第9話
第三近衛連隊の各中隊には二名の衛生兵が配属されている。だから、スペンサー王国に護衛部隊として派遣された第一中隊にも二名の衛生兵がいる。僕はその一人で、もう一人は軍歴が15年を超える実務経験も医療知識も豊富なハリス曹長だ。
「何でハリス曹長は軍医にならないんですか?」
ハリス曹長とはまだ一年半ほどの付き合いしかないけど、その知識と技術はその辺の医者よりも上なのは間違いない。
「軍医にはいつでもなれるからですよ」
僕は呆れて何も言えなかった。まぁ、何となくそうなんじゃないかとは思ってはいたけど。だけどあまりにも馬鹿げている。軍医になれば中隊長と同等の待遇が得られる上に、きつい訓練や危険な任務に従事する必要も無くなるのに。
「今の君には理解出来ないでしょうね、私の気持ちは」
「想像もつきません。何がどうなったらハリス曹長の気持ちを理解できるようになるのか」
「出来る事なら理解して欲しくはありませんが……君が衛生兵である以上、その内嫌でも理解するようになるでしょう」
ハリス曹長は自嘲するように小さく笑った。
訓練中だろうと休憩中だろうと任務中だろうと、衛生兵に休む暇など無い。たとえ真夜中であろうと
「いや急に腹が痛くなりまして」
医務室で寝ていた僕とハリス曹長を訪ねて来たのは、情報収集の任務を負っている諜報兵のエバンス軍曹。
「何か、心当たりはありますか?」
「あー……そうですね。生水は飲んでいませんが、街で食事した時に水割りのワインを飲みました。それと……やはり街で食べた昼食の何かが悪かったのでしょう。朝はここで食事を摂りましたし、夕食は部隊配給の乾パンしか食べていませんから」
「ふむ……」
診察台に
「街の様子はどうでした?」
取りあえず下剤を飲んで様子を見ようということで、薬が効くまでの間、何もすることが無いので僕はエバンス軍曹と会話を始めた。
「出来る事なら今すぐこの街から離れたいと思うくらいには良くないね」
僕は首を傾げた。
「あまりピンとはきませんね。危険な状況だと言うのは分かるんですけど」
「完全武装の憲兵が分隊単位で街を巡回していると言えば分かるかな?」
「あー、いやまぁ……うーん」
「嵐の前のそわそわする感じがするというか、うーん、何かこう、戦端が開かれる寸前の緊張感というか、あっやばい出そう。ちょっ、トイレトイレ」
——うーん……何となくほんとにやばい状況だと言うのは分かるんだけど……やっぱこう、ピンとこないな。晴れた日に嵐が来ると言われた様な、何処かこことは関わりの無い場所で起きそうな戦争の話を聞いているみたいで、自分が当事者だという実感が全くと言って良いほど湧いてこない。間違いなく僕は当事者だと言うのに。
♦♦♦♦
ベルナルドの朝はいつもと変わらない。
彼の狭い寝室に唯一ある窓の木戸の隙間から朝日が差し込み、木戸に投げつけられた小石がコンコンと音を立てて彼の目覚めを促す。
まだ寝ていたいという思いと起きなければならないという思いがぐるぐると頭の中で不毛な争いをして、その結果を彼は毎回渋々と受け入れて起き上がる。
「決まったぞ。今夜決行だ」
下宿している安宿の出すミルク粥をもそもそと食べていたベルナルドの前に座った顔見知りの若い男が言った。
「今日はカルジョ通りのゴンサロさんの家に戸棚を取り付ける事になっている」
「はあ?お前、俺の話聞いてたのか?今夜決行だぞ?そんなことしている場合かよ」
「俺が死んだら誰がゴンサロさんの家に戸棚を取りつけに行ってくれるんだ?」
下を向いてミルク粥を食べていたベルナルドは、その只者ではない鋭い眼光で向かいに座る若者の顔をしかと見据えた。
「俺が十二の頃から磨いてきた仕事の最後かもしれないんだぞ。それが、そんな事か?」
ベルナルドに問われた若い男は、自分が誰を相手にしているか思い出したのだろう。怯えるように小さく肩をすぼめた。
「……いえ」
「そりゃ、国をひっくり返すことに比べりゃ俺の仕事なんて大したことないだろうよ」
「いえ、そんな事は……」
「そんな事あるだろ。国をひっくり返すんだぞ?それが戸棚の取り付け仕事と同等か?」
