第4話

 ——この国はもうどうしようもない。

 カリーナ・ブライト・スペンサーは、胸の内から止めどなく湧き上がる呆れと失望、侮蔑に歪んだ口元を扇子で隠して、贅の限りを尽くした華やかな服装に身を包んだ紳士淑女が音楽に合わせてくるくると回るダンスホールを冷ややかな視線で眺めていた。

 「このホールで一番の美女を見逃すとは、今宵の紳士たちはあまり目が良くないらしい」

 唐突に現れた男の体で視界を塞がれたカリーナは、不快気に眉を潜めて男の顔を見上げた。

 「申し訳ありません。不躾でしたか?」

 見上げた男は思いのほか若く、長髪が一般的なスペンサー王国では珍しい、側頭部が短く刈りこまれた髪型をしていた。

 カリーナは不快気な顔をした事を誤魔化すように、恥ずかしがるように微笑んだ。

 「いいえ、不躾なことなど何一つとして御座いませんわ、クレインの方。スペンサー王国へようこそ。歓迎致しますわ」

 「ありがとうございます、誰よりもお美しいカリーナ王女殿下。おれ、私はアルベルト・グレイ・スミス。クレイン陛下から伯爵の爵位を賜っております」

カリーナは大袈裟なくらいに目を見開いて驚いた。

 アルベルト・グレイ・スミスといえば、天才銃器設計者として国内外に名を響かせている軍事関係者でなくてもその名を知っているほどに有名な男だ。

 「まあ、お若いとは聞いておりましたが、わたくしとさほど歳の変わらないお方だとは思いもしておりませんでしたわ。それに、とても美男子でいらっしゃる。御国ではご令嬢たちが一時も放っては置かないのではないですか?」

 「ええまぁ、私の顔云々うんぬんはあまり関係ないでしょうけど」

 銃に関する数多くの特許を持っているアルベルトは、その特許料だけでもかなりの資産を稼いでおり、自身が運営している銃器製造会社の売り上げはそれ以上にあった。

 ——今我が国に必要なのは、

 「——しかしそのおかげでダンスの腕は随分と上がりましたよ。よろしければ一曲如何ですか?笑い話の一つにはなるかもしれませんよ」

 カリーナは悠然ゆうぜんと微笑んだ。

 「わたくし、人を笑い者にして楽しむ趣味はございませんの。笑い者になられたいのなら他の方をお誘いになって」

 ——この国に必要なのは、臆面もなく我が国の民の血で稼ごうとする唾棄だきすべき死の商人では無い。

 「お待ちください」

 立ち去ろうとしたカリーナの行く手を、アルベルトの腕が塞いだ。

 ——無粋な。

 誘いを断られたら素直に引き下がるのが舞踏会における至極当然の礼儀。それはこの国だけの礼儀ではなく、クレイン王国においても同様。

 ——没落寸前の国の女と思うて、わたくしを軽く見ましたか?

 カリーナは怒りを込めた眼でアルベルトを睨み上げた。

 「非礼は重々承知しておりますが、もう一度私に話をする機会を下さい。少しで構いません。大事な話なんです」

 「わたくし、力づくで女を従わせようとする殿方と交わす言葉は一言だって持っておりませんの」

 カリーナは口元を隠していた扇子をぱちりと閉じると、それで何の躊躇も遠慮も無く自身の行く手を塞ぐアルベルトの腕をしたたかに打ち払った。

 「お退きなさい、無礼者。邪魔ですわ」

 

 ♦♦♦♦


 第三近衛連隊が駐在しているベルバラード砦は、世間では王都近郊にあるという話になっているが、その王都近郊にあるという丘の上に建つベルバラード砦から見える景色は、何処までも続く農地と王都へと続く街道沿いに建つ小さな宿場町だけで、王都らしきものはどれだけ目を凝らそうともその片鱗すら見えない。

