第15話

 王都の地下を流れる下水道の壁にもたれ掛かったカルセルは、カンテラのぼんやりした明かりに照らされた対面の壁を生気のない顔でじっと見つめていた。

 ——何で俺はこんなことしているんだ……

 ふとカルセルが思い出したのは、幼い頃に死に別れた母の面影。

 あわれむような慈しむような困り顔。許しを乞うような涙が流れた跡が残る死に顔。

 次の思い浮かんだのは、浮浪児になったカルセルに声を掛けてきたスリの元締めの顔。

 嗜虐的で人を見下した薄ら笑い。思ってもいなかった唐突に訪れた死に驚き焦り怯えるような死に顔。

 事あるごとに難癖をつけてきたスリ仲間の少年。敵対してしたスリ集団の少年少女。物乞いをしていた顔見知りの浮浪児達。

 カルセルの半生は死にあふれていて、それが彼の日常だった。

 だからカルセルは誰が死のうと怒りや悲しみを覚えない。親友であろうと恋人であろうと、死んだらそれまであった友情も愛情も跡形もなく消えた。

 しかしいつからだろう。カルセルの脳裏に死んだ人間の顔が時折ふと浮かぶようになったのは。

 その度に出所の分からない怒りや悲しみに心をかき乱されるようになったのは。

 『殺してやる。いつか必ず殺してやる!』

 カルセルが率いた騎兵隊によって両親を殺された少女の、悪鬼のごとく歪んだ顔を思い出したカルセルは、下水道の壁にもたれ掛かって生気のない顔で対面の壁を見つめていたその顔に悲壮な表情を浮かべた。

 ——ちくしょう。何なんだよ。何でなんだよ。

 「くそっ!」

 カルセルの胸中で誰かが叫ぶ。

 ——逃げるな!戦え!戦え!戦え!

 心に響く自分ではない誰かの声に急かされるように、カルセルはもたれ掛かっていた下水道の壁から離れて、カンテラの明かりが届かない暗闇に向かって歩き出した。

 

  ♦♦♦♦


 窓の外から聞こえていた音が止んだ。今夜のダンスパーティーに向けてダンスホールで練習していた楽団が昼の休憩に入ったのだろう。

 スペンサー王国の王女カリーナは、ダンスの相手役を務めてくれている王家お抱えの舞踏指南役バルデ女男爵へもの言いたげな視線を向けた。

 私達もそろそろ終わりにしませんか、と。

 カリーナよりも頭半分高い位置にあるバルデ女男爵の青い瞳が、カリーナの提案を拒否するように細められた。

 バァン!バァン!バァン!

 開け放たれた窓からピアノの演奏をかき消す銃声が鳴り響き、その音に驚いたカリーナの肩が跳ね上がった。

 その直後、暴れ牛の様な荒い鼻息がカリーナの眼前を上から下へと吹き抜ける。

 「またですか!」

 カリーナが視線を上げると、これ以上ないくらいに眉が吊り上がったバルデ女男爵が、親の仇を見つけたかのように銃声のする窓の外を睨みつけていた。

 クレイン王国の外遊団が来てからというもの、王城では毎日欠かさず銃声が鳴り響く。

 王城を訪れた貴族達が、クレイン王国が持ち込んだ最新鋭の銃を試し撃ちするために。

 「これでは気が散って練習になりませんね」

 カリーナは、さも残念な風に言ったが内心ではこれでやっと終われると喜んでいた。

 「まだもう少し細部の動きを直しておきたかったのですが……まったく何て無粋で野蛮な音なのでしょう」

 バルデ女男爵は忌々し気に窓の外を睨みつけて言った。

 「殿方は古来より力でねじ伏せるのがお好きですから」

 身を守るのにも民を守るのにも力は必要だ。だからそのための力を欲する事をカリーナは否定しない。しかし今鳴り響いている銃声は、民を守るための銃声ではない。自己の富と権力を守るための我欲に塗れた銃声だ。

 「クレイン王国は何を考えてこんな時にあんな物を私達に見せびらかすのでしょう。それで何を守れというのでしょう。それで誰を撃てというのでしょう」

 内から湧き上がる怒りを隠す様にカリーナは付き人から受け取った扇子を広げて顔を覆った。 

 ——クレインは保身のためなら私達がそのような非道を選ぶと思っているのか?私達がそんな身勝手で卑しい人間だと思っているのか!

