第41話
レンガのように固く何の味もしないビスケットを湯気を立てる紅茶の中に一枚、二枚、三枚と入れ、その上から砂糖を一杯、二杯と入れる。
「おえっ。クソッ。吐き気が止まらねえ」
「僕は手の震えが止まらないよ」
数分ごとにえずいているロニーに、僕はわざとしいくらいにぶるぶると震えている手を見せた。
「それじゃ、いつまで経っても傷口を縫えないね」
そう言ったジョシュアの顔はいろいろな所がぴくぴくと痙攣している。
東の空から顔を出した太陽に照らされた二人の顔色は、病み上がりのように血色が悪く、おそらく僕も同じように酷い顔をしているだろう。
僕はふやけてきたビスケットをスプーンで潰し、お粥みたいにドロドロになった紅茶をスプーンで一気に口の中へかき込んだ。
「遅れているな」
僕達が居る丘の縁をなぞる街道の先を見てロニーは言った。
当初の予定では、日の出が出たくらいの時間に、ここを後発組が通る事になっていたが、その予定の数倍の車列が逃げるとなると、その移動速度が当初の半分以下になっていてもおかしくない。
「今日は暑くなるな」
ジョシュアが雲一つない夏空を見上げて言った。
半時間もすれば、鈴虫の音も止み、セミが耳障りな騒音を立てるだろう。
僕は地面に置かれたポットを手に取り、自分のカップに紅茶を注いでその中にまたビスケットを三枚突っ込み、その上から砂糖を二杯入れた。
「もう止めとけよ。吐くぞ」
「……そうだね。これで最後にしておくよ」
ロニーが呆れたため息を吐いて小さく笑みを浮かべると、深刻な事態に気づいた様なハッとした顔を丘へ続く道の先へ向けた。
「銃声!距離、約2ローグ!」
箱馬車の上で待機していた狙撃手、コーネル上等兵の声が上がると、所々で聞こえていた談笑が止み、誰もが耳を澄ましたしんと静まり返った陣地にティンバー中尉の声が響いた。
「総員第一種戦闘配置!各小隊長は人員と武器弾薬の配備状況を確認して報告しろ!」
陣地内が蜂の巣を突いたように騒がしくなった。
「見えるか?」
狙撃手が待機している箱馬車の上へ向かってティンバー中尉が言った。
「いえ。まだ見えません。たぶん、第一の丘の辺りだと思いますけど」
「見えたらすぐに報告しろ」
それから数分。実際にはもっと掛かっていたかもしれないけど、体感的にはそのぐらい経った頃に、砂煙を上げて逃げる馬車の列が丘の陰から出て来るのが見えた。
「くそっ!」
箱馬車の上から望遠鏡を覗いていたティンバー中尉は、怒りを発散するように怒鳴った。
「くそ!くそ!くそ!くそっ!」
裸眼では砂煙を上げて逃げる馬車の列と銃声が聞こえるだけで、
後発組の仲間の顔が浮かんだ。
——死んだのか?死なないと思うか?銃で撃ち合ってるんだぞ?
生気のない空虚な瞳をした仲間の顔が浮かび、僕の心臓が狼狽えた様に不規則に高鳴った。腹の中を蛇が這い回るような気持ち悪さを感じた僕は、胃の中の物を盛大に吐き出した。
——死んだ……
仲間の顔が浮かんだ。
——本当に……
顔に衝撃が走って目が
「何を腑抜けた顔をしてやがる!」
新兵教育の担当教官だったカロン軍曹が、殺意に満ちた顔で僕を睨んでいた。
「そんな面で敵を殺せると思っているのか?!」
「い、いいえ」
「何だその死にかけのジジイみたいな声は!」
カロン軍曹の左手が僕の右頬を張った。
「ふざけるな!奴らのチンポをおしゃぶりするつもりか、この淫売野郎!」
「いいえ!」
「嘘を吐くな!奴らに気絶するまでファックされるのが待ち遠しいんだろ?!」
「いいえ!」
カロン軍曹の右手が僕の左頬を張った。
「黙れ、この変態野郎!その場に腕立ての姿勢を取れ!」
僕はその場で腕立ての姿勢を取った。
「ファックしろ」
……何だって?