 馬に乗って行けば昼下がりには王都へ着くらしいから、近郊と言えば近郊なのかもしれないけど。

 「観光する時間とかってあるのかな?」

 「ついたその日の夕方には顔合わせの食事会があるんだぞ。そんな暇ある訳ねえだろ。翌朝だって出発の準備で忙しいんだからよ」

 「まあでも王都の景色を眺めるくらいのことは出来るよ。王都のど真ん中を走る大通りを通って王宮へ向かうからね」

 「ふーん……食事会ってさ、王族の人が参加することもあるのかなぁ?」

 「僕は見た事ないけど、まれに出席するらしいよ。王族と親しい人とかが公務で国外へ出かける時とか、王族の誰かが外交とか外遊に出る時とかさ」

 「へ~。今回はどうかな?誰か出席するかな?」

 「おい、もういい加減寝ろよ。明日から一週間ぶっ続けの護衛訓練なんだぞ」

 「……スペンサー王国ってどんな所かな?」

 「いい加減にしろよ、ウィル。これ以上喋ったら部屋から放り出すぞ」

 

 僕は初めての護衛任務にすごくワクワクしていた。だけどそんな僕の浮ついた気持ちは、今までで一番過酷な護衛訓練で跡形もなく消え去った。

 「移動しますよ、ウィル一等兵」

 星明りも射さない真っ暗闇の森に響いたベテランの衛生兵、ハリス曹長の囁き声に僕の眠りかけていた意識が僅かに反応する。

 「移動……?」

 ついさっき休憩に入って水を少し飲んで……あぁ、そうだ。足首をねん挫した……誰だっけ?まぁとにかくその人の手当てをして、それから……移動かぁ。

 移動中の護衛訓練から始まった訓練はその最終段階、敵地からの脱出を想定した訓練へと移行していた。

 「気をしっかり持ちなさい。今回の任務では実際に起こりうる事態なんですよ。この程度で根を上げていてどうするのですか。死にますよ」

 訓練の初めに告げられたスペンサー王国の内情は、僕の浮ついた気持ちを静めるのに十分な深刻さがあった。

 ——現在のスペンサー王国はいつ反乱が起きてもおかしくない危機的状況にある。


 今任務こんにんむの護衛隊長を務める第一中隊長ホッチス大尉の話によると、スペンサー王国で起きている緊迫した政情不安は二つの要因が大きな影響を与えているそうだ。

 一つは、腐敗した貴族達による富と権力の独占。それに伴う民の貧困化と人心の荒廃。ホッチス大尉が言うには、スペンサー王国では多数の護衛に守られていないと貴族は屋敷から出ることも出来ないほどに治安が悪化しているらしい。

 もう一つは、新しい農法で飛躍的に向上した食料生産能力と蒸気機関などの画期的な新技術の発明で登場した、非常に安価な布織物と石炭や鉄などの鉱物。それらは貴族よりも大きな影響力と資金力を持つ大規模農園主と資産家を生んだ。

 ——他人事ではないぞ。我が国で腐敗した貴族による富と権力の独占は起きていないが、影響力を持った民の台頭は起きているからな。

 スペンサー王国では、僕の実家の様な小さな領地を持つ領主が、農園主や資産家の言いなりになっているらしい。

 おそらくは、婚姻による家の乗っ取りとかも起きているんじゃないだろうか。

 ——事態は非常に切迫している。場合によっては、スペンサー王家が我が国に亡命する事もあるだろう。

 現スペンサー王の妃はクレイン王家から嫁いだアデリーナ様だから、もしスペンサー王家が亡命するとしたらクレイン王国になる可能性が高い。


 「たった一つの落し物が部隊の全滅に繋がりかねませんからね。持ち物の確認は念入りにしてください。いいですか?無くなっている物は有りませんね?」

 ハリス曹長に、くどいくらいに持ち物の確認をさせられた僕は、足元も見えない暗がりであることをいいことに、思いっ切りうんざりしたしかめっ面でハリス曹長に何度も大丈夫ですと頷いた。

