落とし物は、見つからなくていい③
この世には二種類の謎がある。それは小さな謎と、大きな謎だ。
小さな謎の方であれば、僕のカラスと五分五分の脳でなんとか解き明かすことができるのだけれど、大きな謎となると、これがてんで手が出ない。
そしてちゃぶ台を挟んで僕の前に座る、唐紅色の瞳をした女性は、完全に大きな謎だった。
「添木くん」
「はい、添木です」
「うーん、雛太郎くん?」
「えと、はい。雛太郎です」
「あ! ヒナくん!」
「えーと、ヒナくん、とやらではたぶんないです」
「ううん! 君はヒナくん!」
「……はい。僕はヒナくんです」
僕がせめてもの詫びとした差し出したインスタントのあさり汁を飲みながら、涼やかな風貌の女性、名を仮に“レモンさん”としよう、は何がそんなに楽しいのかニタニタと笑っている。
レモンさんとは対照的に、もう九月も終わるというのに真夏のように額を汗で濡らす僕。
せっかくの美人さんと二人きりなのに、僕の心はまるで踊る気配を見せていなかった。
「それで、ヒナくんは昨日の夜のこと、ぜぇんぜぇん覚えてないんだっけ?」
「ほんとにごめんなさい。いつ靴を脱いだのかすら記憶にないです」
「まあたしかに、けっこう酔っ払ってたもんね、ヒナくん。靴だけじゃなくて、全裸になった時は、ほんとどうしようかと思ったけど、あれも覚えてないのかぁ」
「えぇっ!? ぼ、僕、一度全裸になってるんですか!?」
「えへへ。全裸のくだりは冗談だよ」
なんて慈悲のない。畜生とはまさにこのこと。
いとも簡単に動揺する僕を見て、レモンさんはこれまた愉快そうにケタケタと笑っていた。
余談になるけれど、なぜか僕の靴が片方消えていた。
レモンさん曰く、理由はまだ教えてくれないが、彼女の前で僕は靴を両方脱いで、片方だけ履き直して帰路についたらしい。
もちろん、その一部始終を僕はまるで覚えていない。
「ていうかじゃあさ、ヒナくんは私の名前も覚えてないってこと?」
「ほんとにすいません」
「うわ! 最低! この妖怪へべれけ男!」
可愛らしく口を尖らせたと思えば、急に暴言だ。
さっきまで一見親し気な呼び名だったのに、突如妖怪扱い。
しかし、僕は何も言い返すことはできない。
非が全て自分にあると、悲しいかな理解しているからだ。
「ごめんなさい。どうか許してください」
「いやですぅ」
「そこをなんとか」
「どうしても?」
「どうしても」
「どうしても許して欲しい?」
「どうしても許して欲しいです」
「えへへ。それなら、当ててみて」
「え?」
「私の名前、当ててみてよ」
「さすがにそれはちょっと、難しすぎませんか?」
レモンさんは不満そうな顔をしているけれど、さすがにそれは難問がすぎる。
顔すら覚えていないのに、名前を当てるなんてできるわけがない。
まだハンドスプリングをする方が簡単だ。
「えー、じゃあ、私の名前の文字数を当ててみて。それくらいなら、できるでしょ?」
「名前の文字数? これまた、なんでそんな」
「いいじゃん。そうだな。ヒントゼロは可哀想だから、イエスかノーで答えられる質問を一度だけ許してあげよう」
「ちょっと待ってください、たった一度だけですか?」
「そうだよ、ヒナくん。でも君ならきっと当てられるよ。解けない謎なんて、ないんだよ」
「……わかりました」
「さっすがヒナくん、それでこそ私の見込んだ男だよ。あとちなみに、フルネームね」
いつどこで僕が見込まれたのかわからないけれど、とにかく一つの質問でレモンさんの本名の文字数を当てなければいけなくなった。
だけどこれはチャンスでもある。
名前の文字数を当てるだけで、僕の記憶の外にある不祥事を見逃して貰えるのだから。
「制限時間はね、私がこのあさり汁を飲み終わるまで。えへへ、これ、美味しいね」
ずずずと、あさり汁に口をつけるレモンさん。
すでに中身は半分しかない。嘘だろ。畜生どころじゃない。鬼畜だ。
