不審者には、怯えなくていい③
鵜住居さんの友人の下と、僕の友人である梟崎先輩の下に現れた謎の不審者。
他に頭を悩ませるべきことは幾らでもあるのに、最近そのことばかり考えている。
もっとも、本当に悪質な不法侵入者だった場合、僕が推理を働かせる必要は全くなく、警備会社の人や、或いは警察関係者その他諸々の皆さんに全て任せるべきなのだろう。
だけれども、僕はどこか妙に引っかかる感覚を覚えていた。
何か腑に落ちないというか、見落としているというべきか、根本的な勘違いをしている気がしていたのだ。
「うむ。
ぺらり、ぺらり、とゆっくりと紙を捲りながら、そんな物思いにふける僕を、感情なく罵倒する声。
声の主である深緑のセーター姿の女性は、爬虫類を思わせる一重瞼から真っ黒な瞳を覗かせ、心底退屈そうに僕を見やる。
「ん? なんだ? 聞き逃したのか? ならば寛大な私はもう一度言ってやろう。添木、お前は端的に言って、ゴミだ」
「いや、ちゃんと聞こえてますよ、鴨沢先生。二回も言わないでください。泣きますよ。ただあまりにも教員とは思えない発言に、脳がフリーズしただけです」
「お前の脳がフリーズしてるのはいつものことだろ。むしろ解凍されたことあるのか? 解凍されたらされたで、周囲の知性を著しく下げるウイルスをばら撒きそうで不安だな」
ボブの黒髪を軽く揺らすこの悪鬼の名は、
僕の対応次第では、炎上間違いなしの発言を連発しているけれど、こう見えて三十代半ばでうちの大学の准教授にまで辿り着いた才媛だった。
「ペーパーテストの結果は平均点の半分未満ばかり、提出物はお前にとってほとんど未提出物。当然単位はボロボロのゴミカス。唯一褒められる点は、講義の出席率がやたらといいことくらいか。添木、これは純粋に疑問なんだが、お前はいったい何がしたいんだ? 名前と見た目から勝手に思い込んでいたが、実は国外出身者か? 日本語が読めないならそう言え」
「いえ、僕は生まれも育ちも日本です。日本語しか読めません」
「ならどうしてここまで酷い成績になる? こんなゴミみたいな成績を私に見せて、いったいお前はどんな得をするっていうんだ?」
悪意のまったくない綺麗な真顔で、鴨沢女史は首を傾げている。
僕の大学では、学生にはそれぞれ指導教官と呼ばれる教員が割り当てられ、半年ごとに成績の確認や面談を行うという習わしがあった。
つまりは僕の指導教官が、この毒舌というには生易しい痩身の准教授であり、今まさに僕が鴨沢研究室に来ていることの理由だった。
「この大学は真面目な学生が多くてな、大抵の場合はこういった面談でほとんど話すことはないんだ。もっとも、不真面目な学生もたまには現れるが、そういった輩はそもそも生活態度から悪いからな。それを治せといったら終わりだ。しかし添木、お前はどうだ? こんな粗大ゴミみたことがない。どうすればお前の成績を改善させることができるのかさっぱりわからない。お前という謎について考えるより、古典ラテン語の文章を読む方が遥かに楽だよ」
「僕も古典ラテン語を読むのは苦手です。同じですね」
「なにがだ?」
「え、あ、はい。すいません。なんでもないです」
「二度とわけのわからないことを言うなよ。たでさえお前は不可解な存在なんだ。これ以上私の脳細胞を無意味に壊すな」
机の上に僕の大学二年前期の成績表を置くと、鴨沢女史は疲労のためか眉間を指で押しほぐす。
こうやって鴨沢女史に、教員と学生の関係とは思えないほど、コテンパンに成績を貶されるのは初めてではない。
だから僕もわりと慣れているので、もう今更なにか深く思うことはなかった。
いやまあ、本当は何か深く思うべきなのだろうけれど、こればっかりは仕方がない。
試験は勉強してもまるで点が取れないし、提出物関連もまともにレポートを作り上げることができないのだから。
どうやって僕がこの大学の入試を突破したのか、それは大きな謎だった。
「添木、どうして私がこんなにお前に苛立っているのかわかるか?」
「それは、あれですよね。俗に言うお馬鹿というか、手のかかる学生だからでは?」
「お前が馬鹿なのは当然のことだが、それだけで私は腹を立てたりしない。犬に買い物を頼んで、満足に頼んだ代物が届けられなかったらお前は怒るか? 無理なものは無理だ。私は期待できるものにしか期待しない」
「つまり、僕は犬ではないと?」
「その通りだ。お前は犬じゃない、ゴミだ。去年の時もそうだったが、お前は幾つか単位は落としているが、進級に必要な必修単位だけはきちんと全部取って、自由単位だけ落としてるんだ。これがどういうことか説明できるか?」
「たまたま、ですかね」
「違う。ゴミのお前の代わりに私が説明してやる。お前は計算してやってるんだよ。集中力の差だ。落としてもいい講義は中途半端に受け、絶対落としてはいけない講義だけ集中して受けている」
なんてこった。それはまさに青天の霹靂。
僕は知らず知らずのうちに、受ける講義によって態度を変えてしまっていたのか。
それは確かに失礼というべきか、講義をしてくださっている教員に対して不誠実な気がする。
これは酷い。僕はたしかにゴミ呼ばわりされても仕方がない姑息な人間だ。