 「よろしい。それでは負傷者を担いで下さい。行きますよ」

 僕とハリス曹長は、負傷者運搬訓練で嫌というほど運んだ砂袋人形を肩に担ぎ上げて歩き出す。

 目に映るのは陰影も見えない闇。頼りになるのは前を歩く人の足音と前に突き出した片腕。

 こんな事をするのは正気を失った人間か、僕の様に無謀な指揮官の命令に従うしかない哀れな一兵卒くらいだろう。

 これでもし道を間違っていたら、その時は僕の汗をたっぷりと吸ったこの忌々しい砂袋人形の全身を切り裂いてその中身をそこら中にぶちまけてやる。

 そんな砂袋人形ごときに異様な憎しみを募らせる僕を憐れんだのか、無残な姿を晒すかもしれない砂人形を憐れんだのかは分からないが、僕達は痛いくらいにまぶしい朝日を浴びながら迷うことなく最終目標着点に到着した。

 ——方面軍への転属って出来るのかなぁ?

 訓練を終えた僕の胸に残っていたのは、どうすればこの部隊から逃げ出せるんだろうという思いだけで、初めての任務で浮ついていた僕の気持ちは綺麗さっぱり微塵も残っていなかった。

 

 ♦♦♦♦


 砂埃がつかないように布袋に入れていた、黒い三角帽子に乗馬に適した立て襟の赤いフロックコート、真っ白い乗馬ズボンと前日に磨き上げた膝まである黒の乗馬ブーツに着替えた僕は、汚れがつかないように布で包んでいた真鍮製のガードが付いたサーベルを腰に巻いた剣帯へ差し込んだ。

 「騎乗!」

 第三近衛連隊第一中隊長ホッチス大尉の号令で僕達は一斉いっせいに自身の馬へと飛び乗った。

 「我が隊はこれより王宮へ向かう!第一の前で第三近衛連隊の名誉を汚すような無様は晒すなよ!いいな!」

 「「ウオイ!」」

 王都郊外にある厩舎で徹底的に毛繕いをしたエルザさんの体は、昼下がりの陽の光を浴びて宝石のように輝いていた。

 「中隊!前へ!進めッ!」

 スペンサー王国へ向かうのは、第三近衛連隊第一中隊所属の騎兵63騎、歩兵40名の計103名。

 今は馬に乗っているけど、歩兵の一人である僕は、王宮に付いたらそこから出発する馬車に護衛として乗車する。

 「戻って来るまで忘れないで下さいね、エルザさん」

 エルザさんは今年で8歳。おそらく来年には軍馬を引退する事になるだろう。

 エルザさんとはまだ二年半の付き合いしかないが、それでも離れ難いほどの愛着を抱くのには十分な時間だった。

 「帰ってきたら長期休暇が貰えるそうですから、泊りで何処か遠出に行きましょう」

 僕達は整然と隊列を組んで王都の中心街へと進んでいく。大通りには信じられないほどの数の馬車が行き交っており、大通りの両端にはアリの群れのように人々がひしめき合っていた。

 「キョロキョロするな。田舎者だと指さされて笑い者にされるぞ。あれこれと眺めたいなら、しっかりと前を向いて視線だけを動かせ」

 右隣のドアン伍長に注意と助言を貰った僕は、顔を前に固定したまま視線を右へ左へと動かして王都の街並みを楽しむ。

 部隊は王都の中心にある十字路を左に曲がり、その先にある王宮の姿が僕の視界にうつった。

 まだ距離があるから全容は見えない。それでもその威容は窺い知れた。 

 正門扉の真ん中を中心に左右対称に広がる規則的で荘厳な白亜の宮殿。その手前には貴族街があり、広い敷地を持つ屋敷が通りの左右に建ち並ぶ。

 僕達は数人の警備兵が立つ貴族街へと通じる川に架かる石橋を渡り、王都の通りには無かった石畳の上をパッカパッカと小気味よい音を立てながら進んでいく。

 「中隊!その場にいいー!止まれッ!」

 ホッチス大尉の号令に合わせて僕達はピタリと馬の足を揃えて止めた。

 「我らは陛下の命により馳せ参じた第三近衛連隊第一中隊!私は中隊長のホッチス大尉である!開門されよ!」

 ホッチス大尉がその不思議と良く通るドスの効いた声を上げると、正門の守衛隊長とおぼしき人が、守衛所から慌てた様子で飛び出してきた。

 「チッ、相変わらず第一はたるんでやがる」

 誰かが小声で言った侮蔑は、慌てて出てきた腹の出た守衛隊長を見て言ったのだろう。

 ——話には聞いていたけど、皆が言っていたことは誇張でも虚偽でもなかったんだなぁ。

 第一近衛連隊に所属しているのは、王家と親しい上級貴族や軍の要職に就いている貴族達の息子達。

 ——軍のどの部隊よりも実戦から遠く、軍のどの部隊よりも栄誉と権威がある部隊。それが第一近衛連隊、か……転属できないかな?なんかすごく楽そうな部隊みたいだし、うちと違って都会にあるし……無理かなぁ?