「何だ、その顔は?まさか、ファックの仕方を知らないのか?まったく、これだから童貞の相手は嫌なんだ。腕を曲げろ!もっとだ!童貞が見栄を張るな!もっとしっかり奥まで下ろせ。下ろしたら上げろ。どうした?お気に召さなかったか?ふざけるな!この礼儀知らずな、童貞野郎が!お前ら童貞に選り好みする権利など無い!動け!動き続けろ!干乾びたババアの股間がオアシスになるまで突き続けろ!いち!に!いち!に!ハイヨー!ハイヨー!」
クソ野郎め。
僕は久しく忘れていたカロン軍曹に対する憎しみを思い出した。
「どうだ?勃っ立って来たか?」
カロン軍曹の虚仮にする様な物言いに周囲からふっと鼻で笑う忍び笑いが起きた。
「カロン軍曹の彼女に?」
どっと笑いが起きた。
「カロン軍曹の彼女は冷たくてお堅いからな。並の男じゃすぐに萎えちまうぜ」
誰かが言った冗談にまたどっと笑いが起きた。
「誰だ?!俺の彼女を侮辱したのは。許さんぞ。出て来い!ぶちのめしてやる!」
何で僕達は、よりにもよって命懸けの戦いが始まろうという時にこんな下らい事をやっているのだろう。まったくもっと馬鹿げている。
だけど、恐怖と不安に駆られて震えているよりずっと気分がいい。
「どうした?出て来い、おしゃぶりブタ。俺が本物のファックを教えてやる」
逃げて来る馬車の数は11台。30以上あった馬車の内の半数は荷馬車だったから……いや、それでも馬車の数が足りない。クレイン王国の旗が立った馬車は3台。その内の一台が足止めをする僕達が使う補給品を積んだ馬車なのだとしたら、残りの二台にはドゥイッチ補佐官やドゥイッチ補佐官の身の回りの世話をする使用人の人たちが乗っているのだろう。じゃあ、後発組の24人の仲間は?おい、どういうことだ。クレインの騎馬兵が一騎も見当たらないじゃないか。
「狙えるか?」
箱馬車の上に陣取っている狙撃手にティンバー中尉は聞いた。
「狙えます」
「よし。撃て」
ティンバー中尉の命令が下ると同時に、狙撃手たちは最後部を走る仲間の馬車に向かって発砲している騎兵4騎に向かって発砲した。
命中する度に歓声が上がった。
「イブラッド少尉、分隊を連れて補給品を受け取ってこい」
スペンサー王国の馬車列の先頭が僕達の陣取る丘の横を速度を緩めることなく通り過ぎていく。
「我々は十分に義務を果たした!無理をせずに逃げろ!責任は私が取る!」
スペンサーの車列に挟まれたクレイン王国の箱馬車から顔を出したドゥイッチ補佐官が走る馬車の音に負けない声で叫び通り過ぎて行った。
十分に義務を果たした?
「クソッ!」
丘を下りて行ったイブラッド少尉の
「ウィル!」
「はい!」
ティンバー中尉に呼ばれた僕は、返事を返すと同時に丘の下へと駆け出した。
「ホレス!担架を運べ!伝令!様子見て来い!」
スペンサー王国の馬車が次々と通り過ぎていき、最後尾を走るクレイン王国の二台の馬車が僕達の前で止まった。と同時に、最後尾の前の馬車からハリス曹長が飛び出してきた。
「応急処置をしますよ」
僕に気づいたハリス曹長が最後尾の馬車へ向かって走りながら言った。僕は「はい」と応えてハリス曹長の後を追い、悪夢のような光景を見た。
「荷を下ろせ!」
荷台の後ろには銃弾を防ぐための防壁として使ったのだろう荷箱や荷袋が積み上げられていて、荷台に乗るためにはその荷物を下ろす必要があった。
「止血の準備を」
ハリス曹長にそう言われた僕は、肩から下げている鞄から止血帯を止血帯を取り出した。
大柄なセオドル上等兵が荷台のあおりを下ろして一番上に積まれていた荷袋を退けると、そのすぐ裏側に居る誰かの手が見えた。
「大丈夫か?!」
その手を握ったセオドルは、ハッとした顔をして今にも泣きそうな顔をした。
「セオドル!手を止めるな!早く荷物を下ろせ!」
イブラッド少尉に叱責されたセオドルは、握っていた手を離すと、大急ぎで荷物を下ろした。
眩暈がした。
「行きますよ」
ハリス曹長は僕にそう言うと、誰よりも先に荷台へと飛び上がり、それに釣られるように僕も荷台へ飛び上がった。
鼻いっぱいに広がるまだ温もりがありそうな血の臭い。見るもの感じるものすべてを拒絶したくなる、
ハリス曹長は、一番手前に居た目を背けたくなる様な傷を負った仲間の体に触れてその生死を確かめると、何も言わずに他の仲間の所へ向かいその生死を確かめた。
「ウィル!」
ハリス曹長は僕を呼ぶと、まだ息のある仲間の止血を命じた。
僕は血まみれの床に膝を突くと、手当たり次第に止血した。本来なら、出血量の多い箇所から止血するのが定石だが、この時の僕はそんな当たり前の手順すら思いつかないくらいに動転していて、少しでも止血するのが遅れたら死んでしまう気がして……とにかく必死だった。我を忘れるくらいに。
「彼で最後です」
さいご……最後?
辺りを見渡すといつの間にか荷台は空になっていて、終わったのかと一息ついた顔をした僕にハリス曹長が言った。
「次は傷の処置です」
ずっしりとした重みが僕に圧し掛かった気がした。
「それが終われば私はここを
ハリス曹長の一番の役目は、怪我をした僕達の治療する事ではなく、ドゥイッチ補佐官が病気や怪我をした時に治療する事だ。
「敵の後続が来るまでに終わらせますよ」
血まみれの馬車から降りた僕達は丘を駆け上がった。
歴史に残らない英雄たちに敬礼を 江戸エド @15584290
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