第17話

 『諦めなさい。今の君の実力では無駄死にするだけです』

 ——それでも構いません。だから——

 『迷惑です。そりゃ君は望みが叶うんだから無駄死にしても本望でしょう。ですが、私達はそうじゃない。私達は君が死ねば悲しむし、悔いても悔い切れないほどに後悔する』

 ——でもそれは、他の方達が亡くなっても同じでしょう?

 『そうです。私達は誰であろうと悲しみ後悔する』

 ——だったら——

 『だったら何です?だったら自分一人くらい増えてもいいだろうと言いたいのですか?』

 ——いえ、違います。私はただ——

 『無いと言えますか?ほんの僅かな偽りも無くそんな気持ちは無いと言えますか?』

 ——…………

 『自身の命を軽んじる者は他者の命も軽んじます。君はそんなことは無いと思っているかもしれませんが、現に今君は、君の死を嘆きその死を生涯後悔するだろう私達の気持ちを軽んじたでしょう?』

 ——いえ、そんな気持ちは私には一切ありません。ですが、私のような未熟者が死んだところで、騎士団の活動に何の影響もないでしょう?

 『それが自身を軽んじ他者を軽んじていると言っているのです!それが何故分からないのですか!』


 仮死状態から息を吹き返した様に、アルス少尉はむさぼる様に深く息を吸った。

 ——分かってますよ、団長。あの時の私は何も分かっておりませんでしたが、今はもう分っております。

 全身に強い衝撃を受けて全身の血管が破裂したかのような痛みに、アルス少尉は息を吐く度に拷問に耐えているかのような呻き声を上げた。

 ——昔はこの程度で動けなくなることは無かったのに……相変わらず愚かだな、私は。

 アルス少尉は力を振り絞って仰向けの体をうつ伏せに変えると、歯を食いしばって四つん這いになり、力を使い果たしたように荒い呼吸を繰り返した。

 ——くそっ……くそっ。くそっ!くそっ!!

 今にも力尽きそうな弱弱しい動きで壁際まで這って行ったアルス少尉は、壁際に背を預けて全身に走る激痛に顔を歪めた。

 ——この程度で根を上げている場合か。これからやるべきことはまだまだ一杯あるんだぞ!

 しかし気持ちとは裏腹に、アルス少尉の体は床に垂れ落ちている腕を上げる力すらなかった。

 ——駄目だ。焦るな。これが今の私なんだ。否定するな。受け入れろ。

 アルス少尉は目を閉じて、少しでも早く体力が回復するように全身の力を抜いた。

 ——出来ないことを望むな。今の自分に出来る事をしろ。

 吸い込んだ息が肺に入り、全身に力が満ちていく感覚。吐き出されていく息と共に、溜まっていた疲れが体から抜け出て行く感覚。

 ——焦るな。はやるな。より良く、より早くが常に最善ではない。時にはただ無心に自然に身を任せることが最善で最適な場合もある。

 

 『考えてはいけません。それは自身を誤魔化すためのまやかしです。それは決して君の本心ではない。思考を捨てて、ただあるがままに感じなさい。肌に当たる冷たい風や陽の温もり。耳に響く虫の音や木々のざわめき。鼻に香る草花や土の臭い。瞳に映る青い空と何処までも続く雄大な大地。それをあるがままに受け入れなさい』


 ——懐かしい記憶だ。

 

 『意味が分からない。理解ができない。なぜ、どうしてと君が苛立いらだち疑問を持つのは、私が嘘を吐いている、間違っていると思っているからです』

 

 ——信じなさい。ただ愚直に真摯に誠実に。


 『でなければいくら私が君のために心を尽くしても、君のためになることは何一つとしてありません。だから、私を信じられないのなら——』

 

