第18話

 ——俺は何のために生きているんだろう?朝から真夜中まで奴隷のように扱き使われるためか?

 帰宅途中に寄ったコンビニで買ったレジ袋を片手に、俺は歩道の真ん中で足を止めて昼間とは打って変わって交通量が極端に減った静まり返った車道を呆然と見つめていた。

 ——俺が生きている意味は何だ?誰かの金儲けのために酷使されるためか?

 出張先から夜行バスで帰ったその足で会社に出社して、上司に小言や嫌味を言われながら真夜中までサービス残業。酒と疲労臭が混じり合った拷問のような酷い臭いがする満員の終電で帰宅。その途中で立ち寄ったコンビニで買った好きでもない腹を満たすだけの売れ残りの弁当。

 ——何のために生きているんだろう?

 休みの日に遊ぶ友達も彼女もいないし、我を忘れて楽しめる趣味もない。寝て起きて働くだけの何の楽しみも喜びも無い日々。

 ——生きている意味なんてあるのか?

 「ああ、こいつはいいですね。いい感じにくすぶってますよ」

 誰も居ないはずの歩道の、それもすぐ隣で聞こえた、探していた物が見つかったような嬉しそうな声に、俺は心臓が止まりそうなほどビックリして、反射的に声が聞こえた左隣に顔を向けてしまった。

 「ああ、どうも。初めまして。わたくし悪魔のベリアルと申します」

 やばいと思った。人気の無い夜更けに声を掛けてくる悪魔を自称する人間がまともなはずがない。

 「魂の救済を行っております」

 ——やばいやばい、マジでやばい奴だ!

 身の危険を感じた俺は、息をおもいっきり吸って全力で逃げようとした。だが俺の体はコンクリで固められてしまったかのように微動だにしない。

 ——おいおいマジかよ?!どうなってんだよ?!何で動かねえんだよ?!

 俺は何度も腕や足に力を込めるが、俺の体は電源が切れたロボットのようにうんともすんとも動かない。

 「だから分かるんですよ。ええ、そうですよね。こんな人生は間違っていますよね」

 悪魔を自称する一目で分かる質の良いスーツを着たハーフのファッションモデルのような容姿をした若い男が、俺の眼の奥を覗き込むように顔を近づけ、罠にかかった獲物を嘲笑あざわらうような笑みを浮かべた。

 俺はその顔が腰が抜けそうになるほど恐ろしくて、その顔から逃げようと必死に眼を背けようとしたが、俺の眼は魅入られた様に男の顔を見続けた。

 「でももう大丈夫ですよ。私はケチ臭い神と違って、全ての人に幸福を与えますからね。あなたのご希望は何ですか?最近の流行はチーレムなんですけど、チーレムってご存知ですか?ええ、そうです。不正に得た力や知識をドヤ顔で披露してたくさんの美男美女にちやほやされる事をチーレムと言います」

悪魔を自称する男はそう言うと、ハンズフリーイヤホンで通話をしているみたいに、ここにはいない誰かと会話を始めた。

 「ああ、どうもどうも。ベリアルです。今ちょっとお時間よろしいですか。ええ、そうです。この前おっしゃられていた条件に合致する魂を見つけまして、ええ、ええ、あーそうですか。まだ探しておられましたか。それじゃあ、どうしましょう?今からそちらに送ることも出来ますけど……ああ、はいはい。それじゃあ今から送りますね。あーいえいえ、そんな大したことじゃ……あ、いやそんな悪いですよ。ええ、そうですか?あー……まぁ、そうですね。そこまで言われたら断るのもあれですし、ええ、はい。有難く頂かせて頂きます。はい、はい。ああ、もちろん大丈夫ですよ。それじゃあのぉ、後でご連絡していただけますか?あー、はい。ええ、大丈夫ですよ。特に予定もないので。はい。それじゃあ、失礼しますね」

 悪魔を自称する男は、大口の契約に成功した営業マンのように誰よりも自慢げな顔を俺に向けて言った。

 「あなたのおかげですよ。ありがとう。心から感謝致します」

 そう言って悪魔を自称する男は俺の背に手を回すと、別人の体のように言う事を聞かない俺の体を車道の脇へと歩かせた。

 「昔は神隠しが流行りでしたが、最近はトラックが流行りなんですよ」

 悪魔を自称する男は、こちらに向かって近づいてくる車道を走行するトラックを見ながら言った。

 ——嘘だろ?!おい、嘘だろ?!

 「それじゃあ、いってらっしゃい」

 背中を強く押された俺は、けつまづいたように車道へ飛び出し、驚きに顔を強張らせたドライバーと目が合った瞬間、俺の意識は強い衝撃によって永遠に失われた。


  ♦♦♦♦


 俺に前世の記憶がよみがえったのは、五歳の時に受けた聖父教会に入信するための儀式で飲まされた聖別された水を飲み込んだ時。

 それは津波のように俺の全てを一瞬のうちに押し流し、ジグソーパズルのようにバラバラになった俺の前世と今世の記憶を一瞬のうちに繋ぎ合わせた。

 ……それ?それ……?は?……あ?ああ?

