第15話
——なぜ人は人を慈しみ助け合うことが出来ないのか。なぜ人は奪い争うのか。なぜ人は神の定めた戒めを破り悪徳を
聖堂で
——冒涜である。我ら人を慈悲深く見守って下さっている神に対する冒涜である。その戒めを守り誠実に生きる人々に対する冒涜である。
深く垂れていた顔を上げたスチュワートは、聖堂の最奥の高い位置に鎮座している小さな聖父像を見上げた。
——守らねばならぬ。断ち切らねばならぬ。
迷いのない穏やかな顔で、スチュワートは床に寝かせていた杖を手に取り床に突き立てて立ち上がった。
♦♦♦♦
所々剥がれている壁の漆喰。道に落ちている腐った残飯と人と家畜の糞尿。
生きているのか死んでいるのか分からない壁にもたれかかったたままピクリとも動かない悪臭を放つ浮浪者。
この世の全てに絶望したような眼で道を行き交う痩せ細った労働者たち。
「チッ、おせえな。何処ほっつき歩いてやがんだよ、あいつら」
シナー・ハウスを最初に飛び出してからずっと走り続けていたクリスは、顔に浮かんだ汗をシャツの袖で拭った。
「それにしても、何だったんだあのクソ野郎は」
辺りを見渡して怪しい人間が居ない事を確認したクリスは、貧民街に唯一ある聖父教会を目指して歩き出した。
建築当時は漆喰壁で白かったという、長い年月の風雨に晒されてボロボロになった教会の赤さび色のレンガの壁を目にしたクリスは、まだ何も起きていない様子に一安心して足を止めた。
「俺が一番か?」
一緒にシナー・ハウスを逃げ出した仲間の姿をクリスは何度も周囲を見渡して探した。
「チッ、何処でチンタラしてんだよ……くそっ。先に行くか」
もう一人の仲間の到着を待って一緒に教会へ行こうと思ったクリスだったが、あのイカれ野郎、カルセルと呼ばれていた男の事を少しでも早くスチュワートに知らせた方が良いと思ったクリスは一人で教会に行くことにした。
教会の正面玄関には鉄で補強された木製の両開きの扉があり、日中は誰でも気兼ねなく入れるように両扉の片側が開かれている。
その開いている両扉から聞こえて来た複数人の話し声、貧民街で幅を利かせているギャングの葬儀が行われている時のような大勢の話し声を耳にしたクリスは、やばい!と教会の正面玄関に向けようとしていた足を振り返る動きで誤魔化し、怪しい奴がつけていないか確認するように一二歩と後ろ歩きをした後、もう一度半回転して教会の前を通り過ぎた。
——くっそぉ、誰だよこんな時に死にやがった間抜けは。
内心の腹立ちを表す様な苦い表情で教会の角を曲がったクリスは、教会の側壁沿いの通りを歩いて教会の裏側の通りをちらりと
——あ?どういうことだ?
いつものギャングの葬式なら教会の裏には数人のガラの悪い連中が
——ギャングの葬式じゃないのか?
教会の裏通りを横断したクリスは、教会の周囲を遠巻きに観察して回り、教会の正面玄関が見える通りを挟んだ向かいにある集合住宅の壁にもたれ掛かった。
「どうしたんだ?」
クリスと一緒にシナー・ハウスから逃げ出したもう一人の浮浪児がクリスの隣に同じ様に壁にもたれ掛かって言った。
「お前の事だから先に中に入っていると思ったけど、俺が来るのを待っていたのか?」
「待つ訳ねえだろ。チンタラしやがって。バージルはどうした?」
「知らねえよ」
クリスは舌打ちした。
「行かねえのか?」
「中で何かやってる」
「葬式か?」
「いや違う。たぶん、教会の何かをやってるんだろ」
「どうする?終わるまで待つか?」
「……その前にあの野郎が来たら終わりだ」
かといって教会でやっている何かの邪魔をして世話になっている老修道士スチュワートの機嫌を損ねるような事はしたくなかった。
「あの野郎が絶対に来るとは限らないし……」
終わるまで待つかとクリスは言おうとした。
「こんにちは。クリス、フィッシャー」
自分を呼ぶ声に反射的に顔を向けたクリスは、教会に居ると思っていたスチュワートが自分のすぐ側に立っている事に「えっ?」と呆気にとられた顔を浮かべた。
「こんな所で何をしているんですか?」
「あ、その……スチュワートさんに言わないといけない事があって」
「何か手に負えない問題でも起きたんですか?」
スチュワートはクリスたちが何か厄介な問題を起こしたと思ったのだろう。
穏やかな顔に二人を責めるような苦い顔が浮かんでいる。
「いや、あの、スチュワートさんを探している奴がいて」
私を?とスチュワートは首を傾げた。
「カルセルって言うやばい奴なんですけど」
「カルセル……?」
スチュワートには覚えが無さそうだった。
「軍服を着ていました」
フィッシャーが言った。
