第2話
「ニコラス訓練兵を二等兵に昇格。配属先は南部方面軍」「オブリー訓練兵を二等兵に昇格。配属先は南部方面軍」
3か月の新兵訓練課程を終えた僕達は、二等兵への昇格任命書と配属先が記された命令書を担任の訓練教官から一人一人受け取っていた。
「ウィル訓練兵を二等兵に昇格——」
僕は皆と同じ南部方面軍に配属されると思っていた。僕達が新兵訓練を受けていたのは南部方面軍が管轄している訓練所だったから。だから僕は不思議でならなかった。何で僕の配属先が縁も所縁もない近衛隊なんだ、と。
僕の聞き間違いか?それとも訓練教官の言い間違いか?何をどう言い間違えてもそうはならないと思うけど。いや、もしかしたらこれは訓練教官のとっておきの
「俺の訓練をもう一度最初から受けたいのか、ウィル二等兵」
「っ?!いえ!」もう結構です!
「だったらさっさと受け取れ。いくら待ったところで俺がお前に熱いキスすることはない」
教官の言葉に、仲間達から”おお~う”とまるで僕が教官に振られたのを面白がるような声が上がった。くそったれ共め。
翌日。休む間もなく配属先の南部方面軍司令部へと行進していく仲間達を見送った僕は、その足で担任だった訓練教官カロン軍曹の居室を訪れた。
「ウィル二等兵は見送りを終えて戻って参りました!」
敬礼をする僕に、カロン軍曹は書類仕事の手を止めて立ち上がると、見本のような綺麗な敬礼を僕に返して「休め」と命じた。
「この後の予定はあるか、ウィル二等兵」
「ありません!」
少なくとも今は。
「馬の世話をした事は?」
「実家にいた時は毎日世話をしておりました」
爵位を持つ者は軍馬の保有が王国法で義務付けられていたから、実家には二頭の軍馬がいた。
「乗れるのか?」
「経験はあります。近くの村まで何度か軽く駆けた事がある程度ですけど」
「そいつは上等だ。新兵にしてはな」
カロン軍曹は机の上の書類の中から一枚の紙を手に取って僕に差し出した。
「全て読んで理解したら下の余白にサインをしろ。字は読めるか?」
「はい、読めます」
カロン軍曹から紙を受け取った僕は、そこに書かれている文章をじっくりと読み込んだ。
「理解したか?」
誓約書から視線を上げた僕に向かってカロン軍曹は言った。
「はい」
「質問はあるか?」
「はい。自身の不備による損失は自費による弁償を行うとこの誓約書にはありますが、私用で使った場合に弁償するというのは分かるんですけど、それ以外だと、どういったことがそれに当たるのでしょう?」
「俺が言葉一つで白を黒に変えられる弁護士に見えるか?」
「いいえ」
「だから俺が今からいう事が必ずしも正しい訳ではない、だが、俺は間違っているとは思わん。ウィル二等兵。もしお前の家族が故意ではないにしても、誰かの不手際で怪我を負ったとしたら、お前はその相手を無条件で許せるか?」
「いいえ、許せません」
「だったら敬意を払え。自分の家族に接するように。いいか、覚えておけ。俺はどんな理由があろうと、馬を粗末に扱う奴を許さん。お前がいくら謝罪しようが反省しようが知った事か。見つけ次第、二度と馬に乗れない体にしてやる。分かったか?分かったらそこにサインをして、厩舎で馬を受け取って来い。明日には出発するからな。それまでに、少しでもお馬様のご機嫌をとっておけ。いいな?」
「はい」
カロン軍曹のペンを借りて誓約書にサインをした僕は、カロン軍曹から渡された馬の受領証を持って訓練所にある大きな厩舎に向かった。
「フン、訓練を終えたばかりの
厩舎に入ってすぐの所にある、休憩所と思われる小さな部屋の中に居た兵士の一人、伍長に軍曹から貰った受領証を見せて悪態をつかれた僕は、怒りを示すべきなのか素知らぬ振りをするべきなのか迷った。