「先生、その言葉で僕は目が覚めました。僕はずっとどの講義にも真面目に取り組んできていたつもりでしたが、それは大きな勘違いでした」
「自覚がなかったとでも言うつもりか? お前は……はあ、まあもういい。とにかく私が言いたいのは、いい加減本気で講義を受けろということだ。自由単位は落としても進級には影響ないが、卒業には関係する。一留でもしてみろ。私が教員生命をかけてお前を除籍にしてやる」
「先生、僕のこと嫌い過ぎないですか?」
「まさか。愛ゆえの厳しささ」
ニコリともせずに、鴨沢女史はそう吐き捨てる。
成績優秀で品行方正な学生より、案外手のかかる成績不良の問題児の方が可愛がられるという定説を耳にしたことがあるけれど、この独身アラフォーの准教授に関していえばそれは当てはまらないみたいだ。
「それに聞いたぞ、添木。この夏休みはずいぶんとお楽しみだったらしいじゃないか。ろくに課題も提出せず、羨ましい限りだな」
「夏休みですか? いや、べつにとくに心躍る出来事はなかったですけど」
「へえ? 例年通りの日常だったと? もしその言葉が本当なら、見かけと頭によらずプレイボーイなんだな」
「プレイボーイ? これまた急に古風な言い回しをしますね」
「誰が年増だ。全身に蜂蜜を塗りたくって、森奥の木に縛り付けてやろうか?」
「それ極道のやり方じゃないですか!? それに年増だなんて言ってないし!」
ただの曲解なのに、ずいぶんと酷い言いようだ。
まさに畜生。この僕に対して言葉の棘が異常に鋭いところは、どこか鵜住居さんに似ている。
「あの程度のことは、お前にとっては話題に値しない平凡なそよ風か。わかったよ。
「カザネ? ……ってちょっと待ってください! 風音って鵜住居さんのことですか!?」
「そうだが?」
そうだが、じゃないんだが。
僕の心でも読み通したのか、唐突に鵜住居さんの名前が出てきて、僕はいとも簡単に動揺してしまう。
「鴨沢先生は、鵜住居さんとお知り合いってことですか?」
「そうだが?」
いやだから、そうだがじゃないんだよ。
分かりやすく狼狽する僕の反応を見て楽しんでいるのか、この日初めて鴨沢女史は笑う。
それは困惑する若者を玩具にして唇を曲げる、意地の悪い魔女の微笑だった。
「そ、その、先生と鵜住居さんはどういった関係で?」
「すまんな。学生のプライベートな情報は教えるわけにはいかないんだ」
「そこをなんとか、なりませんか?」
「ならんな」
なんて邪悪なんだ。
自分から関係を匂わせておいて、詳細は全く話すつもりはないらしい。
「あ、そうだ。これ面白いから送っておこう」
「え? ってちょっとなにしてるんですか!?」
「なにって、ネタ提供だよ」
パシャ、と何を考えているのか、鴨沢女史はいきなり僕の成績表を手元のスマートフォンで撮影すると、何やらペタペタと画面をタップする。
「おー、さすが風音だな。既読が早い」
「は!? もしかして僕の成績表勝手に鵜住居さんに見せたんですか!?」
「そうだが?」
わざとだ。絶対わざとだ。
こんなに、そうだが?、を他人の気を逆なでするように言える人は、少なくとも日本にはこの人以外にいないに違いない。
というか学生のプライベートな情報は他人に教えないんじゃなかったのか。
むしろ拡散されているんですけれどもこれいかに。
「ほら。返信が来たぞ」
嬉しそうに鴨沢女史は自らのスマホの画面を僕に見せてくる。
そこには元気よく、『カスだね!』、と表示されていた。
僕の人権はどこにもなかった。
「こんなことが許されるんですか? いくら僕が成績面で、先生に迷惑をかけているとはいえ、あんまりですよ。というか本当に、鵜住居さんとどういう関係なのかくらい、教えてくれたっていいじゃないですか」
「……ん? そういえば添木、ふと今気づいたんだが。なんでお前まだここにいるんだ?」
「え?」
「もう面談の時間は終わったぞ。早く帰れ。邪魔だから」
嘘、だろ。
この人、本気か。
それとも人の皮を被った、心のない悪魔か何かなのだろうか。
僕は戦慄する。
その鴨沢女史の、どこまでも透き通った、真っ直ぐな眼差しに冗談の色がまったく見えないことに、僕はまるで自分の方がおかしいのかと錯覚してしまう。
仕方がない。一時退却だ。
この指導教官には何を言っても無駄なのだ。
僕の反論、意見が通ったことはおろか、まともに議論されたことすらない。
スマホに目を落とすと、シッシッと、羽虫を払うかのように僕へ手を仰ぐ。
とうとうゴミではなく、目障りなムシ扱いだ。
僕は全てを諦めて、鴨沢研究室を出ていく。
最後に失礼しました、と一応鴨沢女史に声をかけたが、当然のように無視された。ムシだけにね。
……自分で言っておいてあれだけど、虚しいし、全然面白くないねこれ。
部屋から出て、なんとなく癖でスマホを取り出してみると、メッセージが一つ届いてることに気づく。
ロック画面に表示された短いメッセージを、僕は真顔で見つめる。
『カスだね!』
救いはどこにもなく、僕は既読をつけることなくスマホをしまって、逃げるようにその場を後にするのだった。
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