第22話

 ——なぜ人は人を慈しみ助け合うことが出来ないのか。なぜ人は奪い争うのか。なぜ人は神の定めた戒めを破り悪徳を有難ありがたみ持てはやすのか。

 聖堂でひざまずいて祈りを捧げる老修道士スチュワートの眉間に皺が寄った。

 ——冒涜である。我ら人を慈悲深く見守って下さっている神に対する冒涜である。その戒めを守り誠実に生きる人々に対する冒涜である。

 深く垂れていた顔を上げたスチュワートは、聖堂の最奥の高い位置に鎮座している小さな聖父像を見上げた。

 ——守らねばならぬ。断ち切らねばならぬ。

 迷いのない穏やかな顔で、スチュワートは床に寝かせていた杖を手に取り床に突き立てて立ち上がった。


   ♦♦♦♦


 所々剥がれている壁の漆喰。道に落ちている腐った残飯と人と家畜の糞尿。生きているのか死んでいるのか分からない壁にもたれかかったたままピクリとも動かない吐き気を催す臭いを放つ痩せ細った浮浪者。この世の全てに絶望したような眼で道を行き交う日雇い労働者たち。

 「へっ、やっぱり俺が思った通り何もねえじゃねえか」

 シナー・ハウスを出てからずっと走り続けていたクリスは、顔に浮かんでいる汗をシャツの袖で拭った。

 「正しかったのは俺だったみたいだな、バルジ」

 再度辺りを見渡して怪しい人間が居ない事を確認したクリスは、勝ち誇った顔でニヤリと笑った。

 「全く情けねえ野郎だぜ。あの程度でビビりやがってよ。へへっ」

 クリスは軽く跳ねると、貧民街に唯一ある聖父教会を目指して軽快な足取りで走り出した。


 建築当時は白かったという、長い年月風雨に晒されてボロボロになった教会の赤さび色のレンガの壁を目にしたクリスは、まだ何も起きていない様子に一安心して駆けていた足を緩めた。

 「俺が一番か?」

 一緒にシナー・ハウスから飛び出した仲間の姿をクリスは何度も周囲を見渡して確認した。

 「……先に行くか」

 もう一人の仲間の到着を待って一緒に教会へ行こうと思ったクリスだったが、あのイカれ野郎、カルセルと呼ばれていた男の存在が少しでも早くスチュワートに知らせなければとクリスの気をはやらせた。

 

 教会の正面玄関には鉄で補強された木製の両扉があり、日中は誰でも気兼ねなく入れるように両扉の片側が開かれている。その開いている両扉から聞こえて来た複数人の話し声、貧民街で幅を利かせているギャングの大物の葬儀が行われている時のような大勢の話し声を耳にしたクリスは、やばい!と教会の正面玄関に向けようとしていた足を背後を警戒して振り返る動きで誤魔化し、怪しい奴がつけていないか確認するように一二歩と後ろ歩きをした後、もう一度半回転して教会の前を通り過ぎた。

 ——くっそぉ、誰だよ、人の邪魔をする様に死にやがった間抜けは。

 内心の腹立ちを表す様な苦い表情で教会の角を曲がったクリスは、教会の側壁沿いに歩いて教会の裏側の通りをちらりとのぞいた。

 ——あ?どういうことだ?

 いつものギャングの葬式なら教会の裏には数人のガラの悪い連中がたむろしているはずだった。しかしクリスが覗いた教会の裏は人気が無くひっそりとしていた。

 ——ギャングの葬式じゃないのか?

 教会の裏通りを横断したクリスは、教会の周囲を遠巻きに観察して回り、教会の正面玄関が見える向かいの通りにある漆喰が剥がれて裏地の赤レンガ剥き出しになっている集合住宅の壁にもたれ掛かった。

