落とし物は、見つからなくていい②



 目覚めると僕の目と鼻の先には、大きな謎が寝転がっていた。

 はてはて、これはいったいどうしたことだろう。

 昨晩のレモンサワーが大分まだ、頭の中に残っているらしい。

 神奈川の付け根辺りにある湘南の町で生まれ育ち、大学進学と共に独り立ちを決意し、今は東北にある地方大に通う学生となった僕の隣りで、見知らぬ女性が一人すやすやと寝息を立てているように見える。


 はたまたこれは夢かうつつか幻か。僕はまどろみの中で寝返りをうっただけか。レモンサワーの妖精にしては、いかほどか可憐すぎやしないか。

 ただ半開きになった窓から、涼しいと形容するには少しばかり冷たすぎる風が頬を撫で、そこで僕は自分が現実側の認知にいることを知る。

 夢の中では、無意識のうちに寒さや暑さを感じることはないのだ。


 しかし、となると謎は深まるばかり。

 ここが夢ではなく現実だと仮定すると、おかしなことになる。

 この僕のベッドの上で、掛け布団を占領している彼女はいったい何者で、どうしてここにいるのかということだ。

 まず一つ目の可能性を考えてみる。

 それは実はここが、僕の家ではないという推理だ。


 前提条件として、寝る前の昨晩における僕の行動をおさらいしておこう。

 実家から離れ、季節を幾数か過ぎた辺りで、わかりやすくホームシックを発症させた僕は、寂しさを埋めるようにアルバイトに励み、実家に住む弟へ嫌がらせのように電話を繰り返していた。

 だが二十歳を超えた今、アルコール飲料という寂寥感を嘘のように消してしまう魔法を使うことが許され、昨晩もバイト先の先輩をむりやり捕まえ、浴びるように焼酎の水割りレモン多めを飲んでいたはずだ。


 今隣りで長い睫毛を自慢げに下に向けている女性は、僕の知り合いではないけれど、もしかしたら昨晩一緒に酒の場にいた先輩の知人かもしれない。

 焼酎の海に溺れ、意識を柑橘系の水泡に消した僕を見かねた先輩が、自身の家に運んでくれたという可能性だ。


 先輩だってれっきとした男だ。

 女の一人や二人、家に住まわせていても不思議ではない。

 はなはだ遺憾というか、これから付き合いを僅かに考え直すかもしれないほどに、羨ましいというか妬ましいことではあるが、心の広い僕は、僕というものがありながらどこの馬の骨とも知らない女を飼っている先輩を、まあ許してやることにする。


 それにしても、いったいどんな風に人生を送ると、女性を自分の部屋に連れ込むことができるのだろう。

 生まれてこの方、ろくに恋人の一人もできたことのない僕には、どうにもそれこそ夢の中の話にしか思えない。

 たしかにこれまで両手では数え切れないほどの女性と、一応の知人関係を築いたことはある。

 だけれど、それで終わりだ。

 この娘はなんて、可愛らしい容姿をしているのだろう。指の腹で曲線をくまなくなぞってやりたい。

 この娘はなんと美しい性格をしているのだろう。その思考、発想、気品の素晴らしさを箇条書きにして、壁一面に貼っておきたい。

 などと思うことはあっても、それを実際に行動に起こすことはなく、結局僕は指を腹まで咥えて眺めているだけで、当然向こうの方から箇条書きされたポスターを渡してくることもない。


 そんな感慨にふけながら、僕はやっとこさ上体を起こし、辺りを改めて見渡してみる。

 確認するのだ。ここが僕の部屋でないということを。

 窓をみれば、年季が入った灰埃のカーテン。

 手を伸ばせば届く距離にあるのは、チューハイ缶が頭悪そうに三つ縦に重ねられているちゃぶ台。

 そしてベッドの上から玄関の扉が見えてしまう、狭隘という言葉にぴったりな人間二人は暮らせない部屋。

 

 うむ。これはダメだ。

 僕の一つ目の推理は外れた。間違いなくここは僕の部屋じゃないか。

 二日酔いとはべつの痛みで、僕は頭を抱える。

 いったいどうなっている。

 当然の如く、ここは僕の部屋なので、昨日一緒に飲んでいた先輩の姿はどこにもない。

 自室にいるのは、僕と、この謎の女性だけ。


 仕方がないので、二つ目の推理に移ることにする。その前に大切なことを確かめていおく。

 ……よし、大丈夫だ。僕は服を着ている。ちゃんとパンツも履いている。

 少なくとも、その、色々あれなことはしていないようだ。


 女性の方は全身を毛布でくるんでいるので確認できないけれど、たぶん、問題ないはずだ。

 え、どうしよう、これ。一応確認した方がいいかな。だってこれ僕の毛布だし、べつにめくるくらいいいよね。

 というか待てよ。しかし、それは果たして僕がその、あれを、色々してないことの証明になるのだろうか。

 だって考えてみなよ、それを色々どうのこうのした後に、なんやかんやで服を着直したパターンもあるじゃないか。

 これは困った。

 二つ目の推理を進めるには、情報が足りない。


 先輩と狂ったように酒を飲んでいたことは覚えているけれど、記憶はそこで途絶え、目覚めれば知らない女性と僕は同衾していた。

 まさか、本当にそうなのか? 

 僕は気づかない間に、酔った勢いで初対面の女性をお持ち帰りしてしまったというのか。

 これはまずい。まずいというか、恐怖だ。


 彼女が目を覚ます前に、一旦家から逃げ出して、一度対策を練り直した方がいいかもしれない。

 もしかしたらあれやこれやと、色々なしでかしをダシに金銭宝石類その他諸々を巻き上げられるかもしれない。

 最悪の場合を想定して、僕は慌てて財布を探す。

 幸運なことに、財布はすぐに見つかった。

 だけど不運なことに、財布の中には百円玉が三つと十円玉が一つに、一円玉が四つしかなかった。

 これじゃ知らない間にプレミアムになってしまった牛丼を、一杯分すら食べることができない。


 これはいよいよ、本格的に逃走するべきに思えてきた。

 彼女が起きた時に、僕の顔を見て言うことは、間違いなく聞くに堪えない罵詈雑言の嵐だろう。

 僕は決意する。逃げよう。

 だいたいここは僕の家なんだ。いつ外に出たっていいじゃないか。家主の自由だ。

 

 そっと音を立てないように、僕はベッドから這い降りると、改めていまだに気持ちよさそうに眠る女性の顔を眺めてみる。

 油断をすると手を伸ばしてしまいそうになる、梅の花のように白い肌。

 意志の強さを感じさせるつり眉に、バンビを思わせる鼻梁。

 肩に毛先が触れる程度の長さの髪は、昨日僕が散々飲んだサワーに入っていたレモンみたいな色合い。

 完全に美人だ。

 どう考えても僕が正攻法で、ここまで連れ込んだとは思えない。

 一刻も早くずらかろう。


「……んぅ」

「あ」


 と、思ったがその時、残念ながら僕の人生が終了した。

 つまりは、なんとそのレモン髪の女性が目を覚ましてしまったのだ。

 ゆっくりと見開くぱっちり二重が、僕の動揺で高速瞬きを繰り返す一重瞼を見つめている。


 僕は迷う。土下座するべきか、逃げるべきか。


 顔と住所は割れているが、名前さえバレていなければ、きっとまだ生き延びる手段はある。とりあえず不動産屋に駆け込むか。



「……添木雛太郎くん? だよね?」

「あ、はい」



 添木雛太郎そえぎひなたろう。それは一文字一句僕の本名と一致している。

 駄目だ。名前もバレてる。僕はすでに死んでいた。




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