第34話

 老いを感じさせる点々と浮かんでいた黒い染みの無いしなやかな肌。痛みもコリもなく滑らかに動く関節。しゃがむのも億劫おっくうなほどに衰えていた体にになぎる、意味もなく駆け出したくなる様な活力。

 「おお、我らが父よ!!」

 スラム街にある聖父教会で恵まれない浮浪児達の手助けをしている老修道士のスチュワートは、床に寝転がる少女の胸から透明な刀身を持つナイフを引き抜いて歓喜の声を上げた。

 「ご満足頂けましたか?」

 若返りの術の見返りとしてエーヴィス大司教から受け取った子供達を運ぶように自身の使用人に命じていたアルガン伯爵が、ナルシストのように鏡に映った自分の顔に見とれているエーヴィス大司教の元に戻って来て言った。

 「ええ、もちろんです。まさかこれほどまでに若返られるとは……本当に、言葉では言い表せないほどに感動しております」

 「猊下にそう言って頂けると、長年の苦労が報われます。この技の研究には随分と苦慮しましたから」

 「それはそうでしょう。数多の賢人が挑んでも実現できなかったのですから」

 「しかしそれは誰にでも教えられる方法ではありません」

 「それは……確かに。誰にでも言えるような方法では、ないですね」

 腕に抱いていた赤ん坊の事を思い出したのだろう。エーヴィス大司教の顔が苦そうに歪んだ。

 「なので、次にもし私の力を借りたい時は、こちらへご連絡ください」

 アルガン伯爵はそう言ってエーヴィス大司教に封をした小さな便箋を渡すと、一歩下がって小さく頭を下げた。

 「それでは、私は御前を失礼させて頂きます」

 「帰られるのですか?!」

 アルガン伯爵の思いもよらない唐突な別れの言葉に、エーヴィス大司教は慌てて椅子から立ち上がった。

 「今からお帰りになると言うのですか?」

 「私もゆっくりとしたいのですが、反乱軍の制圧に乗り出した憲兵隊が近くまで来ているそうですからね。聖堂内に入ってきた憲兵に捕らえた子供達が見つかる可能性もありますし、見つからなかったとしても、いつ自由に動けるようになるか分かりませんし、それなら今のうちに出発した方が良いでしょう?その方がお互いに面倒な思いをしなくて済みますから」

 「面倒だなんて思いませんよ。ですが、いつ自由に動けるようになるか分からないとアルガン卿が懸念される気持ちは分かります」

 「足早に立ち去る非礼をお詫びいたします」

 「いえいえそんな、私の方こそお詫びしなければなりません。アルガン卿から多大な恩恵を受けておきながら、それに見合ったおもてなしを何一つとしていないのですから」

 「いやいや、お気になさらず。見返りは猊下から十分に頂いております」

 「でしたら、せめて街の外まで護衛をさせて下さい。街には反乱者や暴徒が蔓延っておりますから」

 「お心遣いに感謝いたします」

 エーヴィス卿はこの日のために用意していた護衛部隊の一部をアルガン伯爵の護衛につけその出立を見送ると、配下の狂信者たちを招集させた。

 「兄弟たちよ。我らは今夜、偶然でもまやかしでもない本物の奇跡を得た。それは何のためだ?何故我らは奇跡を得られた?何故我らが父は我らをいやされた?あわみか?怪我と老いに苦しむ我らを憐れまれたのか?我らは憐れまれるような弱くみじめな存在なのか?誰よりも教えに忠実に誠実に生きてきた我らが、怠惰で愚かだと言うのか?そうだ。我らは誰よりも高潔で勤勉な人間だ。決して憐れまれるような人間ではない。ではこの奇跡は何だ?我らが父は、何故我らにこのような奇跡をお与えになられた?兄弟たちよ。これは啓示である。この乱れた世を正せと言う、我らが父の使命である。兄弟たちよ!今こそ示しらすのだ!我らが父の教えが絶対であるということを!」

