恋文の返事は、書かなくていい④



 しゃりしゃりと、降り積もった新雪を踏みながら何度か坂を登っていくと、レトロな大正情緒を感じさせる旅館にたどり着く。

 どうやらここが一泊二日する予定の宿のようだ。

 かじかんだ手を揉み解しつつ周囲を見渡してみれば、ドッグランのような場所が併設されていて、そこをふさふさの尻尾をブンブンサテライツさせるゴールデンレトリバーが視界に入った。

 こんなに寒いのに、よくあんなに元気に騒げるな、と一瞬思ったりしたけれど、わざわざ薄っぺらい板を雪山の頂上によいしょよいしょと持っていて、ただひたすら滑り降りてはしゃごうとしてる自分が言えることではないと気づく。


「なんだかあの犬、ヒナくんに似てるね」


 ふいに隣りを泳ぐ白い吐息。

 鼻の先を仄かに赤らめた鵜住居さんが、ぐふぐふと笑いながら僕の横に立つ。


「いやいや、どちらかといえば、鵜住居さんの方が似てない?」

「は? どこが?」

「ほら、髪の色とか一緒じゃん」

「うっわ。めちゃ安易。私はあんなに大口開けてヘラヘラしながらよだれダラダラ垂らさないよ。あれはヒナくんでしょ」

「まるで僕がいつも大口を開けてヘラヘラしながらよだれダラダラ垂らしてるみたいな言い方はやめてよ」

「ヒナくんの場合、ヘラヘラじゃなくて、ハァハァか」

「なんか変質者に寄せてない!? まだ犬の方がましだ」

「うふふっ。きゃんきゃんうるさいなヒナくんは。やっぱり私じゃなくて、ヒナくんの方があのワンちゃんに似てるよ。あの憎めない感じとか、そっくりじゃん」


 私も犬、飼いたいな、と呟く鵜住居さんは一瞬僕の方を見ると、何を思ったか右手を差し出す。


「はい」

「え? なに?」

「お手だよ、お手。できないの?」

「いや、できるけど」

「ならほら、早く」


 期待に満ちた視線に、僕はいとも簡単に屈する。

 雪のように白くて柔らかそうな、鵜住居さんの手に、僕はそっと手を乗せて可愛らしい飼い主の目を見つめ返す。


「えと、その、わん」

「ふふっ。よくできました」


 この小芝居に満足したのか、鵜住居さんはご満悦だ。

 僕の手はいまだに彼女の手の上に乗ったまま。

 冬を忘れさせる温もりが、僕に伝わる。

 犬の習慣になれていない僕は、お手のやめ時がわからず、そのまま間抜けに鼻の濡らすだけ。


「……こらこら、そこのばかっぷるさん。そういう乳繰り合いはせめて宿の中に入ってからにしてくれないかな。まったく年明け早々仲睦まじいのは結構だけれど、人目は多少気にして欲しいものだね」


