落とし物は、見つからなくていい⑥


 ショーヤくんとアユちゃんの兄妹と別れてから、二十分ほど歩いたところで、鵜住居うのすまいさんが大きなマンションのエントランス内に入っていった。

 わざわざ本人に確認するまでもない。

 どうやら、この階の数が二桁はありそうな建物に、彼女は住んでいるらしい。

 僕のオンボロアパートの家賃の、最低でも二倍、下手したら三倍くらいありそうだ。


「いやあ、でも助かったよ。ヒナくんが暇で。まだ他に頼る人がいなくてさー」

「あの、僕まだ、今日なんで鵜住居さんの家に呼ばれたのか知らないんだけど」

「え? あ、そういえば言ってなかったんだっけ。うーん、まあ、部屋に入ればわかるよ」

「なぜにもったいぶる」

「えへへ。なんとなく、だよ」


 なんとなく、でお家に招かれた理由をもったいぶらせられながら、僕と鵜住居さんはエレベーターに乗り込む。

 特に会話をするまでもなく、すぐに彼女が押した七階に辿り着く。

 普段自分の部屋のベランダから見えるものよりはだいぶいい景色を眺めながら、カルガモの親子さながらに僕は鵜住居さんの背中を追っていく。


「ついたついた。ここだよー。ここが私の部屋。ちゃんと覚えておいてよ。これからまた呼ぶとき、いちいち迎えにいくの面倒だもん」


 ごくり、と大粒の生唾を飲み込む。

 わざわざ二十一年間の記憶を漁り直さなくてもわかる。間違いなく女子の部屋に入るのは、これが初めてだ。

 というかまた呼ぶときってなんだろ。

 僕は定期的にお呼ばれすることが、知らない間に確定しているのか。

 これはまずいな。相当集中して警戒しないと、ころっと僕は鵜住居さんに惚れてしまいそうだ。気をつけないと。


「お邪魔します……」

「お邪魔されまーす」


 玄関に入ると、まず目に入ったのは、縦積みになった段ボール箱だった。

 それに目もくれずに、鵜住居さんはずいずいと廊下の奥に進んでいく。

 せっかくだからと、僕は目いっぱい深呼吸しておく。

 同年代の女子の部屋の空気は、富士山山頂より澄んでいる気がした。

 もっとも、僕は富士山はおろか、高尾山すら登ったことがなかったけれど。


「これこれ。これを上に運ぶのを手伝って欲しかったんだ。ベッドメイキングは死活問題だからね。良眠りょうみん足りずんば、視野狭窄しやきょうさく陥りたる。これ、私の言葉ね」

「ふあー、広い部屋だねぇ。しかもロフトまである。僕、ロフトに憧れあるんだよね」

「おいこらヒナくん。私のボケをスルーするなよ。恥ずかしいじゃん」

「え? 鵜住居さんに恥ずかしいって感情あったの?」

「今から、大家さんに知らない男の人が部屋に入ってきましたって、電話していい?」

「ごめんなさいそれだけはやめくてくださいおねがいします」

「以後、私の乙女心を愚弄するような真似は慎むように」


 横暴だ。なんて横暴なんだ。

 自分から誘ってきておいて、ちょっと僕が乗ったらこれだ。僕がメロスだったら激怒しているところだ。


「……だけど、なんでこんなに段ボール箱いっぱいあるの? というかもの、少ないね」

「そりゃそうでしょ。だって私、一昨日おととい引っ越してきたばっかりだし」

「へ? そうだったの? なるほど、部屋に入ればかわかるってそういう意味か」

「そうだよヒナくん。そのヒナくんのホルマリン漬けの脳味噌に訊いてみるといいよ」

「僕の頭を勝手にホルマリン漬けにしないでくれ。どっちかっていうとアルコール漬けだ。メタナールじゃなくてエタノールだよ」


 家具が少なく段ボール箱だらけで、マットレスと薄い毛布がぶしつけに床に直置きされているだけ。

 女子の部屋にしてはやたら茶色な部屋だと思っていたら、どうやら新居に移りたてほやほやだったらしい。

 そういえばショーヤくんが引っ越してきたばかりという話をしていた時、鵜住居さんは私もだよと言っていたけれど、あれは地元がこの街ではないという意味ではなく、実際に彼女も引っ越したばかりという意味だったようだ。


「とりあえずはそうだなー、このマットレスをロフトまで持ちあげよう!」

「……今更になるけれど、僕、力仕事は苦手なんだよね」

「うるさい! なにしにきたんだ! ほら! さっさと動く! このでくの坊!」


 またいきなり暴言だ。酷い言いようだ。

 とても引っ越し作業を手伝って貰おうとする人間の態度とは思えない。

 しかしこれまでもずっとそうだったように、僕はやはり鵜住居さんに言い返すことはできず、大人しくひいひい言いながらマットレスをロフトに運ぶ。

 僕は憧れを捨て、静かに決意する。ロフトのある家には絶対に住まないと。







 いくらかの悪戦苦闘を経て、無事マットレスをロフトの上にセットして、それ以外にも幾つかの小棚など運び上げた後、僕は乱れた呼吸を整えるためにフローリングの上で胡坐をかいていた。