 「中隊!前へ!進め!」

 僕と同じ小太りの一兵卒が四人がかりで左右に開けた鉄柵門を僕達は整然と通り過ぎ、王宮と同様に木々が左右対称に植樹された前庭を道に沿って左に進み、そこから少し進んだ所にある分岐、王宮の正面扉へ右へ弧を描く道ではなく、前庭からの視線を遮る壁のように生えている生垣の裏側を通る道を辿って、部隊は王宮の側面を通り過ぎた人目に付かない場所にある厩舎の前で止まった。

 「おい、ウィル。勝手に一人でうろうろするなよ」

 僕と並んで行進していたドアン伍長が、エルザさんから降りた僕に馬の背越しに言った。

 「いつ何時何処でお偉いさんに難癖をつけらるか分かったもんじゃねえからよ、ここは」

 「安心してください、ドアン伍長。一人で王宮をうろつくなんて、そんな恐ろしいことは頼まれたってやりませんから」

 くらを外して厩舎の中でそれぞれの馬の世話を終えた僕達は、顔合わせの夕食会まで外来用の兵舎で一息つくことになった。

 

 「ウィル一等兵は居るか?」

 顔合わせの夕食会に着ていく一張羅の儀礼用の軍服に付いた砂埃を落として、年季の入った二段ベッドを椅子代わりにロニーやジョシュアと談笑していた僕を、中隊長の従卒をしているオリバー上等兵が呼んだ。

 「あ、はい。居ます」

 余所者よそものの下っ端を押し込めるようにずらりと並んだ、部屋を埋め尽くす二段ベッドの中でも分かるように、僕は腰かけていた二段ベッドから立ち上がってオリバー上等兵に向かって手を上げた。

 「中隊長が呼んでいる。服装はそのままでいいからついて来い」

 「はい、今行きます」

 ——何だろう?心当たりは無いけど、何か中隊長の気分を害する様なことをしたかな?

 「おい、オリバー。ウィルに何の用だ。ウィルが何かしたのか?」

 背後から聞こえたロニーの気安い問いかけに、オリバー上等兵は返答をはぐらかす様な顔で肩を竦めた。

 「いいや、何も。ただちょっと、人手が必要になっただけだ」

 そのままの意味なら、一番下っ端の僕に中隊長は荷運びや清掃などの雑用を命じようとしているのだろうと受け取れるが、オリバー上等兵の僕を憐れむような眼は、中隊長がそんな事で僕を呼んでいるのではない事を窺わせた。

 「本当は何で僕が呼ばれたんです?」

 オリバー上等兵の後について豚小屋のような部屋から廊下に出た僕は、オリバー上等兵に小声で尋ねた。

 「行けば分かるが、やんごとなき方とそのご学友が……」

 その先は何と言えばいいのかと悩むようにオリバー上等兵は首を右へ左へと傾ける。

 「やんごとなき方……?」

 ——そんなの……王宮でやんごとなき方と言ったら、王族しかいないじゃないか!

 「あの、これって……どうしても僕が行かないといけないですか?」

 「残念な事にな……ほんと、お前には心の底から同情するよ」

 「噓でしょ……?何で僕なんですか……僕は中隊で一番の下っ端ですよ?」

 「一番下っ端だからだよ」

 そう言ってオリバー上等兵は僕へ振り返った。

 「外に出たら二度とその情けない面を晒すなよ。中隊どころか連隊の恥になるからな」

 僕はぐるりと目を回して天井を見上げた。

 ——最悪だ。

 

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