第8話
公務で他国へ
常に要人の側に居て警護する護衛兵。要人の周囲を警戒する監視兵。移動経路や滞在地の情報を収集する諜報兵。そして僕に与えられた役目の護衛部隊の怪我や病気に対処する衛生兵。
だから僕が要人の警護に当たることはないし、その周囲を警戒することも無い。
「ウィル。隊長がお呼びだ」
宿舎の一室に設けられた医務室に、馬車から降ろした荷物を広げて棚に整理していた僕を、ホッチス大尉の従卒をしているオリバー上等兵が息を切らして呼びに来た。
「今すぐ正装に着替えろ。時間がない」
荷運びで一張羅の正装が汚れないように戦闘用のカーキ色の軍服に着替えていた僕は、ここまで全力で走って来たのだろう、本当に時間が無さそうなオリバー上等兵に早くしろと急かされながら正装用の軍服に着替えた。
「何でそんなに急いでいるんです?」
外来用の宿舎から少し離れた王宮へ小走りで移動を始めたオリバー上等兵の背中に僕は問いかけた。
「何故かは分からんが、お前をスペンサー王との謁見に同行させるそうだ」
「……は?」
「たぶん、スペンサー側からの要望だろう。俺に、お前を呼ぶように言った時の隊長の顔は思いっきり不服そうだったからな」
「……は?」
スペンサー側からの要望?
「僕はただの下っ端の衛生兵ですよ?!」
「だから呼び出される理由に覚えがないって言うのか?」
ない訳じゃないだろ?と言う様にオリバー上等兵はフンと鼻で笑った。
「いやまあ、有るような、無いような……怒られるんですかねぇ?」
「ああ?何か怒られるような事でしたのか?」
「えー?いや~、どうでしょう。僕には全く身に覚えがないですけど」
「フン、だったら堂々としてろ。何か文句でもあるのか、ってな」
「オリバー上等兵は僕を何だと思っているんですか?出来る訳ないでしょ、そんな横柄な態度。スペンサー王の目の前ですよ。たとえスペンサー王が許しても、ホッチス隊長が許しませんよ、そんな態度」
「じゃあ、目立たないように大人しくしているんだな。その顔じゃ無理だろうけど」
——うるせえ、このクソッタレめ。
謁見に備えるための控え室に入った僕を、厄介な奴が来た時みたいな雰囲気が出迎えてくれた。
「身嗜みを整えろ。オリバー、手伝ってやれ」
僕の到着を待っていたのだろう。出入り口の側に立っていたホッチス大尉が感情の無い声で言った。
僕はオリバー上等兵の案内で控え室の角にある
「上着と帽子は俺がやってやるから、お前はブーツとズボンをやれ」
僕は言われた通りにオリバー上等兵に帽子と上着を渡して、ズボンを脱いだ下着姿でブーツを磨きだした。
「分をわきまえぬ愚か者め」
間違いなく僕に言った言葉だろう。王国外務次官オルカ・レイ・ベーデン伯爵は、吐き捨てるように言った。
誰も何も言わない居心地の悪い静かな部屋に、僕とオリバー上等兵の動く音だけが響く。
「自分が何をしたのか分かっているのか?たかが兵卒の分際で」
僕への文句が抑えられなかったのだろう。ベーデン卿は喧嘩を吹っ掛けるような口調で言った。
「分かっているのか!これがどれだけ重大な問題か!お前がした事は、言い訳のしようがないほどの内政干渉だぞ!」
だったら僕を殺してでも止めれば良かったじゃないか。そう言い返してやろうかと思った僕を、オリバー上等兵は絶対に止めろと言う表情で引き止めた。
「黙ってないで何とか言ったらどうだ」
ベーデン卿の許しを得た僕は、遠慮なく思っている事を言わせて頂こうと思ったのだが、その口を背後からオリバー上等兵に羽交い絞めにする様にして塞がれてしまった。
「ベーデン卿、重大な問題であると言うのなら、誰が聞いていてもおかしくない場で、その様な話をするのはお止めください」
オリバー上等兵に切れた唇や頬の内側を押さえつけられて
しかしそれで素直に引き下がるのは
「たかが兵卒一人言う事を聞かせられない隊長が何を偉そうに」
——何だと、この野郎!