 鵜住居さんは段ボール箱の開封作業に勤しんでいて、文庫や大判の書物を並べながら、思案げな表情をしていた。

 今更ながらに思うが、最近引っ越してきたというのは、いったいどういうことなのだろう。

 九月末に引っ越しといわれると、ごく一般的な日本の大学生である僕からすると、ちょっと不思議に感じる。

 元々はべつの場所にアパートか何かを借りていたのか、それとも海外に短期留学でもしていたのか。

 折をみて、訊いてみたいところだ。相も変わらず、鵜住居さんは謎が多い。


「はい、これヒナくん。お疲れ様」

「あ、ありがとう」


 すると、いつの間にか作業を中断させていた鵜住居さんが、ペットボトルの緑茶を手渡してくれる。

 僕はそれを素直に受け取り、目の前に女子座りする鵜住居さんと同じ様に、キャップをあけて早速飲む。


「それで、ヒナくんは、どう思ってるの?」

「ぶはぁっ!? な、なにが?」


 原価百円未満間違いなしの茶葉の味を楽しんでいた僕に、唐突に鵜住居さんが話しかけてくる。

 少し身を乗り出すような体勢で、赤みがかった瞳が僕を正面から覗き込んでいる。

 鵜住居さんの表情はこれまで見たことのないような真面目なもので、いつもの頬の緩みは一切みられない。


「ど、どう思ってるって言われても……」


 初心な僕は言い淀む。

 たしかに、悪い人じゃないというのは分かる。

 というよりは、むしろ善人に部類される性格だということは理解しているつもりだ。

 容姿に関して言っても、僕が評価することがおこがましいほどには、均整がとれている。

 はっきり言ってしまえば、相当な美人だろう。

 一緒にいて楽しいかといえば、正直に申し上げればとても楽しい。

 僕は内気な性質に反して、案外好奇心旺盛な方だ。

 彼女のような、突拍子もない言動をする友人に対しては、わりと好意的な印象しか持っていない。

 だからどう思っているかと聞かれれば、それは、実際に口にするのは非常に羞恥心が刺激されるけれど、その、あの、なんというか、まだ会って数日くらいなので、そういう意味ではないけれど、まあ、あれだよ、ライク的な意味での、例のそういう感情がないことも、ないような、気がしないでもないような気がするかなって、思ったり思わなかったり、するんでしょうか?