 「ご照覧あれ!」「「ご照覧あれ!」」「我らが父よ」「「我らが父よ!」」

 エーヴィス大司教に焚き付けられた狂信者たちは、喜び勇んで市外へと駆け出した。

 「我らが父の教えに背く者に粛清を!」

 そう叫んだ狂信者たちの半数が富裕者の多くが居住する五番街と六番街、比較的裕福な中産階級が住む七番街へと向かい、立ち並ぶアパートの中へ火を放った。しかしその大半は、王城から七番街の入り口付近までを制圧していた憲兵隊や付近の住民によって消し止められ、狂信者たちの多くが捕縛され射殺された。

 「これが我らが父のご意志だ!」

 極一部で消し止められなかった火の手が勢いを増すと、路地を挟んだ反対側のアパートの壁を炙り、その内側に張られていた壁紙に火を点ける。住民たちは必死になって火の点いた壁に桶に汲んだ水を掛け続けた。だが、炎に炙られているアパートの外壁は一部ではなく、路地に面した外壁全てなのだ。いくら頑張った所で食い止められるものではない。

 「もうこれ以上は無理だ!逃げるぞ!」「駄目だ!煙で前が見えない!」

 勢いを得た炎は、着実にその勢力を広げ、消し止められるまでにどれほどの建物と人々を焼くだろう。

 そしてもう半数。五、六、七番街と接する広場に建つ大聖堂から飛び出した狂信者たちは貧民街を目指していた。

 「奴らこそ諸悪の根源!」「跡形もなく焼き尽くせ!」

 物騒なことを口走りながら意気揚々と駆けていく修道士の姿を見た反乱軍や暴徒たちは、変なものを見た時のような顔でその集団が通り過ぎるのを見送り、何だあいつらは?と顔を見合わせた。

 「合図を送りなさい」

 エーヴィス大司教から指示を受けた修道士は、大聖堂の尖塔にある四方を眺める鐘楼へ上り、煌々と燃える松明を何度も大きく左右に振った。

 「民衆による民衆のための政治ですか」

 エーヴィス大司教は嘲笑った。

 「本気で信じているのなら、民衆と言うのは、本当に度し難いほどに愚かですね」

 エーヴィス大司教が指示して送った合図を受け取ったのは、民衆による民衆のための政治を標榜する『民衆の党』に多額の報酬を餌にそそのかされたスペンサー王国の軍人や元軍人たち。

 「しかし、だからと言って、この国を思って戦っている反乱軍や無辜の民を裏切るような連中にこの国を任せるなんて論外です。かと言って、堕落した貴族達にこれ以上任せる訳にはいかない。準備はよろしいですか?」

 「今すぐにでも出陣出来ます」

 エーヴィス大司教の前で跪いているのは、聖父教会お抱えのハイム人傭兵の傭兵隊長。

 「予定通りならそろそろですね」

 およそ30分後。王都郊外の近衛駐屯地で大爆発が起きた。

 「真に人々を率いることが出来るのは誰なのか、今こそ世に知らしめる時!」

 大聖堂の鐘楼で鐘が鳴ると、王都に点在する教会の鐘が次々と鳴った。

 「この国を率いるのは、堕落した貴族でもなければ、強欲な詐欺師共でもない。私達だ!私達こそがこの国を率いるに相応ふさわしい!」


 ****


 「隊長。街の方から聞こえる銃声の勢いが止まりません。悲鳴も……治まらないんです……」

 何度殺しても甦る身元不明の学者然とした青年を、王都郊外にあるレンガ工場の窯で焼くための準備をしている部下の様子をじっと見守っていたカルセルに、周囲の監視を任せていた副官のポンペルド上級曹長が近寄って言った。

 「どうしますか?」

 「お前はどうしたいんだ?」

 フリューゲル将軍の下準備をしていた別動隊と合流したカルセルたちの兵数は五十人少々。歩兵隊なら一個半小隊程度の戦力。出来る事は高が知れている。

 「俺達に出来る事なんて何も無いぞ」

 「……悪夢にうなされるよりはマシでしょう?」

 「…………」

 「志願者だけでも行かせてはくれませんか?」

 「……馬鹿野郎が。それじゃだたの犬死だろうが」

 カルセルは苛立たし気に舌打ちをすると、思案する様に空を睨んで大きなため息をついて言った。

 「援軍を連れて来る。お前はそれまでここで部隊の指揮をしていろ」

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