「軍服、ということは、軍人ですか……それで、その人とは何処で会ったんですか?」
「シナー・ハウスです。安宿通りにある」
クリスが言った。
「あー、あそこですか。ふむ……」
「あの、早く逃げた方が良いですよ。あいつ、そこに居たならず者を全員問答無用で殺しちまうような奴なんですから」
「ふむ……まぁ、とにかく、教えてくれてありがとう。お礼に食事をご馳走しますから教会においでなさい」
スチュワートに誘われたクリスとフィッシャーは、顔に嬉しそうな笑みを浮かべてスチュワートの後をついて教会の中に入って行った。
「おかえりなさい、スチュワートさん。その子たちはどうしたんですか?」
教会に何度も通っているクリスたちが見た事の無い若い修道士だった。
「危険な人物が私を狙っているとこの子達が忠告しに来てくれたので、お礼に食事をご馳走しようと思って連れて来たんですよ」
「そうでしたか。それで、どうしましょう?」
初めて見る若い修道士の眼がクリスたちを品定めするように上から下へ動いた。
「予定にはありませんでしたが、丁度いいので連れて行きましょう。準備をお願いしてもいいですか?」
「ええ、もちろん。お安い御用ですよ」
初めて見る若い修道士がクリスを羽交い絞めにして持ち上げた。
♦♦♦♦
——あいつが死にかけていた俺を助けたのは、スリがうまくいって懐に余裕があるからお人好しの真似事でもしてみようかと気まぐれを起こしたから。
バージルを仲間に入れた時もそうだった。
何となく。何となくで誰にも相手にされていなかったバージルを仲間に引き入れた。
『フィッシャー。俺はマジであいつが嫌いだけど、あいつを助けるためなら死んでも構わないと思ってる』
俺もバージルと同じ気持ちだった。
普段のあいつは、偉そうで考えなしですぐに人のせいにするムカつく野郎だが、それでもあいつは俺達を助けてくれた。
気まぐれだろうが何となくだろうが、あいつだけが俺達を助けてくれた。
「こらこら暴れるんじゃない」
——誰も引き取る人がいないなんて可哀そうと俺を憐れんだ人間も、善人で名が通っている人間も、信心深く敬虔な信徒だと評判の人間も、恵まれない子供達のために孤児院を立てようと寄付を募る人間も、誰も俺達を助けようとしなかった!
「放せ!放せええええー!」
——クリス。お前だけだ。お前だけが俺達を助けてくれた。
羽交い絞めにされて暴れるクリスを呆然と見ていたフィッシャーも両腕を拘束するように羽交い絞めにされて持ち上げられる。
その勢いを利用してフィッシャーは背後の誰かの顔面に向かって両足を跳ね上げた。
抵抗らしい抵抗をせず為されるがままだったフィッシャーの思わぬ反撃に、フィッシャーの両腕を拘束していた腕が外れる。
その瞬間、フィッシャーはスリで
「このクソ野郎!」
フィッシャーの気迫に臆したのか、クリスを抱えたままではフィッシャーの攻撃に対処が出来ないと思ったのか、クリスを羽交い絞めにしていた若い修道士がクリスを脇に放り投げた。
「クリス!」
——逃げろ!
フィッシャーは投げ飛ばされたクリスを守る様に倒れたクリスの前に立ち、背後に向かって逃げろと手を振った。
「火だ!火を点けろ!」
フィッシャーの背後から飛び出したクリスは出入り口の両扉ではなく、火の灯った蝋燭が並ぶ祭壇へ駆けだした。
「止めろ!」
フィッシャーはクリスとは逆、出入り口の両扉に駆け出した。
「待て!」
両手を広げたスチュワートがフィッシャーの前に立ちふさがった。
「このクソガキ!」
背後で声がしたかと思えば、祭壇に行くと見せかけてすぐに引き返してきたクリスがスチュワートの横を駆け抜ける。
それに気を取られたスチュワートの隙を突いて、フィッシャーはクリスとは逆の方からスチュワートの横をすり抜ける。
「クリス!」
フィッシャーが声を掛けると、フィッシャーの前を行くクリスが「任せろ!」と応え、両開きの扉を内側に引いて開けた。
そこへフィッシャーはナイフを腰だめに構え飛び込むように突っ込んだ。
——いると思ったぜ!
万が一に備えて待機していたのだろう。
扉の外に待機していた二人の男達は、扉が開いた瞬間砲弾のように飛び込んできたフィッシャーに驚きを露わにした。
「フィッシャー!」
フィッシャーの後に続いて教会の外に出たクリスは、待ち構えていた二人の内の一人と一緒に倒れて揉み合っているフィッシャーの姿を見て、今助ける!という意味を込めてフィッシャーの名を叫んだ。
「駄目だ!逃げろ!お前だけでも逃げろ!」
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