「これ以上隊長に迷惑を掛けるなら、殺すぞ」
耳元で囁かれたオリバー上等兵の本気の殺意が籠った声に、破裂寸前まで膨らんでいた僕の反抗心は急速に
「隊長が兵卒一人従えられないと思うか?」
僕は首を横に振った。
ホッチス大尉なら言う事を聞かない兵卒はその場で撃ち殺すに決まっている。
「だったら分かるだろ」
僕は頷いた。
「恩を仇で返すつもりか?」
——いいえ。ボコボコに殴られた恨みはいずれお返ししますけど、受けた恩を仇にして返したりはしませんよ。
「だったら、誰彼構わず噛みつくな」
——はい……善処します。出来る限りですけど。
でも僕の視線は不思議な事に、その王の横に控えるように立っている美女に吸い寄せられる様に向いていた。
おそらくだが、彼女の視線が僕に向いていたからだろう。人によっては、僕が彼女を見ていたのは、彼女の魅力的なボディーラインに目を惹かれたからだろうと主張するかもしれないが、僕は断じて違うと主張したい。とはいえ、彼女が非常に魅力的であることは否定のしようがない事実でもある。
しかし考えてみて欲しい。一国の王との謁見という少しの非礼も許されない場で、その様な不埒な思いを抱く余裕があるだろうかと。
答えは否。ありえないと言っておこう。実際に体験した僕が言うのだから間違いない。
だからスペンサー国王の顔が思い出せないのは極度の緊張のせいだろう。その横に控えていた彼女のボデ……顔は覚えているのは何故か分からないけど。
何事もなく謁見の間を出て控えの間に戻って来た僕は、ピンと伸ばしていた背筋をぐにゃりと曲げて安堵のため息を零した。
「実物はアニメ以上だな」
横を見ると、アルベルトとかいう変態がキモイにやけ面を恥ずかし気も無く堂々と晒していた。
「持ち場に戻って良いぞ、ウィル一等兵」
椅子に座って、従卒のオリバー上等兵から受け取ったお茶を一口飲んだホッチス大尉が言った。
僕は脱力していた背筋を伸ばしてホッチス大尉に敬礼した。
「ウィル一等兵は持ち場に戻ります!」
僕はくるりと回れ右をして控室の外に出ると、オリバー上等兵に連れて来られた時に通った道順を思い出しながら王宮の廊下を歩いた。
「もし」後少しで王宮の外だと気が緩みかけていた僕の隙を突くように、背後から声を掛けられた。
振り向くと、使用人のような統一されたお仕着せのドレスではない、それよりも上質なドレスを着た若い女性が立っていた。たぶん、王宮に努める上位貴族の女性や、やんごとなき人の側仕えをしている侍女だろう。
「はい、何でしょう。僕はクレイン王国の軍人でウィル一等兵です。決して怪しい者ではありません。こちらにはちゃんと衛兵の方の許可を得て入っております」
僕はそう言って上着の内ポケットに入れていた入宮許可証を取り出そうとした。だけどそれは彼女に「存じております」と言われて止めた。
ホッチス大尉に殴られてパンパンに張れている僕の顔を見ながら言った事に、引っ掛かる所はあるけど。
「主人がウィル様との面会を所望しております。お手数ではありますが、ご足労願います」
頂けますか、ではなく、願います……か。
誰かは知らないけど、思いっ切り無視してやりたいな。
「……承知致しました」
オリバー上等兵に”誰彼構わず噛みつくな”と叱られたばかりだからなぁ。
「案内します。ついて来て下さい」
「はい」
とはいえ、気が進まないな。なんかちょっとイライラするし。相手の機嫌を損なうようなことを言わないと良いんだけど。
侍女と思われる女性の後について廊下を進むと、友人と気兼ねなく談笑するのに適していそうな民家の小さな庭の様な場所に出た。
その瞬間、僕は落とした小銭を拾う様に、その場に片膝と片手を突いて深く
「
居心地のの良さそうな小さな庭に居たのは、謁見の間でスペンサー王の隣に控えるように立っていた魅力的なボディラインを持つ美女だった。
「お茶を用意したの。こっちに来て相手をして下さる?」
「申し訳ございませんが、お断りいたします」
僕の背後に立つ侍女らしき女性から僅かに殺気を感じた。
「何故かしら?」
初めて手品を見た人のように美女は心底不思議そうに首を傾げて言った。
「職務の都合上、自身で用意した飲食物以外は口に出来ないことになっております」
「私がこの国の王女だとしてもですか?」
「王女殿下が水汲みからご用意なされたのなら喜んで飲ませて頂きます」
背後に立つ侍女から「なんと無礼な」と、今にもナイフを抜いて僕を刺して来そうな
「そうですか……」
王女殿下は何かを思案するように視線を上げて「分かりました」と上げていた視線を僕に向けた。
「今回は残念ですが諦めましょう。ブレア、ウィル一等兵にアレをお渡しして」
僕の背後に立っていたブレアと呼ばれた侍女が、僕の横を通って外壁際の机に置かれていたスープ皿が入りそうな平たい木箱を手に取って、僕の前へ差し出した。
「私からの感謝の気持ちです。お受け取りになって」
僕は両手で押し
「ありがとうございます」
受け取った木箱は、中身が入っていないかのように軽かった。
「いいのか?そんなことして」
「誰が見つけるか分からないクソの中に捨てるよりはマシだろ?」
宿舎の炊事場でお湯を沸かすついでに、僕は王女殿下から貰った木箱ごとスペンサー王家の紋章が入ったスカーフを燃やした。
「ま、お前が怒るのも無理はねえけどな」
「謝罪もお礼の一言も無いんだからね。君が怒るのも当然だよ」
「お金なら喜んで受け取ったんだけどね。ほんと、一発ぶん殴ってやりたいぐらい下々の気持ちが分からない王女様だよ」
♦♦♦♦
——酷い男ね。女が贈った物を燃やすなんて
僕がした行為に対して贈られた物で僕に送られた物ではありませんから。
——それはそうだけど、それなら受け取らなければいいじゃない。
出来る事ならそうしたかったですが、何の力も身分も持たない僕がそれをするといろんな人に迷惑がかかりますからね。だから、まぁ、情けないやり方だとは思いますけど、それでも意地を張りたかったんですよ。
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