 「そろそろダンスパーティーが始まる時間だけど、起きなくても良いの?」

 通気性の良い籐椅子ラタンでいつの間にか微睡んでいた俺は、護衛兼メイドとして雇っている美少女、ジゼルの掛け声で目を覚ました。

 「あぁ、もうそんな時間か」 

 壁に立てかけられている小柄な女性の背丈ほどある大きな振り子時計で時間を確認した俺は、起こしてくれたジゼルに感謝を伝える笑みを浮かべた。

 「起こしてくれてありがとう」

 照れているのか、彼女は眉間に皺を寄せた不機嫌顔を俺から背けて言った。

 「アルファから報告が来てる」

 彼女が差し出した手の平には、手の中に隠せる大きさの小さく折り畳んだ紙片が数枚乗っていて、それを受け取って近くの壁に吊るされているオイルランプの明かりでそこに書かれている小さな文字を読んだ俺は、思ってもいなかった悪い報告に顔をしかめて舌打ちをした。

 「たった一人に精鋭部隊が全滅させられたってどういうことだよ?奴らにはまだ誰にも公表していない最新鋭のサブマシンガンを持たせていたんだぞ?訓練だって時代を200年以上先取りした前世の軍隊で行われていた洗練された市街地戦闘の訓練を十分に積ませていたんだぞ?それが……」

 ——それがたった一人に全滅させられた?何がどうなったらそうなる?同行していたリリーの行方不明も分からなくなっているし……

 「そろそろダンスパーティーが始まるけど、どうするの?」

 「もちろん出席する。ソニアと約束したからな。カリーナ王女とカリーナ王女の弟のピエール王子を助けると」

 俺はジゼルに麦茶を入れてくれるように頼むと、姿見の前で少し乱れたダンス衣装を直した。

 外遊に帯同しているクレイン王国が用意してくれた使用人に頼むことも出来るが、基本的に男の世話をするのは男の使用人だ。それがこの時代の当たり前ではあるんだが、前世の記憶がある俺はその当たり前を未だに受け入れられていない。多分それはこれからも変わらないだろう。

 「ありがとう。どうかな?」

 ジゼルから麦茶を受け取った俺は、両手を広げて自分で直した服装に不備が無い事を確認して貰う。

 「問題ない」

 照れ隠しの不機嫌顔でジゼルは言った。

 「少し早いが、行くか」

 やたら気取った外務次官のおっさんと決めた時刻より20分ほど早いが、この時代の感覚だと誤差みたいなものだから問題は無いだろう。

 「ああ、そうだ。念のためにもう一度確認して来てくれる?万が一があると困るからさ」

 嫌そうにジゼルは顔を顰めた。

 「警備がいつもの三倍はいるんだけど」

 「あー、そうか……それじゃ、無理のない範囲で確認して来てくれる?」

 俺のお願いに、ジゼルは渋々といった顔で頷いた。俺はその姿が可愛くていつも彼女に注意されているのに、つい「ありがとう」と彼女の頭を撫でてしまった。

 「止めろ。私に気安く触るな。私はあなたのペットじゃない」

 撫でていた手をジゼルに振り払われた俺は「ごめん。ついジゼルが可愛くて。いやほんとごめん。もう二度としないよ」と心の底から謝った。

 「……ハト頭」

 ジゼルに信じられるかと言いたげな冷ややかな視線を向けられた俺は、居たたまれなさを誤魔化す苦笑いを浮かべた。

 

 残り火のような弱弱しい西の空の明かりを消す様に東から星が瞬く夜空が広がる頃。

 ダンスホールに集まった老若男女の紳士淑女たちが匂わす雑多な香水の臭いのど真ん中で主賓の一人として紹介を受けた俺は、気取った外務次官のおっさんから教えて貰った社交辞令を述べ、歓迎の拍手ににこやかな会釈を返した。

 事前に聞いた予定では、俺はこの後舞踏会の開始を告げるファーストダンスをカリーナ王女と踊る事になっている。だが、拍手が止んで静まり返ったダンスホールに俺のダンス相手として出て来たのは、三十代半ばの女性にしては背が高いモデルのように容姿の整った淑女だった。

 「ご機嫌よう、スミス卿。お会いできて光栄ですわ。わたくしは、スペンサー王家舞踏指南役のバルデ。今宵のスミス卿のファーストダンスのお相手を務めさせていただきます。よろしくって?」

 そう言って差し出されたバルデ女史じょしの手を、予定と違うと異国の貴族である俺が断るなんて出来るはずもなく、俺はにこやかな笑みを浮かべて差し出されたバルデ女史の手を下からそっと手に取り、その手に敬意を示す口づけをする振りをする。

 「バルデ女史のようなお美しい才媛のお相手を務められる名誉にあずかる幸運を神に感謝いたします」

 そうしてバルデ女史と手を取り合ったタイミングで演奏が始まり、俺とバルデ女史はダンスホールに集まった紳士淑女の見守る中、最初の一歩を踏み出した。

 「お上手ですこと」

 「ありがとうございます」

 「ふふっ」

 上品に微笑むバルデ女史だが、そのステップは少しでも遅れたりズレたりしたらすぐさま俺からリードを奪うような攻撃的なステップだった。

 ——おいおい、普通こういう時は主賓に恥をかかさないように踊るんじゃないのかよ?!おい待て止めろ。勝手にターンしようとするな!

 俺のホールドが甘いとばかりにバルデ女史は自分の方に俺を引き寄せて、自分がリード役だと言わんばかりに自分を中心にターンを決めようとした。俺はそれを阻止するために俺とバルデ女史の間を中心にしたターンを決める。

 ——このババア、本気で俺を皆の前で笑い者にするつもりか?!俺は主賓だぞ?!

 

 

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