 

  ♦♦♦♦


 「何で火に油を注ぐ様な事をするんですかね」

 涼しい風と眩しいくらいに明るい夏日が入って来る、開け放たれた屠畜場の出入り口の側に置かれた机で書き物をしていたハリス曹長が、僕の独り言に手を止めて顔を上げた。

 「もう終わったんですか?」

 だから君は無駄口を叩いているんだよね?とハリス曹長の目が語っていたので、僕は自信を持ってこう答えた。

 「見て下さい、この吐き気をもよおすぬるぬるまみれの手を」

 豚の小腸を覆う粘膜とその中に入っていた内容物で汚れた異臭を放つ手を、僕は自慢げに見せびらかす様にハリス曹長へ突き出した。

 「今ならきっと僕は部隊で一番の人気者になれますよ。口を開けば憎まれ口しか言えない気の毒なカロン軍曹だって、この手を見れば間違いなく人生初の心の底からの称賛の声を上げるかもしれません」

 ハリス曹長は、才能の欠片も無い素人が読み上げる自作の詩を聞いている詩人のような感情の無い顔でじっと僕を見つめて、判決を下す前の裁判官のような無機質な声で言った。

 「他に言いたいことはあるかね?」

 子供みたいにはしゃいでいた僕は、不貞腐れた被告人のように愛想の無い声で言った。

 「シープが無くなりました。医務室まで取りに行っても構いませんか?」

 シープとは、羊の小腸から作られた縫合糸を指す言葉で、主に抜糸の出来ない内臓の縫合に使われる。

 「いいでしょう。ついでに昼食も食べて来なさい」

 僕はげんなりした。

 両開きの出入り口を全開にして風通しを良くしているとはいえ、屠畜場の中には胃や小腸、大腸の中から出てきた吐き気を催す臭いの元凶が片付けられることなく存在している。

 今はもう鼻が慣れたから吐気を催す程の不快さは感じないが、昼食を食べて戻って来る頃には、きっと間違いなく食べた物を全て吐き出したくなっているだろう。

 「時間は20分もあれば十分でしょう。残さずに全て食べて来るんですよ。後で確認しますからね」

 悪魔だ。ハリス曹長は血も涙も情けもない悪魔に違いない。

 しかしどんなに理不尽な命令であろうと、軍隊では上官の命令は絶対だ。

 ハリス曹長が懐中時計で時間を確認したのを合図に、僕は布の上に並んでいる血と油と汚物に塗れている手術道具を濡らした布巾で丁寧かつ迅速に綺麗にし、赤茶色の消毒液が入った手桶の中へと浸した。

 かかった時間は、およそ3分。

 手術道具を拭いて汚れた布巾を持って屠畜場を出た僕は、それで手に付いた汚れを落としながら近くにある厨房の洗い場で汚れた手と布巾を石鹸で洗い、絞った布巾を洗い場のふちに掛けると、王城から少し離れた外来用の兵舎に向かって全力で駆け出した。

 ここまでかかった時間は、およそ5分。

 宿舎までは片道で一分くらい。ということは往復で2分はかかる。20引く7は13。シープはあそこに置いてあるはずだから、それを取って食堂に向かえば、食事を受け取る時間と食器の返却の時間を差し引いても10分は食事に使えるだろう。