 ——私から離れて君が心から信じられる人に師事しなさい。

 過去と現在。夢と現実。そのさかいが曖昧になり、自分と世界の境も曖昧になっていく感覚に、アルス少尉は母の胸に抱かれた赤子のような安堵感を覚えた。

 ——私はなんて幸せ者なのだろう。

 「おい、大丈夫か」

 何処か心配げなぶっきら棒な声に肩を揺すられたアルス少尉は、いつの間にか閉じられていたまぶたをゆっくりと開いた。

 「ああ、ベルナルドか」

 「あれはお前の仕業か?」

 何の話だ?そんな言葉を期待している様な顔をしているベルナルドに、アルス少尉は悪戯が成功した少年のような笑みを浮かべた。

 「驚いただろう?」

 「ふざけるな。答えろ。何をした?何をどうしたらああなる?」

 ベルナルドの顔に、先ほどまではあった具合の悪そうなアルス少尉を案じる表情は無く、その声は敵対者を問い詰めるような冷酷さを含んでいた。

 「ベルナルド、君は魂の存在を信じるか?」

 そう問われて、何を言っているんだと眉を潜めたベルナルドに、アルス少尉は苦笑いを浮かべた。

 「気持ちは分かるよ。私も最初は疑っていたからね。でも魂は存在する。しかしそれを証明する方法は自覚する以外にない」

 「種明かしをする気は無いという事か?」

 胡散臭い話で誤魔化そうとしているとベルナルドは思ったのだろう。アルス少尉はそれを首を左右に振って否定した。

 「違う。分かって欲しかっただけだ。この世には人知では理解出来無い力がある事を」

 アルス少尉は、反発するように反論しようとしたベルナルドの口を右手を上げて止めると、その手の平を物を受け取るように上に向けた。

 「論より証拠だよ、ベルナルド。私の手に触れてみてくれ」

 ベルナルドの、手品の種を暴こうとする疑わし気な視線がアルス少尉の差し出した右の手の平に向いた。

 「そんなに疑わしいのなら、あれこれと思い悩んでいないで実際に触って確かめてみたらどうだ?その方が理解が早いだろ?」

 「俺はそういう安易な考えにもとづくやり方は嫌いだ」

 「ならいつになったら実際に触ってみるんだ?君が納得するまで待つほど私も暇じゃないんだぞ」

 「何をするつもりだ?」

 「君に何をするつもりのかという事なら、私が君に何かをすることは無い。逆に君が私に何かをすることも出来ないけどね」

 「そういう意味ありげな言い回しは嫌いだ。俺が聞きたかった事とも違う。俺が聞きたかったのは、お前がこの後何をするつもりなのかだ」

 「それは君の協力が得られるかどうかで変わるが……正直言って、今更何をしても無駄なような気がする。全くの無駄という訳ではないだろうが、君と私の二人で出来る事なんて高が知れているだろ?だけど何もやらないよりはましだ。だから……驚きだろ?」

 問いかける事でアルス少尉の気を逸らして、その隙を突いてアルス少尉の右手に触れようとしたベルナルドは、触れられそうで触れられないアルス少尉の右手に畏怖に似た驚きの表情を浮かべた。

 「……どういうことだ。何故さわることが出来ない?」

 いくら力を込めても縮まらない、自身の手とアルス少尉の右手との間に生じている僅かな空間を、ベルナルドは我が目を疑う様に凝視ぎょうしして言った。

 「これで私の話の全てを証明することは出来ないが、耳を傾ける気にはなっただろ?」

 アルス少尉の右手を凝視していたベルナルドは、客を前にした商人のような愛想笑いを浮かべるアルス少尉を威圧するようにぎろりと睨みつけた。

 「君が言いたいことは分かるが、この力は言葉で説明出来るものではない」

 見る事も感じることも出来ない得体の知れない力に覆われた、触れることの出来ないアルス少尉の右手を、ベルナルドは再度凝視した。

 「革命の大義に正義が有るのか無いのか。資本家ブルジョワが革命の援助をするのは民衆を救うためなのか自分達が貴族ノーブルに成り代わるためなのか。その答えは何処にある?それが正しいと誰が決める?」

 アルス少尉は、かかげていた右手をだらりと床に下ろして自嘲するような笑みを浮かべた。

 「愚者は真実を語り、賢者は事実を語る。その違いを理解する事は難しい事ではないが、何が真実で何が事実かを見抜くのは難しい」

 思い出にふける様に何も無い空間を見つめていたアルス少尉は、視線を上げてベルナルドと視線を合わせた。

 「力を貸してくれ、ベルナルド。私は一人でも多くの人を助けたい」

 

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