 ぴょんと、その言葉に僕の心臓は飛び跳ね、鵜住居さんはぎゃあと尻尾でも踏まれたみたいな声を出した。


「ゆ、夕ちゃん!? ち、乳繰り合いなんてしてないよ!」

「盛り上がってるところ申し訳なかったね、風音さん。あたしも邪魔はしたくなかったんだけれどね。これ以上芹叔母さんを待たせたら、機嫌が悪くなるから」


 やれやれ、と言った態度で僕らを見て笑うのは、深い蒼のニットをまた微妙に被り直す夕鳳ちゃんだった。

 女子中学生というよりは、孫を見るグランドマザーのような余裕を漂わせて、彼女は口元を緩めてこっちを見つめていた。


「ほら、お二人はお熱いかもしれないけれど、あたしたちは寒いから、一度中に入らせてもらってもいいかな?」

「もう! 夕ちゃんもからかわないでよ!」

「あはは。こんなものを見せられて、からかわないでいられるほど、あたしはまだ大人じゃない。現役女子中学生にこんなご馳走与えちゃだめさ」

「……なんだか、鵜住居さんと夕鳳ちゃん、どっちが年上かわからないね」

「は? ヒナくんの毛、全部毟り取るよ?」

「こんな寒いのに!? 凍え死んじゃうよ!?」

「寒くなければいいのか……ヒナさん、たぶん、心配すべきところはそこじゃないよ……」


 苦笑する夕鳳ちゃんは、そこで踵を返すと、とっくのとうに旅館の入り口にたどり着いている鴨沢女史の方へ歩いていく。

 僕と鵜住居さんは、そこで一度互いに目を合わすと、なんとなく気恥ずかしくなって、すぐ視線を逸らす。

 そして、鵜住居さんは飼い犬をリードもせずに置き去りにして、玄関口の方へ小走りで向かっていった。

 それでも僕は忠犬なので、勝手にお散歩をすることもなく、そのゴールデンイエローの髪を追って歩くのだった。




 旅館特有の心ほぐされる、ゆったりとした音楽に出迎えられ、僕らは暖房の効いた暖かいエントランスに入る。

 すると驚くことに、旅館の外だけでなく、中に入っても、犬がいた。

 雪の上で元気よく飛び跳ねていたゴールデンとは違って、とろんとした瞳で床に寝そべるバーニーズマウンテンドッグ。

 貫禄たっぷりに僕の顔を一瞥すると、すぐに興味を失ったのか尻尾の一振りも一吠えもせずそっぽを向いた。


「荷物を部屋に置いたら、四十分後にまたここに集合だ。わかったな添木。遅刻したら置いてくからな」


 てきぱきとチェックインを済ませた鴨沢女史は、僕に鍵を渡すと、そのままスタスタと廊下を進んでいく。

 一応この旅行の幹事は彼女らしいけれど、スキーが好きなのだろうか、それとも温泉が狙いか。

 

「ヒナさんはあたしの父さんと同部屋だから、よくしてやってくれ。身内ながら色々と癖のある人だけれど、たぶんヒナさんとは仲良くやれると思う」

「夕鳳ちゃんのお父さんって、どんな人なの?」

「そうだな。一言でいえば、怠惰な人だよ。悪い人じゃないんだけれどね」

「ふふっ。そうだね。でも私も鷹也さんとヒナくんはけっこう気が合うと思うよ。だらしないところもなんか似てるし」

「よくわからないけれど、僕と短所が似てる人なのか」

「あたしの父親とヒナさんを一緒にしないで欲しいな」

「えと、その、なんかごめんなさい」

「その素直さに免じて、許そう」


 女子中学生に、許してもらえた。嬉しい。


「それじゃあ、ヒナくん。また後で! 寂しくても吠えちゃだめだよ!」

「父さんもじきに来ると思うから、よろしく頼むよ、ヒナさん」


 そしてしばらく廊下を一緒に歩いた後、鵜住居さんと夕鳳ちゃんは、従姉妹というよりは姉妹のような雰囲気で、そのまま僕とは違う方向に向かった。

 ひとりぼっちになった僕は、大したものも入っていないのにやけに大きいリュックサックを無意味に一度揺らすと、渡された鍵の部屋へ向かう。

 僕が持つ鍵には、“すずらん”、と書いてある。

 どんな見た目かはまったく知らないけれど、たぶん花の名だ。

 窓からは、真っ白な温泉街の街並みがほどよく覗けて、気分が良い。

 じきに、すずらん、と表記された部屋にたどり着き、僕は当然のようにノックをせず扉をあけた。


「……おー、畳だ」


 間抜けがすぎる独り言をひとつ。

 実家がマンション住まいなので、畳の大部屋が新鮮で、僕は思わず感嘆としてしまった。

 広々とした畳部屋の奥には軒が用意されていて、あそこで日本茶でも啜ればこんな僕でも絵になるのでは、なんて愚かなことを空想してしまう。


 さて、暇だな。


 意識低い系男子大学生なので、荷物を部屋の隅に置いてしまえば、もうさっそく準備することがなくなる。

 身体が冷えたので、軽く尿意を催すけれど、さすがにそれで四十分は潰れない。

 今更ながらスキーのコツでも勉強しようかと、テレビの横に置いてあったウィンタースポーツの雑誌にてを伸ばそうとして、そこで僕の視界にもっと興味をそそられるものが見つかる。


“知る人ぞ知る、知らなくてもいい、蔵王三不思議”


 どこか親近感のある言い回しが表題になっている、薄い冊子。

 七不思議じゃなくて、三なところに、謙虚さを感じて感心したけれど、よく考えたら、そういうわけじゃなくて、蔵王山とかけてるのか。

 感心して、損した。

 くだらない駄洒落に少しでもおっと思ってしまった自分が悔しい。

 