「ぷははは!冗談だよ、冗談。本気にするんじゃねえよ、新入り。まったく、何だよその困った顔は。ふふっ。いやほんと、悪かったな。今のは本当に冗談なんだ。うちの部隊の伝統というか、お決まりというか、うちに馬を受け取りに来た新兵には必ず言う事になってんだ」
そう言われても反応に困る。特に気を悪くしたわけではないけど、一応僕も貴族の一員だから、たとえ冗談でも平民に悪態をつかれて素知らぬ振りをするというのは、どうにも決まりが悪い。平民に虚仮にされた事を他の貴族に知られた所で、わざわざ片田舎の木っ端貴族出身の僕に文句を言う人はいないだろうけど。
「早く慣れるんだな。身分がものをいう世間と違って、軍でものを言うのは階級だからな」
ついて来い、と椅子から立ち上がった伍長の後を追って僕は馬房の並ぶ厩舎の奥へ向かって歩いて行く。
「馬の世話をした事はあるか、ウィル二等兵」
「実家では馬の世話をするのが僕の役目でした」
伍長の声に反応したのだろう。何頭かの馬が馬房から顔を出して構って欲しそうに伍長を見つめていた。
「じゃあ面倒な説明は抜きで忠告だけしておく。馬の世話に慣れた人間なら誰でも知っている事だし、分かっている事だとは思うが、それでも気を付けろ。分かっているつもりでいると蹴飛ばされるぞ」
「はい、忠告ありがとうございます」
前を歩いていた伍長が足を止めて僕へと振り返った。
「彼女がお前のお相手を務めて下さるご婦人だ」
馬房の中から大きな目が僕を見定めるようにじっと見つめていた。
「初めまして……」
「エルザ夫人だ」
「初めまして、エルザ夫人」
黒く艶やかな前髪が僅かに揺れた。
「僕はウィル。ウィル・カル・アガトです。お見知りおきを」
僕は彼女を見つめたまま胸に手を当てて小さく一礼した。
「何も無ければ彼女の最後の仕事はお前の相手をする事になるだろう。大事にしろよ。彼女は長い間この国のために尽くしてくれた功労者なんだからな」
「はい。大事にします」
「乗るか?」
「あー……いえ。その前に彼女と一緒に歩いてみたいです」
「なら手綱を持って来てやる」
「あ、すみません。ありがとうございます」
僕は伍長の背中に小さく一礼した。
横で彼女が動く気配がして顔を向けると、馬房から顔を出した彼女の顔が手が届く距離にあって、僕の手は自然と動いて彼女の頬を撫でた。
——私の新しい相手はあなたみたいね。
そう言っている気がして、僕は彼女によろしくお願いしますと返した。
——ふ~ん。まあいいわ、気に入らなきゃ蹴飛ばせばいいんだし。
僕への興味を失ったらしい彼女の冷めた眼に僕は苦笑した。
「お手柔らかにお願いしますね、エルザ夫人」
軍に入るのは軍人の家系を除けば、大抵は世間に居場所が無い者達だ。そこに貴賤の差はない。いや、むしろ貴族出身者の方が世間に居場所が無い者達は多いだろう。
なんせ彼ら彼女達は貴族出身者という立場がゆえに、平民の下で働くという、その出自の価値を
まぁ、家族仲が悪い人は実家の価値が落ちても気にしたりはしないだろうけど。
でも家族への愛情がある人はよほど生活が困窮しない限り、実家の評判を落とすような事をしたがらない。
だから僕のように軍に入る貴族出身者は、平民出身の入隊者よりも切羽詰まった理由で入隊しているものが多い。
中には憧れや出世欲から入る人もいるだろうけど。
「お前に国家への忠誠心が無いのは分かっている」
不幸な事に、僕が配属先に到着するまで僕の行動の全てを指図することが出来るカロン軍曹は、軍では珍しい生粋の愛国者のようだ。他の教官に比べて訓練生への当たりがきつかったから、もしかしたらとは思っていたけど。
「お前達は寄生虫だ。行く当ても帰る場所もない浮浪者だ」
僕はエルザさんの手綱を引きながら走る。
「そんな奴らが何の役に立つ?」
カロン軍曹は何の役に立つんですかね?新人に過度な訓練を施す以外に。
「命を懸けて戦えるのか?国家国民のためにその命を捧げられるのか?」
国家国民?王家や国王陛下の為ではなく?