 「どうしたんだ?」

 クリスと一緒にシナー・ハウスから飛び出したもう一人の浮浪児がクリスの隣に同じ様に壁にもたれ掛かって言った。

 「お前の事だから先に中に入っていると思ってたけど、俺を待っていたのか?」

 「入ろうと思ったけど中に人が一杯いるみたいだったから止めたんだよ」

 「葬式でもやってんのか?」

 「俺もそう思って周りをぐるっと回ったんだけど、どうも葬式じゃねえみたいなんだよな」

 「……なら俺が見てくるよ。ここでじっとしてたって仕方ねえしな」

 「俺も行くよ」

 「いやお前はここで待ってろ。二人で行ったら何か遭った時に助けが呼べねえだろ?」

 「ばかやろう。助けを呼ぶ前に殺されたらどうするんだよ。俺が行くよ。俺が一番逃げ足が速いんだからよ」

 「迂闊なのも一番だけどな」

 何だと言った感じでクリスは仲間を睨みつけた。

 「バルジを置いて来ただろ?」

 仲間に責めるような視線を向けられたクリスは、後ろめたい気持ちがあるらしく目を泳がせた。

 「そりゃ俺だってあいつの慎重すぎる所には苛立つこともあるけどさ。でもそのおかげで助かった事も多いだろ?」

 「…………」

 「お前は気付いてないだろうけど、俺達が出てから少しして銃声がしたんだよ、シナー・ハウスで。一発目が聞こえた後、少しして二発目が聞こえた」

 「ッ?!」

 クリスは顔を強張らせ目を見開いた。

 「様子を見に戻ったら、あの野郎がシナー・ハウスから出てくる所だった」

 親しさの欠片も無い眼がクリスを見据える。

 「俺はあの野郎が出て行った後もシナー・ハウスの様子をうかがった。バルジの奴が俺達の後を追って出て来るんじゃねえかと思ってよ……でもあいつは出て来なかった。立ち去ったあの野郎の様子を窺いに他の奴らが外に出て来ても、あいつは顔すら出さなかった……」

 「……死んだのか?」

 「知らねえよ。知りたくもねえ……だけど……約束だからな」

 もたれていた壁から反動を使って離れた仲間の浮浪児が、その勢いのまま教会に向かって歩き出した。

 「俺が様子を見て来るから、お前は俺が合図するまでそこでじっとしてろ」

 振り返ることなく離れて行く仲間の後ろ姿を、一番の宝物を失くしてしまったような呆然とした顔でクリスは見送った。

 ——死んだ、のか……?嘘だろ?冗談だろ?本当か?本当に……

 「クリス。こんにちは」

 自分を呼ぶ声に反射的に顔を向けたクリスは、教会に居ると思っていたスチュワートが自分のすぐ側に立っている事に「えっ?」と呆気にとられた顔を浮かべた。

 「ここで二人と待ち合わせをしているんですか?」

 「あ、いや、その……いつもと教会の様子が違うから、様子を見に、フィッシャーが」とクリスの視線を追ったスチュワートは、ああ、と口元に納得の笑みを浮かべて頷いた。

 「それで君はここで二人が戻って来るのを待っていたんですね」

 ——二人……

 スチュワートの二人という言葉に、クリスは血の気が引く様な恐怖を覚えた。

 ——バルジ……バルジ……

 「どうしたんですか?ひどく怯えているように見えますが……何か遭ったんですか?」

 普段のクリスなら弱音を吐くなんて女々しい真似は、死んでもしなかっただろう。でもクリスはスチュワートにシナー・ハウスで起きた事とその結果バルジが殺されてしまったかもしれないと声を震わせながら語った。

 「……計画を早めた方が良さそうですね」

 バルジの身を案じるような思いやりも悲しみも無い、別人のようなスチュワートの冷めた声に、クリスはナイフが体に突き刺さった様な死を予感させる驚きと恐れを抱いた。

 「何処へ行くんですか?」

 逃げようと思って動いたわけではなく、突き出されたナイフを避けるように反射的にスチュワートから後退あとずさろうとしたクリスの肩を、スチュワートはカマキリが獲物を捕食するように力強く抱き寄せた。

 「お腹は空いていませんか?君達のために沢山たくさんの食事を用意してあるんですよ」

 クリスの本能が「逃げろ!」と繰り返し叫ぶ。しかしクリスの理性が「逃げるな!」と今すぐ逃げ出したい思いに駆られているクリスを必死になって引き留める。

 ——逃げるべきなのか?スチュワートさんから?どうして?嫌な予感がする。嫌な予感て何だ?何でそんな予感がするんだ?スチュワートさんだぞ?いつも俺達を助けてくれるスチュワートさんだぞ?だから何も悪い事は起きないって言うのか?じゃあそれで逃げて勘違いだったらどうする?それで下働きの仕事が無くなったらどうする?いつ何処で誰に殺されるか分からない生活に戻りたいのか?

 コツコツと音を立てていたスチュワートの杖の音が止んだ。

 「おかえりなさい、スチュワートさん。その子はどうしたんですか?」

 聞き覚えの無い若い男の声に、クリスはいつの間にかうつむいていた顔を上げた。

 「フィッシャーという子が来ていませんか?この子はその子の友人なんですよ」

 「ああ、つい先ほど来られた子のご友人ですか」

 クリスが初めて見る若い男は、そう言ってクリスの顔を品定めする様に眺め、次いでその視線を首から下へと動かし、下卑た笑みを口の端に僅かに浮かべた。

 「私が案内いたしましょうか?」

 「そうして頂ければ助かります。この脚では何処へ行くにも時間が掛かりますから」

 ——違う。違う!違う!何もかもが違う!