 ふむ。それで、どれどれ。どんな不思議があるのだろう。


 暇つぶしがてら、いつもの好奇心に誘われて、僕は全部で三はおろか二枚ほどしかないページの一枚目をめくる。


“蔵王山第一の不思議 花束を届けるアライグマ”


 一つ目の謎は、こう記されていた。


“蔵王山スキー場には、玄人向けの山スキーコースがあるが(公式のコースではないので整備されてなくて危ないヨ! 夜や悪天候の際は絶対に近づくべからズ!)、その道の途中にいつもアライグマが現れるスポットがあり、そこにはいつもなぜか花束が置いてあるのだ。しかもその花束は嵐などで一度なくなったと思うと、再び新しいものが置かれるという。果たして、こんな雪山の奥に誰が花束を届けるのか。いや、決まっている。アライグマだ。この花束は、アライグマが届けているに違いない。しかし、どうしてこのアライグマは花束を届けるのだろうか。この山スキーコースで不幸な目にあった誰かに対するたむけだろうか・・・”


 三不思議らしく、僅かに不吉な結びで一つ目の謎は締められている。

 花束を届けるアライグマ、か。

 この話がどこまで本当の話かはわからないけれど、たしにかに、それは小さな謎だった。

 花を届ける習性があるのだろうか。

 気になって思考が働きだすのを我慢して、一旦次の謎に目を向ける。


“蔵王山第二の不思議 深夜の見えない客と勇敢な犬”


 第二の謎は、こう記されていた。


“蔵王山の某旅館で、こんなことがあった。もう予約の客が全員到着し終わった雪深い深夜。りん、と呼び鈴が一度鳴った。しかし夜番の女性A子が受付に向かっても。そこには誰もいない。聞き間違いかと、頭捻るA子。踵を返して奥に戻ろうとする彼女だったが、また、りん、と呼び鈴が鳴る。振り返っても、やはりそこには誰もいない。怯えるA子。すると、彼女の耳にべつものが聞こえる。『部屋はどこ?』。見えない客が、部屋を探している。怖くなったA子は逃げるように奥に戻ると、そこにはさっきまで寝ていたはずの宿の看板犬がのそりと起き上がっていた。そしてりん、と、三度なる呼び鈴。恐怖に動けないA子の横を通り過ぎ、看板犬は何かに導かれるように受付に向かい、闇に消えていった。それからしばらくすると、看板犬は何事もなかったかのように戻り、すやすやと眠りにつく。そしてもう二度と呼び鈴が鳴ることはなかったという・・・”


 二つ目の謎も、どこかホラーチックな疑問を残して話は結ばれていた。

 見えない客と勇敢な犬。

 たしかにタイトル通りの話だった。

 でも、どうして犬が受付に向かっただけで、呼び鈴が止まったのだろう。

 霊的なものだとして、心残りが犬とのふれあいなんてことが、あるだろうか。

 これもわりと、興味深い。


 きゅいきゅい、きゅきゅいきゅい。


 と、次の三つ目の不思議に視線を移そうとしたところで、尿意が無視できないレベルに達した。

 好奇心と下半身の欲求を天秤にかけ、僕はぎりぎりで身体的な焦燥に敗北する。

 いそいそと僕の住んでいる家のユニットバスとは清潔感が段違いなウォシュレットに座り、小さな謎たちよりもよっぽど緊急性の高い仕事を終える。

 三つ目の謎はなんだろう。

 これはもはや、四十分じゃ足りないかもしれない。

 手を洗いながら、一つ目の謎にあったアライグマの花束について、妙なことを考えてしまう。

 どうして、花じゃなくて、花束なのだろう。

 獣にしては、やけに丁寧だな。



「……たしかになあ。あえて花束って表記にしてあんの。気に、ならんくもないな」

「そうそう、花じゃなくて花束って言い方が、なんか気になる。それに、何の花なんだろうな–––ってへっ!?」


 

 奇声をあげて、軽く喉を痛める。

 なぜか僕の独り言に返事が返ってくる。

 トイレから部屋に戻ると、そこには堂々と畳の真ん中にどこぞのバーニーズみたいに寝そべりながら、僕がついさっきまで読んでいた冊子を仰向けに読む、犬みたいな髭を生やす成人男性がいた。



「どうも、初めまして、今晩のぼくの同居人くん。ぼくは大森鷹也おおもりたかや。これも何かの縁だ。今日は獏が夢を食べる暇がないくらい、長い夜にしようじゃないか」


 

 

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