 そう見通しを付けた僕は、少しだけ安堵した。

 これなら十分に時間内に戻れるだろう、と。

 「おい、ウィル。何処へ行っていたんだ?モリソン伍長が探していたぞ」

 鍵をしていた医務室のドアの鍵を開けていた僕の背に、非番のロニーが声を掛けてきた。

 「今日は朝からハリス曹長にしごかれていて忙しいんだよ。モリソン伍長は何の用で僕を探していたの?」

 医務室のドアの鍵を開けて中に入った僕は、内臓縫合用のシープが置いてある棚へと足を進めた。

 「あー、何だっけなぁ……あ、そうそう、水虫の薬。もう痒くて仕方ないらしい」

 僕は水虫用の軟膏を作るのに掛かる時間を算出してため息を吐いた。

 「悪いけどロニー、僕の昼食を持って来てくれない?水虫の薬を作っていると、食堂で食べている時間は無さそうだからさ」

 棚の引き出しから手に入れたシープをズボンのポケットに突っ込んだ僕は、薬品棚の鍵を開けて、軟膏に混ぜる水虫用の粉薬が入った小瓶こびんを探す。

 「急にどうしたんだ?昨日までは暇そうにしてただろ。何かハリス曹長を怒らせるような事でもしたのか?」

 「平然と人の目の前に銃弾を打ち込むような人を怒らせる度胸が僕にあると思う?ハリス曹長を怒らせるくらいなら隊長を怒らせるほうが何倍もマシだよ」

 天秤ばかりの皿に分銅を乗せて、反対側の皿に小さじですくった水虫用の粉薬を乗せる。

 「僕の昼食を取りに行ってくれる気はあるの?」

 出入り口の壁に寄りかかって僕の作業を見ているロニーに言うと、ロニーは肩を竦めて医務室を出て行った。

 同じ様に軟膏の量も測った僕は、それを乳鉢にゅうばちに入れて軽く乳棒で練ると、均等に混ざるように量を計った水虫用の粉薬を数回に分けて入れて素早く練る。

 「持って来てやったぞ」

 そう言って医務室に入って来たロニーは、手に持っている深皿とミートパイを事務机の上に置いた。

 「ありがとう。助かるよ。薬はもうすぐ出来るから、モリソン伍長に渡しておいて貰える?」

 「それはいいけど、お前なんかくさくないか?何だそのにおい」

 「聞きたい?何で僕がこんな臭いをさせているのか。お勧めはしないけど、君がどうしても聞きたいというのなら、出来る限り生々しく教えて上げるよ」

 へらで木製の小さな薬壺に練った軟膏を入れて蓋をすると、その上から蓋が外れないように細い麻紐で縛る。

 「結構臭う?」

 「お前の隣で飯を食いたいとは思わないな」

 僕からモリソン伍長に渡す水虫用の軟膏を受け取ったロニーは、そう言って露骨に僕から距離をとった。

 反射的に抱き着いてやろうかと思ったけど、そんな事に時間を浪費している暇は無いと思いとどまった僕は、渋々ロニーが取りに行ってくれた昼食に手を付けた。

 「何やってんのか知らねえけど、まぁ、頑張れよ」

 君もな。と返したかったけど、僕の口の中は豆のスープで一杯でロニーに小さく頷き返すので精一杯だった。

 ロニーが居なくなって一人になった僕は薬品棚に鍵を掛け直して近くの窓を開けると、まだ半分残っている豆のスープを窓の外へ投げ捨てた。

 ——勿体ないけど、全部食べていたらハリス曹長に言われた時間に間に合わない。

 ミートパイを手に取った僕は、医務室に鍵を掛けて宿舎の外に出ると、走りながらミートパイを口の中に詰め込めるだけ詰め込み、口の中に入り切らなかったミートパを奇麗に刈り整えられた人目につかない生垣の中へ投げ込んだ。

 ——食事くらいゆっくり摂らせてくれればいいのに。

 「ゆっくりと食べられましたか?」

 まだ口の中に残っているミートパイを咀嚼している僕の姿がハリス曹長には見えていないのだろうか?

 「はい。食後のお茶を楽しむ余裕はありませんでしたけど」

 「戦時には将軍ですらお茶を楽しむ余裕なんて無いんですよ。兵卒の君にそんな贅沢な時間があると思いますか?」

 「将軍様よりはあるんじゃないですか」

 軍人になって一番意外に思ったのは、兵卒よりも下士官の方が忙しく、下士官よりも指揮官の方が忙しいという事。

 実際に見たことは無いが、その理論で言えば、おそらくは指揮官よりも将軍の方が忙しいのではないだろうか。戦時という条件下に限られるだろうけど。

 「君には減らず口を叩かずに無難に済ませるという選択肢はないのですか?」

 「それは名案ですね。次からはそれも選択肢の一つに入れておきます」

 ハリス曹長は呆れ顔で僕を見ると、手の施しようが無いと匙を投げるように首を左右に振った。

 「続きに取り掛かりなさい」

 

 

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