第33話

 目を覚ませば活力に満ちていた生命力あふれる肉体は何処へ行ったのだろう。どんな問いにも瞬時に答えを返していた機敏で聡明な思考力は何処へ行ったのだろう。

 老境のいきに入ったエーヴィス大司教は、鏡を見る度に老けていく己の顔を見て嘆いた。

 「老いがこれほどまでに恐ろしいとは」想像だにしていなかったエーヴィス大司教は、大いに慌ておののいた。このまま歳老いていったら自分は一体どうなってしまうのか、と。

 訳の分からない妄言を喚き散らす老人になってしまうのか?助けが無ければ、自分が何をすればいいのかも分からなくなるのか?

 老害と言って忌み嫌っていた存在に自分がなるかもしれないと思ったエーヴィス大司教は、血眼になって老いから逃れる方法を探した。

 「ベルツ帝国アロガン伯爵領領主ルチアーノ・ディ・アルガンで御座います。どうぞお見知りおきを、猊下げいか

 気位の高いベルツ帝国貴族らしい、やたらと気取った話し方をするアルガン伯爵と初めて対面したエーヴィス大司教は、百年前にこの世を去った有名な画家が描いたアルガン伯爵の自画像と何ら変わらない、その時の若いままのアルガン伯爵を見比べて言った。

 「卿はまことにアルガン伯爵であられるのか?」

 「如何にも。猊下がお探しのアルガンで御座います」

 不老不死は無理でも、若返る術はもしかしたらあるのかもしれない。エーヴィス大司教は、ありとあらゆる手段を講じて若返る術を探した。だが心の何処かでは自分の願いが叶うことは無いだろうと思っていた。

 人が年老いて死んでいくのは神が定めた運命。それに逆らうような方法などあろうはずがない、と。しかしそんな思いはアルガン伯爵を見て変わった。

 ——叶うかもしれない。叶わぬと思っていた願いが叶うかもしれない。

 「どうか、どうかこの私にお教えください。私に出来る事であれば何でも致します。何でも差し上げます。ですからどうか、どうか私にその若さの秘訣をお教えください」

 エーヴィス大司教はアルガン伯爵の前で跪き、頭を垂れてこいねがった。

 そしてその結果が、聖職者専用の礼拝堂の床に寝かされた乳児を含む33人の子供たち。 

 「おめになれますか?」

 出会った頃と何ら変わらない容姿と気取った話し方をするアルガン伯爵に問われたエーヴィス大司教は、目の前の光景を見てようやく自身が犯した罪の深さと恐ろしさを実感して怯えていた。が、エーヴィス大司教の首は目の前の怖ろしい光景を否定するように横へ振られた。

 ——今更止めてどうなる?何て言い訳をすればいい?

 これだけの子供を内密に集めるために、エーヴィス大司教は配下の狂信的な聖職者たちに多くの嘘を吐いている。

 曰く、親がいない子供や親に見捨てられた子供は、生まれながらにして魂が穢れている、と。

 曰く、そうした魂は神の御名において清めなければならない。何故なら、穢れた魂は世の平穏を乱すからだ、と。

 ——もうどうにもならない。

 目の前で横たわる33人の子供達の命と自身の数十年に及ぶ労力によって築き上げられた信用を天秤にかけたエーヴィス大司教は、自身の保身を選んだ。

 ——仮に止めたとしても、それで何人の子供を助けられる?

 アルガン伯爵には、若返りの見返りとして15人の子供引き渡すことになっているし、エーヴィス大司教の嘘を信じて子供達を集めた狂信者たちがエーヴィス大司教の自白を聞いて素直に言う事を聞くだろうか?怒り狂った狂信者たちは子供達と一緒に嘘を吐いたエーヴィス大司教も殺すのではないか?

 ——そうなれば私だけではなく子供達の命までもが無駄に終わってしまう。だからこれが……最良、なのだ。

 「何事も、最初の一歩を踏み出すのが一番難しい」

 アルガン伯爵は、籠の中で泣いている赤子を抱き上げると、それをエーヴィス大司教の左腕に乗る様に抱かせた。

 「最初だけですよ、猊下。やましい気持ちに負けて怖気づいてしまうのは」

 アルガン伯爵は、水晶のように透き通った刀身のナイフをエーヴィス大司教の右手に握らせ、その上に自身の手を重ねた。

 「お一人で出来そうにないなら手伝いますよ。効果は半減してしまいますが。どうしますか?」

 ——半減……。

 「いや……手助けは、大丈夫です。一人で出来ます」

 ——どうせ助からないのなら、その命を最大限に活かしてやるのが、今の私に出来る、この子へのせめてもの報い。

 悲壮な決意を固めたような顔で、アルガン伯爵から受け取ったナイフを赤子の胸の上へ持ち上げたエーヴィス大司教の口元に僅かに浮かんだ笑みを見たアルガン伯爵は、にんまりと楽し気な笑みを浮かべた。

 

 *****

 

 雪のように白く、錆びた機械のようにガクガクと動く体から吐き出される、体の芯まで凍りそうな白い吐息。

 人目を避けるように体を縮こませ、この世の全てに怯えているかのように震わせている体から溢れ出る、許しを請うような悲鳴。

 骨に皮膚を張り付けたようなやせ衰えた体から発せられる、苦し気な泣き声。

 全身のありとあらゆるところを蜂に刺されたみたいに腫れあがっている体から漏れ出す、苦し気なかすれたうめき声。

 見えない剣で斬られているかのように、次から次へと切り傷が付いて行く体から出る、必死に弁明するようなわめき声

 黒く焼けただれた体から響く、発狂した様な絶叫。

 くりぬかれた目と耳から血を流しながらも両手を前にして何かを探すかのように彷徨う、声なき声を発する体。

 そしてそれを見て笑う、骨の体がカラカラと骨を打ち鳴らす。


 「何だ、これは……」

 七街区にある中流階級向けのアパートの屋上からそっと路上を見下ろしたベルナルドは、あまりにも現実離れしたこの世のものとは思えない光景に絶句した。

 「いくら何でも、これは予想外過ぎる」

 予想とは違う想定外な事態が起きているのだから、想像もしていなかったことが起きても何らおかしくないと腹をくくっていたアルス少尉だったが、さすがにこれは予想外を遥かに超えた状況だった。

 「どうするよ……」

 「どうするって……」どうしようもないだろう、と言えるものなら言いたかったアルス少尉だが、そんな事を言って何になると考えを改め、どうするべきかを考えた。

 「ベルナルド。君は言ったよな?導火線に火が付いているのに突っ立っているのは馬鹿で間抜けな腰抜けだって」

 「……冗談だろ?」

 「引火したからって火薬が爆発するとは限らないだろ?」

 「それは、万が一の幸運に万が一の幸運が重なった時だけだ」

 「ならもうすでに万が一の幸運は起きているだろ?」

 「これの何処が万が一の幸運だ。イカれちまったのか?」

 「だったら、こんな状況に遭遇する人生が他にもあるって言うのか?」

 「……死んだら意味がねえだろ」

 「ならいつ死んでもいいように書き残せばいい」

 アルス少尉は肩に掛けていたバッグから小さな手帳と鉛筆を取り出すと、それをベルナルドに差し出した。

 「君が書くか?」

 「俺にそんなことが出来る文才があると思うか?」

 「なら見張りを頼む」

 

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