「お前は何のために戦う?何のためにその命を危険に晒す?」
「生きる為です。何処の誰にも蔑まれない、後ろ指を指されない、誰が相手であろうと気後れする事なく胸を張れる人生を生きる為です!そのためなら僕はいくらだって命を懸けます!行く当ても帰る場所もない浮浪者になるより、戦って死ぬ方がよっぽどましですからね!国家国民の為?糞くらえ!誰がそんな訳の分からないものに命を懸けるか!おっと、カロン軍曹はお懸けになられるんでしたね!御立派な事で!」
朝からずっと走らされて腹が空いている所へ、下らない言いがかりをつけられて頭にきた僕は、隣を同じように馬の手綱を引きながら走っているカロン軍曹に向かって小馬鹿にするように大きくパチパチと拍手を送ってやった。
「クソガキが。誰に喧嘩を売っているのか分かって言っているんだろうな」
「カロン軍曹の他に誰かいるんですか?」
僕は目の上に手をかざして周囲を見渡した。
「このクソガキが舐めやがって。いいだろう。もう走るのは止めだ。馬をその辺の木につなげ」
足を止めた僕とカロン軍曹は道の左右に分かれると、近くに生えている木の枝に馬の手綱を巻き付け、背負っていたライフルをその木に立てかけてその下に腰から外した弾帯とサスペンダーを置いた。そして僕とカロン軍曹は、示し合わせた様に道の真ん中へと進み対峙した。
「顔と金的への攻撃はしないのが、第三近衛連隊の喧嘩のルールだ」
僕は落胆のため息を零した。
「残念です。ようやくカロン軍曹の顔を思いっきりぶん殴れると思ったのに」
僕はあえて落胆したように肩を竦めてカロン軍曹から視線を外した。すると僕の狙い通りに、カロン軍曹は僕がわざと見せたその一瞬の隙を突いて、僕の顔面に向かって拳を振るった。それを僕は腰を落として躱すと、体当たりをする勢いでカロン軍曹に肉薄し、その懐の下から顎に向かって真っ直ぐに拳を突き上げた。
「くっ。お前、手の中に何か入れてやがるな」
カロン軍曹の顎を殴ると同時に、僕はカロン軍曹の体当たりを受けて後ろへと転がされた。
「僕に負けた時のための言いがかりですか?」
転がった勢いを生かしてくるりと一回転して立ち上がった僕は、カロン軍曹に向かって手の平を開いて言った。
実を言うと、カロン軍曹に突き飛ばされて地面を転がるまでは、カロン軍曹が予想した通りに、僕の手の中には石が握られていた。弾帯とサスペンダーを木の下に置いた時に、僕の手の平に丁度良く収まる大きさの石を偶然見つけたので。
「僕はカロン軍曹と違って、騙し討ちで顔を殴るような卑怯な手は使いませんよ」
「俺の不意打ちを避けて反撃までした奴が何を言ってやがる。この性悪の猫被り野郎が」
「これでも領民からの評判は良いんですよ。ウィル様は、ほんとお優しい方だって」
「ホラ吹いてんじゃねえぞ、このペテン師野郎」
「ホラじゃありませんよ。人伝に聞いたので直接聞いたわけではないですけど」
カロン軍曹は僕の言葉を鼻で笑ってあしらうと、その顔から表情を消した。
——これは僕の負けかな。
僕とカロン軍曹の背丈は頭一つ分違う。骨の太さも筋肉の厚みも、全てカロン軍曹が勝っている。
——それでも、せめて相打ちくらいには持ち込んでやる。
♦♦♦♦
王様は偉い。どのくらい偉いかというと国で一番偉い。そんな事はド田舎の子供でも知っている。でもそれがどれだけ凄い事なのかを具体的に答えられる人間は少ない。
それは軍に入るまで実家の領地から出た事の無かった僕にも当てはまる。