「ヒナくんは変に思わなかった? アユちゃんの落とし物の話」

「え? 落とし物?」

「そうだよ。もしかしてまた記憶喪失? お酒じゃなくて緑茶飲んだだけで、全部忘れちゃったの?」

「……あ、ああ! なるほどね! どう思うかって、あのショーヤくんとアユちゃんのことか!」

「うわ。なに? 急に声がおっきいよ。近所迷惑だからやめて」

「はい。ごめんなさい。色んな意味でごめんなさい」


 完全に早とちりだったようだ。恥ずかしい。土に埋まりたい。

 これだから女っ気のない男子大学生はだめなんだ。指定有害動物に僕らが認定されても文句はいえまい。

 僕は数秒前に脳内で高速で展開された、まったくもって無意味な思考の履歴を、すぐに削除する。


「ずっと考えてたんだけどさ、私、アユちゃんは落とし物なんて、してないんだと思う」

「落とし物なんて、してない?」


 僕の間抜けなオウム返しに、鵜住居さんは静かに頷く。

 たしかに、あの兄妹の落とし物に関しては、幾つか納得のいかない点もあった。

 しかし驚くべきは、その事について今の今まで、ずっと鵜住居さんが考え続けていたということだ。

 意外にも彼女は、自らが疑問に思ったことに対して、執着をもって頭を働かせ続けるタイプみたいだ。

 少しだけ、昔の僕に似ている。

 今の僕はわりと寛容的というか、解かなくてもいい謎もある、というスタンスだけれど、彼女はどんな謎も追及する姿勢をみせている。


「アユちゃんとはほとんど喋ってないけど、私が思うに、あの子はけっこう頭が良くて、そんな頻繁に落とし物なんてするような子じゃないと思う」

「うーん、まあ、それは僕も同感だね」

「それに、ショーヤくんが言ってた、アユちゃんが最近落とした物、覚えてる?」

「たしか、帽子にヘアゴム、で今回はお守り、だよね?」

「そそ。ヘアゴムくらいならまあ、あり得るかなって感じもするけどさ、帽子とお守りなんてさ、そうそう落とさないでしょ」

「言われてみれば、落とし物にしては派手なものも混ざってるね」


 特にお守りなどは、おそらくランドセルに結んでつけてあるものだろう。

 しかも兄からの贈り物だ。大事にしていたはずだし、気づいたら落としていたというには、不自然だ。

 ここで僕は、ふと思い返す。

 それはアユちゃんの表情だ。

 あの子はずっと、無愛想か不機嫌そうか、あるいは気まずそうな顔をしていた。

 そこに僕はなにか、引っ掛かりを覚える。

 でもその引っ掛かりが何なのか、まだわからない。


「だから私、思うんだ。アユちゃんは落としたんじゃなくて、盗まれたんじゃないかって」

「それは、つまり……」

「うん。俗にいう、イジメってやつ。アユちゃん、学校でいじめられてるんじゃないかな」


 決意のある眼差しで、鵜住居さんは自らの推理を僕に知らせる。

 落としたのではなく、盗まれた。

 たしかにその考えは一理あるものだ。

 アユちゃんのような賢い子が、何度も落とし物をするという謎も、同級生、または高学年の子供たちによる嫌がらせを受けていると仮定すれば、その小さな謎は解ける。


「うーん、でもいじめかぁ。ほんとにあのアユちゃんがいじめられてるのかな」

「アユちゃんみたいに可愛いくて、ちょっと内気なところがあって、頭の良い大人びた女の子はさ、けっこうイジメられやすいんだよ。本人にその気がなくても、同級生の子たちは、なんとなく見下されているように受け取っちゃったりしてね」


 やけに実感のこもった声で、鵜住居さんは自論を語る。

 一見彼女の推察は、核心をついているように思えた。

 しかし、どうしてか僕はまだ、完全に納得できないでいる。


「なにヒナくん、私の推理、どこか間違ってる?」

「え? いや、そういうわけじゃないけど」

「嘘つき。僕は違うと思いまぁす、鵜住居さんはばかですねえ、の顔してるじゃん」

「そ、そんな失礼な顔してないよ」


 僕が引っ掛かりを覚えていることを、鋭く見抜いたのか、鵜住居さんは不満そうに唇を尖らせている。


「だって毎回、落とし物が都合良く見つかるのも変じゃん。絶対いじわるな子供たちが、散々嫌がらせをして、飽きたらアユちゃんに返してるだけなんだよ。転校したてで、ショーヤくんもアユちゃんがそんなことになってることに気づく余裕がないんだと思うけどなー」


 転校したて。ショーヤくん。

 再び、僕の頭に摩擦が生じる。

 やっぱり僕は、なにか根本的な勘違いをしている気がしてならない。


「……もし仮に、アユちゃんがいじめられてるとして、鵜住居さんはどうするつもりなの?」

「うーん、そうだなぁ。難しいところだけど、とりあえずショーヤくんに伝えておこうかな。もしアユちゃんを守れるとしたら、ショーヤくんしかいないもん」


 本能的に、ずっと僕は予感していた。

 あの兄妹の落とし物に関する謎は、解かなくてもいい謎なんじゃないかと。

 いま僕に鵜住居さんが話して聞かせた推理は、知らなくてもいい推理だと僕は感じていた。


「とりあえずショーヤくんにもうちょっと、探りを入れたいなって私は思ってる。そのときはヒナくんも一緒に行こうね」

「う、うん。それはいいけどさ……」


 僕は悩む。

 鵜住居さんは真っ直ぐで、躊躇いのない人だ。

 自分の考えに信念を持って、行動している。

 彼女止めるためには、正当な理由がいる。

 その謎は、解かなくてもいい謎なんだと、きちんと言える根拠がいる。


「それでさ、話変わるけど、ヒナくんは今日うちに泊ってく? 布団とかないけど。それともロフトで一緒に寝る? なんちゃって」


 しかしその刹那、僕の頭に閃きが舞い降りた。

 鍵はロフトだ。

 ああ、そうか。そういうことだったのか。たぶん、そうだ。

 僕の家にはロフトがないように、きっと彼らの家にも“ソレ”はなかった。というより、新しくできたと言った方が正確か。


「鵜住居さん! 一緒に寝る! それだ!」

「わっ、わっ、な、なにヒナくん!? あ、あの、言っとくけど、この、一緒に寝るっていうのは、そ、そういう意味じゃないというか、さすがにまだ時期尚早というか……」

「僕、わかったよ。アユちゃんはきっと、いじめられてるわけじゃない」

「……へ?」


 僕はなぜか耳を赤くしている鵜住居さんの両肩をがっしりと掴んで、高らかに宣言する。

 やはりこれは解かなくてもいい謎で、僕や彼女の推理は、誰も知らなくてもいいものだったのだ。


「そもそもアユちゃんの落とし物は、見つからなくていいんだよ」





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