 捕らえた鶏を逃がさないようにスチュワートの腕の中にいるクリスに手を伸ばそうとした若い男の手をしゃがんで避けたクリスは、体を教会の出入り口に向かって半回転して自身の肩を掴むスチュワートの手を外すと、床を這うような低い姿勢で教会の外に向かって駆け出した。

 しかし開いていた教会の両開きの扉がクリスの目の前で閉まった。

 「うああああー!来るなあー!来るなああー!」

 クリスは閉まった両開きの扉を背にして、近寄ろうとする若い男やスチュワートに向かって隠し持っていた小さなナイフを振り回した。


  ♦♦♦♦ 


 

 ——あいつが死にかけていた俺を助けたのは、スリがうまくいって懐に余裕があるからお人好しの真似事でもしてみようかと気まぐれを起こしたから。バルジを仲間に入れた時もそうだった。何となく。何となくで誰にも相手にされていなかったバルジを仲間に引き入れた。

 『フィッシャー。俺はマジであいつが嫌いだけど、あいつを助けるためなら死んでも構わないと思ってる』

 俺もバルジと同じ気持ちだった。普段のあいつは、偉そうで考えなしですぐに人のせいにするムカつく野郎だが、それでもあいつは俺達を助けてくれた。気まぐれだろうが何となくだろうが、あいつだけが俺達を助けてくれた。

 「君達の境遇に同情はするけど、悪の芽は摘まなければならないんだ。き人たちが安心して暮らせるように」

 ——誰も引き取る人がいないなんて可哀そうにと俺を憐れんだ人間も、善人で名が通っている人間も、信心深く敬虔な信徒だと評判の人間も、恵まれない子供達のために孤児院を立てようと寄付を募る人間も、誰も俺達を助けようとしなかった!

 「うああああー!来るなああー!来るなああー!」

 「何と醜い悪あがきだ。やはり君達は摘み取らなければならない存在なんだ。私達の判断に間違いは無かったんだ」

 ——クリス。お前だけだ。お前だけが俺達を助けてくれた。

 羽交い絞めにされてじわじわと苦しめるように首を絞められていたフィッシャーは、ふっと全身の力を抜いた。

 「落ちたか?」

 気を失ったかどうかを確認しようと僅かに緩んだ拘束の隙を突いてその拘束から左腕を抜いたフィッシャーは、スリでつちかった的確で素早い動きで隠し持っていたナイフを抜いて背後から自分の手足を羽交い絞めにしている男の左腹にナイフを突き刺し掻き回した。

 「ああああー!」

 男の甲高い絶叫と共に拘束を解かれたフィッシャーは、飛び跳ねる様に起き上がり叫んだ。

 「俺を舐めるなよ、クソ野郎が!」 

 ——逃げろ、クリス!逃げろ!

 仲間にだけ伝わる合図をクリスに送ったフィッシャーは、スチュワートたちの気を更に惹くために、近くにあった長い椅子を大きな音が出るように荒々しく蹴飛ばした。

 ——いいぞ。さすがはクリスだ。 

 スチュワートたちの包囲を隙を突いてすり抜けたクリスに向かってフィッシャーはやるじゃねえかとニヤリと笑った。

 しかしそれで危機的な状況を脱したわけではない。クリスを包囲していたのは杖を突いている老人のスチュワートと若い男の二人だけで、教会の中にはまだ十人以上の人間が居て、クリスとフィッシャーを捕らえようと動き出している。

 「火をつけろ!」

 どうして、どうやって?そんなことをしてもいいのか?なんて考えはクリスの頭には浮かばない。信頼している仲間が火をつけろというのだから火を着けるだけだ。

 その信頼している仲間のフィッシャーも考えがあって言った訳ではなく、パッと思いついた考えを口にしただけだ。

 そして運よくなのかどうかは分からないが、普段は一本の蝋燭が灯されているだけの祭壇の上には、隙間なく火の点いた蠟燭が立てられていた。

 「止めろ!」

 誰かが叫んだ声に、教会の中に居た大半がクリスを捕らえようと動き出したが、いつ誰に捕まえられるか分からない人混みでスリを続けて来たクリスを捕らえるのは逃げ出した猫を捕まえるくらいに難しい。

 そしてフィッシャーもクリスほどではないが逃げる事に長けている。

 教会に並べられている長椅子の上を軽快に飛び回り、彼等を捕らえようとする大人達を翻弄した二人は、互いの視線を交わして意思の疎通を図ると、祭壇へ向かおうとしていた足をそろって反転させ、全力で閉まっている正面玄関の両開きの扉に向かって駆け出した。

 「クリス!」

 フィッシャーが声を掛けると、フィッシャーの前を行くクリスが「任せろ!」と応え、両開きの扉を内側に引いて開けた。そこへフィッシャーはナイフを腰だめに構え飛び込むように突っ込んだ。

 ——いると思ったぜ!

 万が一に備えて待機していたのだろう扉の外に待機していた二人の男達は、扉が開いた瞬間砲弾のように飛び込んできたフィッシャーに驚きを露わにした。

 「フィッシャー!」

 フィッシャーの後に続いて教会の外に出たクリスは、待ち構えていた二人の内の一人と一緒に倒れて揉み合っているフィッシャーの姿を見て今助ける!という意味を含んだ声を上げた。

 「駄目だ!逃げろ!お前だけでも逃げろ!」

 

 


 

 

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