考えるんだ雛太郎。どうすれば絞り込める。
しかも困るのは、イエスかノーでしか答えて貰えないということだ。
二倍したらどんな数字になりますか、とか、僕が今から何個か数字を言うので、自分の文字数が何番目にあったかを教えてください、とか、ぱっと思いつく卑怯というか搦め手のようなものは一切使えない。
「“からりと言えば、あさり汁”、っていう
またずずずと、レモンさんはあさり汁を飲む。
あともう一口で飲み干してしまいそうだ。飲むペースが早すぎる。もっと熱々にしておけばよかった。
「大丈夫、ヒナくんなら解けるよ。ヒナくんだから、解けるんだよ」
ふと僕は、レモンさんの目を見てみる。
真っ直ぐと見つめ返される瞳に宿るのは、嘲りではなく、期待の光。
彼女は言った。僕なら当てられると。解けない謎なんて、ないんだと。
それはつまり、この問題にはきちんと答えが用意されているということだ。
たった一度の質問で、彼女の名前の文字数を当てられるようになっている。
しかも僕だから、当てられるのだと。
「……質問します」
「うん、いいよ」
きちんと、丁寧に、こつこつと考えるだけ。
そうすれば、小さな謎は解きほぐれる。
レモンさんは言った、イエスかノーで答えられる質問を一度だけ許すと。
彼女は言っていない、僕の質問にはイエスかノーでだけ答えるとは。
鍵は僕だ。
僕がこの質問をすることに、きっと意味がある。
「僕の名前の文字数より、数は大きいですか?」
ソエギヒナタロウ。僕の名前なら文字数は八。
それより大きければイエス。小さければノー。
普通に考えれば、この問いだけでは特定できない。
でも、目の前の彼女は、嬉しそうに笑うだけで、何も答えない。
ただ彼女は満面の笑みで、手を叩くのみ。
それはイエスやノーより、よっぽど雄弁に答えを語っていた。
「イエスでも、ノーでもない。なら答えは一つです。あなたの名前の文字数は、僕と同じ“八文字”だ」
「ピンポンパンポーン! さっすがヒナくん! 大正解だよ!」
深い溜め息。僕はほっと胸を撫で下ろす。
これで実家の両親へ、謝罪の言葉を一筆したためる必要がなくなった。
「じゃあじゃあ、改めて、私の名前を教えてあげよう!」
「えと、はい、ありがとうございます」
残ったあさり汁を一気に飲み込むと、レモンさんはドンとちゃぶ台に両手を置いて、身を乗り出してくる。
「私の名前は、ウノスマイカザネ。鳥の鵜が住まう居どころに、風の音って書いて、
「も、もちろんです。二度と忘れません!」
「ううん! 信じない!」
「えぇっ!? 信じてくださいよ!?」
「忘れないように、連絡先を交換してあげよう!」
レモンさん改め、鵜住居さんは、僕の言葉を秒で切り捨て、勝手に僕の携帯電話を手に取ると、当たり前のようにロックを解除して、なにやら操作する。
どうやら妖怪へべれけ男は、初対面の相手に暗証番号を教えたらしい。
「これでオッケー! いつでも私に、うぇん寂しいよ鵜住居さぁん撫で撫でしてくだしゃぁい、って電話できるよ!」
「し、しませんよ、そんな恥ずかしい電話」
確認してみると、僕の携帯の連絡先欄に、鵜住居風音なる人が追加されていた。
「それじゃあ私、お風呂入りたいから、もう帰るね! また明日! あさり汁ありがとう!」
「え? あ、はい。お疲れ様です」
そして鵜住居さんは、僕の手をおもむろに握り、ぶんぶんと振り回すと、そのまま風のように去って行った。
残されたのは、身まで食べられたあさりが入った空の茶碗と、右足しかない靴だけ。
「……結局僕は、昨日の夜、いったい何をしたんだ」
小さな謎は解けたけれど、やはり大きな謎は解けないまま。
まあ、でも、なんか、色々大丈夫そうだ。
僕は携帯電話の暗証番号を再設定しなおした後、もうひと眠りしてしまうことにした。
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