかといえば、至極単純、待ち合わせ時間の一時間以上前に辿り着いたからに他ならない。
現地集合という言葉を受け取った僕は、それはもう気合十分やる気満々丸の内オアゾでこの三が日を過ごしていた。
べつにスキーヤーでも温泉同好会所属でもなんでもないぼんくら没個性無趣味大学生の僕が、どうしてこれほどこのイベントにモチベーションを高めているかといえば、それはもうありがち過ぎて空笑いがでるような理由によるものだ。
恥を忍んではっきり言えば、この温泉スキー旅行には、僕の好きな女の子が来るのだ。
というか、その好きな女の子に誘われて僕はノコノコありがねはたいてやってきたと言うことになる。
『ねね、ヒナくん! 一月四日とか五日あたりヒマ!? 一緒にスキーいかない!?』
そのお年玉よりも遥かに価値のある誘いが届いたのは、ちょうど年が暮れる頃。
あまりの興奮に僕は新年早々寝付けず、初夢を見ることなく天井の染みの数を数えながら初日の出をお出迎えした。
スキーもスノボもやったことなんて一度もないけれど、問答無用で即答。
そして来る当日、またもや睡眠不足の状態で夜を明かした僕は、こうして集合時間の遥か前から、僕の三大欲求の内の一つを奪った女の子を待っているのだった。
けれども、そろそろ時間も近づいてきている。
僕は特に通知の来ていないスマホを眺めながら、欠伸を一人噛み殺す。
「……お兄さん、ずいぶんと眠そうだね。獏に夢でも食べられた?」
硫黄の匂いを卵の腐った匂いと表現する人は、皆卵を腐らせた経験が過去にあるのかどうかを考えていると、僕より遥かな眠そうな声の日本語が聴こえてくる。
蔵王スキー場のマップから目を離して、隣りを見てみれば、そこには見覚えのない子供が一人立っていた。
濡色の厚い紺ジャケットを羽織り、鮮やかなライトブルーのニット帽を深く被っている。
中性的で整った容姿からは、少年なのか少女なのか、パッと見判断はつかない。
しかしその知性ある凛とした眼差しは、たしかにこちらに向けられていて、そのことに僕は困惑した。
「……えーと、その、もしかして、僕に言ってる?」
「一つ、あたしの考えを話そう」
それはイエスの意味か、ノーの意味か。
僕の困惑に明確な答えを出さず、その子は語り始める。
一人称から察するに、どうやら少年ではなく少女らしい。
「ここに、君の待っている人は、来ないよ」
「……え?」
指を一本立てると、ニコリともせずにその少女は獏に夢を食べられることよりも、よっぽど怖ろしいことを言う。
なんて不吉なんだ。
むしろこの子の方が座敷童か雪女の娘かなんかなのではなかろうか。
「……今、君、なんだかやたらと失礼なことを考えなかったかい?」
「ちょ、ちょっと待った。そっちこそ、いったいいきなりなんなんですか? 僕と君、知り合いじゃないよね?」
「少なくとも、あたしは君とは初めて顔を合わせるよ」
やはり超常能力の類を持ち合わせているのか、僕の脳内を見透かす少女は、どこか見慣れたジトッとした視線を僕に向ける。
いとも簡単に動揺した僕は、そんな彼女から若干を距離を取った。
「まったく。親切で声をかけたというのに、なんとも礼の欠く人だね君は」
「だって、待っている人がここには来ないとか、急に不穏なことを言うから」
「じゃあ、賭けるかい? 君の待ち人が、ここに来るかどうか」
どこか挑発的な笑みを見せると、少女は唐突に賭けを提案してくる。
見た目から判断するによくて中学生、下手したら小学生くらいの年齢なのに、もう賭け事だなんて。
将来有望なギャンブラーが東北の街には育っているらしい。
「……いいよ。君が誰だか知らないけれど、その賭け、乗った。大人を甘くみちゃいけませんよ」
「ふむふむ。なるほどね。想像通り、奇妙な社交性を持っている。想像より、若干腹の立つ口調だけれど、まあ、それは許そう」
ずいぶんと偉そうなことを言う少女は、興味深そうに僕の顔を覗き込んで、何が楽しいかうんうん一人で頷いてる。
なにがどうして見知らぬ未成年と賭けをすることになったのか、よくわからないけれど、僕はこの賭けに負ける気はしない。