「あ、いや……まあ、その……」
「まぁ、お前が浮かれる気持ちは分かるし、お前がそんなことしている場合かと思う気持ちも分かる。だが通すべき筋ってもんがあるだろ。俺はゴンサロさんから戸棚の取り付けを頼まれて、俺はゴンサロさんにお任せくださいと請け負ったんだ。なら、俺が戸棚を取り付けるのが筋ってもんだろ?俺が頼まれて、俺が請け負ったんだからよ」
「はい。そうですね」
「お前、この後暇か?暇だよな?」
「え、いや、まだこの後……はい、暇です」
「よし、じゃあ俺の仕事を手伝え。戸棚は出来てるから、半時間も掛からない仕事だ」
下宿している安宿を若い男マルコと共に出たベルナルドは、通りを行き交う人々の中から、期待と不安が入り混じった表情をしている若者達を見かける度に少しだけ憂鬱な表情を浮かべた。
「なぁ、マルコ。お前は何だって革命なんかに参加しているんだ?」
「そりゃこの腐りきった世の中を変える為ですよ」
「それでお前に何の得があるんだ?」
「そりゃあ……安心して暮らせる、良い世の中になることじゃないですか?」
「……チッ。馬鹿が」
ベルナルドは吐き捨てるように呟くと、足先を道の端に向けて、通り沿いに建つ店の壁際で足を止めた。
「お前は分かっているのか?革命に参加するって言う事は、命を懸けて戦うってことだぞ」
「勿論分かってますよ。俺はいつでも命を捨てる覚悟は出来てます」
覚悟を示すようにマルコは胸を張って真っ直ぐにベルナルドを見つめた。
「……それでお前が得られるのは、命を懸けて戦って得られるのが、安心して暮らせる良い世の中?」
呆れ果てた様にベルナルドは言った。
「そう、ですけど……そういうベルナルドさんはどうなんですか?ベルナルドさんは何のために戦うんですか?」
「俺か?俺は……お前みたいな馬鹿が小賢しい連中に騙されることが無い世の中にするためだよ」
何処か照れくさそうにマルコから視線を逸らしたベルナルドに、不貞腐れ顔だったマルコの顔にじんわりと笑みが広がった。
「ちっ、行くぞ」
「ういっす」
♦♦♦♦
夕食後に行われる情報共有のための連絡会でティンバー中尉から伝えられる情報は二つ。一つは護衛対象である要人たちの予定と各個人の注意すべき特性(問題行動)について。もう一つは滞在しているスペンサー王国の王都の情勢と治安状況について。
「よくもまぁ、皆我慢が出来るね。僕なら文句の一つや二つは言ってるよ」
「君が一つや二つの文句で満足するなんてありえないね」
「お前を衛生兵にしたのは隊長の英断だな」
ロニーとジョシュアの思ってもいなかった辛辣な発言に、僕は心外だと言うふうに眉根を下げて二人を見つめた。君達は何でそんな根も葉もない嘘を言うんだ、と。
「じゃあ聞くけど、僕達を追い出して何人ものスペンサー王国の貴族と密会している外務次官に、君は何も言う事は無いんだね?」
「勿論だとも。外務次官が、密会したスペンサー貴族達から何を手土産に貰っているのかは知らないけど、その内のいくらかを僕達に回してくれたら、僕が何か言う事なんて絶対にありえないよ」
「お前、外務次官を
「その通りだよ、ロニー君。そんな事をすればただで済むはずがない。常識的に考えれば、だけどね」
「ウィル先生には何か秘策がおわりのようですね?」
「いやいや、そんな秘策と言うほど大袈裟なものではないよ、ジョシュア君」
「あ、じゃあどうでもいいです」
「君達にとっては秘策かもしれないね。僕にとっては当たり前のことだけど」
「何か眠くなってきたな。俺、明日朝早いし、もう寝るわ」
「なら僕ももう寝ようかな。夜更かしすると無駄に腹が減るし」
「え……?もう寝るの?消灯時間まで、まだ二時間もあるよ?」
「君も早く寝た方が良いよ。ティンバー中尉が言ってただろ?明日は何かが起きる可能性が高いって」
「お前が大好きなスミス卿も、何やら夜な夜な余計な企みをしてくれているようだしな」
そう言って二人は席を立って食堂から出て行った。
「……寝るか」
ボードゲームやカードゲームをやる気分ではないし、盛り上がっている馬鹿話に混じる気にもなれなかった僕は、潔く医務室に帰る事にした。