「どうしたんですか、カロン軍曹。その顔の
僕が想像していた王様は確かに大きなお城に住んでいた。だが現実の王様は、その予想を遥かに超える城に住んでいた。正確には、国内外の賓客を持て成すための離宮だけど。
「運が悪い事に、立ち寄った酒場で喧嘩に巻き込まれてしまってな」
——実家の領地にある村が一つ、いや二つは入るんじゃないか。農地も込みで。
「冗談でしょ?俺ならいくら酔っぱらっていてもカロン軍曹に手を出すような命知らずな真似はしませんよ」
「その命知らずとやり合った結果がこの様だ」
「そいつはとんだ大男なんでしょうね。戦闘技教官のカロン軍曹に怪我を負わせるんですから」
「意外と小男かもしれんぞ。おい、ウィル!いつまで見とれているつもりだ。さっさとこっちに来い」
「新入りですか?」
「ああ。俺が訓練所で念入りに
カロン軍曹に呼ばれてベルバラード砦の砦門にある警備所の前に行くと、二十代後半らしき軍曹の階級章を付けた人に憐れむような顔を向けられた。
「第三近衛連隊への配属を命じられたウィル二等兵です!」
右足の踵を踏みつけるように地面に打ち付けて、僕は警備隊長らしき軍曹に敬礼をした。
「第三近衛連隊へようこそ、ウィル二等兵。どうやら君もカロン軍曹と一緒に酒場の喧嘩に巻き込まれたらしいな」
警備隊長の軍曹は自身の顔を指差して言った。
「あー……ええ、まぁ、はい。何にでも因縁をつける嫌な野郎でした」
「そいつは災難だったな。配属命令書は持っているか?」
「はい」
僕は私物の肩掛け鞄の中に四つ折りにして入れていた配属命令書を警備隊長の軍曹に手渡した。
「うん、よし。貴官の配属を歓迎する、ウィル二等兵。私は第二中隊のウェラール軍曹だ」
「よろしくお願いします、ウェラール軍曹」
第三近衛連隊が本拠地を置くベルバラード砦は、二代前のクレイン国王エドワード四世が、国内外の要人を歓待するために二十年を超える月日を掛けて造営したベルバラード宮殿を見渡せる丘の上にあった。
「我々に与えられている主任務は、国賓として国外へと
第三近衛連隊本部で非常に遺憾な事にカロン軍曹と同じ第一中隊への配属を命じられた僕は、同じ中隊に所属しているカロン軍曹の案内で第一中隊長ホッチス大尉の執務室を訪れ、着隊の報告を行った。そして僕はその流れでホッチス大尉の訓示を聞いている。
「——我々が他国へ派遣される時の戦力は、多くて一個中隊。友好国であれば一個分隊程度になる。重責だぞ、ウィル二等兵。我々が
近衛には、第一から第三の三個連隊があり、それぞれが違う役目を負っている。
第一は、王と王に連なる一族の身辺警護を主任務にしており、その本部は王宮に置かれている。
第二は、戦場に出る王族の警護を主任務にしており、その編成は常時ではなく臨時で編成される。
そして第三は、先ほど述べたように公務で国外へと出向く要人の身辺護衛と、国外から訪れる要人の警護を主任務としている。本部は国外の要人が滞在する事の多いベルバラード宮殿を見下ろせる丘に建つベルバラード砦。
「我々に求められている能力が何か分かるか、ウィル二等兵」
新兵訓練を終えたばかりの素人にそんな事分かる訳ない。
「すみません、ホッチス中隊長。僕には皆目見当もつきません」
「一人一人が精強で精鋭である事だ」
僕はこの瞬間悟った。きっと僕は一番最悪な外れくじを引いてしまったんだと。
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