たしかに僕が待つ彼女は自由気ままで、予想の斜め上を行く人だけれど、友人との約束を簡単に反故にするような人なんかでは決してないのだ。
旅行の計画を、当日になっていきなり破るようなことは、ありえないと断言できる。
もしそんな人だったら、僕は好意を抱いていないのだから。
「ずいぶんと、自信があるみたいだね」
「当たり前だよ。君は僕がどんな人を待っているか、知らないのさ」
僕は、推理する。
この少女が、なぜこんなわけのわからない賭けを持ちかけてきたのか。
おそらく、この子は、ただの暇潰しか何か理由はわからないけれど、ずっと僕のことを観察していたのだろう。
ずっとバスターミナルで、あからさまに暇そうに目を擦る冴えない大学生がいたら、友人に雑に扱われている可哀想な青年だと憐れまれても仕方がない。
まさか待ち合わせ時刻の一時間以上前に着いているなんて思わないはずだ。
どうしてこの少女が、そんな前から僕の行動を見ていたのかは大きな謎だけれど、普通はこう思うはずだ。
もうこの青年は、一時間以上も待ちぼうけを食っていると。
実際は違う。
まだ彼女は遅刻をしていない。
まだ、約束の時間にすらなっていないのだ。
「じゃあ、この賭けにあたしが勝ったら、一つ、お願いをしてもいいかな?」
「お願い? べつにいいけど、もし僕が勝ったら、僕もお願いしていいの?」
「ああ、構わないよ。性犯罪に絡まなければなんでも」
「なんで“性”犯罪限定なのっ!?」
「だって見知らぬうら若き少女に声をかけるなんて、不審者以外しないでしょ?」
「いやいや、声をかけてきたのは君の方だよね!?」
「ふむ? そうだったかな?」
「待て待て! 賭けの内容以外で脅すなんて卑怯だぞ!」
「ふふっ。やかましい人だね。ちょっとした冗談だよ。もちろん、正々堂々、あたしは君に勝つよ。あたしと君、条件は一緒だ。これは公平な賭けだからね」
不敵に笑う少女は、しかしどこまでも自信満々だった。
それは全てを見透かしたような、確信に満ちた瞳。
僕はここで、どこか違和感を覚える。
“正々堂々、あたしが勝つよ。あたしと君、条件は一緒だ”
この賭けは、果たして、本当に公平だと言えるのだろうか。
いや、違うはずだ。
そう、この賭けは、“僕”が有利なはずなのだ。
僕は、僕が待つ相手の性格を知っている。
しかし少女は何も知らない。
それにも関わらず、どうして公平だと言い切れるのか。
僕はそこで、小さな罠に気づく。
“ここに、君の待っている人は、来ないよ”
ここに、僕の待っている人は、来ない。
それは決して、僕の約束を彼女が破るという意味とイコールではない。
その違和感の正体を見破った瞬間、僕を嘲笑うかのようにスマホが僅かに振動する。
やられた。
僕はポップアップする、その待ち望んだ相手のメッセージを目にして、敗北を知る。
『ヒナくん! 着いたよ! 駐車場にいるから位置情報送るね! はやく来て!』
現地集合。
ある程度の親交関係があるならば、もしバスを使うのなら、家も近いのだし一緒にバスに乗る方が自然だ。
もしそうしない理由があったとすれば、それは特殊な交通手段を使う可能性。
たとえば、誰かの自家用車に乗って来る、とか。
僕がスマホの画面から顔を上げれば、そこには案の定にくたらしく笑みを浮かべて、青のニット帽子の向きを整える少女がいた。
「どうやら賭けの結果は出たみたいだね……
「……あの、その君は、どちらさま?」
これは、やはり公平なゲームだった。
そして僕は、彼女の自由奔放さと、待ち合わせ場所の正確な推理に失敗した。
ただもっとも、僕が見落としていた点は、別のとこにある。
それは、驕りだ。
こんな冴えない見ようによっては不審者でしかかない僕に、赤の他人の、しかも幼い美少女が好奇心だけで話しかけてくるわけがないじゃないか。
もし声をかけられたとしたら、僕は知らなくとも、向こうは僕の無害さについてある程度知っているのだろう。
「改めて初めまして、だね。あたしの名前は
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