♦♦♦♦
後宮で謹慎していたカリーナに王国府から連絡があったのは昼前の事だった。
「私はソニアの代わりですか」
王国府の女官がカリーナに伝えたのは、クレイン王国の外遊団を歓迎するダンスパーティーに参加する予定だったソニアが体調不良により参加できなくなった事と、謹慎中と言う事でダンスパーティーに不参加を表明していたカリーナに、ダンスパーティーへ参加して頂けないかという要請だった。
「いえ、代わりなどではありません。当初の予定通り、カリーナ殿下に参加して頂けないかと、今一度お願いに参っただけに御座います」
——ならソニアの事を伝えずにそう言えばよろしい。それを……素直にソニアの代わりに出てくれと言えば良いものを、何故こうも王国府の官僚はわたくしの癪に障る回りくどい言い回しをするのか。。
「……いいでしょう。そこまで再三に渡って頼まれたのなら、謹慎中だからと断るのは私の
カリーナがソニアに含む所は無い。性格は合わないし仲も良くないが、カリーナはソニアを嫌っていないし、遠ざけてもいない。
しかし傍から見ると、カリーナはソニアを嫌っているように見えた。周りがそう見えるように仕組んでいた。
カリーナとソニアには、それぞれ母を同じくする弟がいる。次代の王となる弟がそれぞれに。
ソニアがどう思っているかは知らないが、カリーナに自身と血を同じくする弟を王にする気は無かった。弟が王国府に
しかしそれは弟が成人する十年も先の話。今日明日の国運すら定かではない現状で、そんな事を考える余裕はカリーナには無かった。
——嗚呼もう、何でわたくしの頭は何の役にも立たない思考を繰り返すばかりなのか。一刻も早く何か有効な策を打たなければならないというのに。
♦♦♦♦
スペンサー王国で革命の主体となっているのは、人民による人民のための議会政治を標榜する政治結社『民主の党』
「それを支持し支援しているのは誰だと思う?」
一仕事終えて、近くのカフェで若い青年マルコと一息つきながら会話を交わしていたベルナルドは、向かいの席に座るマルコに問いかける。
「お前のように、この国を良くしたいと思っている人間か?」
「……はい。じゃなかったら、支援なんかしないでしょ?」
「なら聞くが、お前は民主の党のために何をした?ライフルの一つでも、銃弾の一発でも用意したか?」
「あ、いや、その……一番大事なのは、恐れずに立ち向かう勇気だって……言われたから……それがあれば、いいって……」
ベルナルドの視線から逃げる様にマルコは視線を逸らして苦笑いを浮かべた。
「どうした?何も用意できない自分に引け目でも感じているのか?」
「あぁ、いや……考えたことも無かったから。必要な物はいくらでも用意するって言われたのもあるけど……俺も何かするべきだったかなって思って」
決まりが悪そうな顔をするマルコに、ベルナルドは呆れ顔で大きな嘆息をした。
「お前は一体誰を想像して言っているんだ?領主に重税を課せられている名も無き庶民が、革命のためならと少ない貯えから”民主の党”に資金援助をしていると思っているのか?」
「いやさすがに全てがそうだとは思っていませんけど……それでも半分ぐらい、少なくともそのくらいは、そういう人たちからの援助なんじゃないですか?」
お手上げだと言う風にベルナルドはカフェの天井を見上げた。
「え、どういうことですか?え?!もっと多いんですか!」
ベルナルドは驚きに目を見開いて、同じ様に驚きに目を見開いているマルコの顔をマジマジと見つめた。
「お前……冗談だろ?」
「え、違うんですか?いやでもそれなら、さっきのベルナルドさんの態度は何なんですか?」
「……マジかよ」
「……俺、何か変な事言いました?」
「……あー、そうだな。とり合えず……今日は俺と一緒に行動しろ。いいな?」
「え?いやでも、ラルスさんに用事が終わったら戻って来るように言われているんで」
「なら、そいつの所へ案内しろ。話をつける」
「え?あー……はい」
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