第56話 馬に乗るのは、勝つためです 4

「ハロルド! 待ちくたびれたぞ」


 夜も更けてから、人目を避けるようにして王宮から離宮へ戻ったハロルドは、正面玄関を入るなり、入り口付近に置かれた椅子に座って優雅にワインを飲んでいるジェフリーに捕まった。


「酔いつぶれる前に帰って来てくれてよかった」


 小さなテーブルの上には、半分ほど空いたワインの瓶がある。


「どうせなら、酔いつぶれてから帰って来たかった……」


 ジェフリーがこうして待ち構えてまで話したいことなど、ロクなものではないだろう。


 ハロルドが溜息を吐くと「まぁ、ここでは何だから、書斎へ」と立ち上がり、グラスを差し出した。


「酷い顔色だ。一杯やったほうがいいぞ」


 自分でもそうだろうと思っていたので、遠慮なく飲み干す。


 離宮へ移ってから既に三日が過ぎているが、ハロルドが明るいうちに戻って来たことはない。


 せっかく、人目を気にせずビヴァリーと二人きりでいられるというのに、確保できるのはその寝顔だけという何とも欲求不満の募る日々だ。


「荷解きは済んだのか?」


 歩きながら、ジェフリーの問いに頷く。


「ああ。予想していた通りの中身だった」


 海の向こうから受け取った荷物が、ようやく長い告白を始めたのは、王宮地下の豪華な客室に運び込まれてから二日後のことだった。


 予め荷物として積み込まれ、指示通りにデボラたちを暗い海へと突き落とした二人は、元々マクファーソン侯爵の屋敷で働いていた従僕夫婦だった。


 大金に目がくらみ、言われるままに犯行に及んだものの、マクファーソン侯爵の手を逃れることもできず、人目を気にして心休まらぬ日々を送っていたらしい。


 仕事をしていたはずの商会は形ばかりで、ただ指示されたものを右から左へ流すようなものだったという。


 扱う商品にはコルディア産の馬も含まれており、デボラたちがいずれコルディアへ行くつもりだと話していたらしいこともわかった。


「大物が餌に食いつくかもしれないから、泳がせてみようかと思っていたんだが、コルディアから連絡が来たので、面倒なことをしなくても済みそうだ。釣りは得意じゃないからな」


 二束三文で売り飛ばされた、ラッセルが飼育していた馬たちの行く先を追いかけさせていた諜報員から、複雑な輸送経路を辿ってついにコルディアに到着したという知らせが届いたのは今朝のことだ。


 さっそくギデオンに、特徴などを確認してもらいたいと電報を打つと、ブレント競馬場のレースを観戦するために王都へ来る予定だったのを前倒しすると言ってくれた。


 王宮の厩舎で起きた火事について、ぎゅうぎゅうと締め上げられるかもしれないが、ギデオンがいてくれればビヴァリーも心強いだろう。


「コルディアで起きた反ブレントリー派の反乱についても、調べはついているんだろう?」


「ブレントリーに対する反乱を手引きしたバルクールは、大逆罪で裁かれることになる」


 反ブレントリー派を騙った金で雇われた一団の裏にバルクールがいることは、軍によって調べがついており、あとは時機を見て拘束し、貴族院で罪を問うだけとなっている。


 できれば、元凶まで芋づる式に引っ張り出したいため、マクファーソン侯爵家に潜り込ませた諜報員に証拠と証言を集めさせ、逃げ道を封じるつもりだ。


「これも、すべてコルディアの元宰相のおかげだ」


 しっかりとコルディアの表も裏も把握している人物がいてくれるおかげで、離れた場所でも正確な情報が得られる。


 聡明で気概のある元宰相が国王だったなら、コルディアはブレントリーを凌いだかもしれない。


 ブリギッドとジェフリーの縁談を持ちかけた際、何事もなければブリギッドは自分に嫁ぐことになっていたのにと冗談交じりで恨みがましく言われたことは、ヘタレの友人には秘密だ。


「暗殺されないよう、警護は強化したほうがいいだろうな」


「ブレントリー側の護衛を信じるほど、間抜けではない。自分の身は自分で守れると言うだろう」


「最後まで何があるかわからない。油断するなよ?」


「わかっている」


 ジェフリーと共に、二階の奥にある書斎へ足を踏み入れたハロルドは、そこに意外な人物を見つけて立ち止まった。


「ブリギッド妃殿下」


 もうとっくに寝ていてもおかしくない時間帯だが、ブリギッドはドレスではなく質素なワンピース姿で背筋を伸ばし、ソファに座って優雅に茶を飲んでいた。


「ブリギッドでかまいません。私もリングフィールド卿と呼ぶのが面倒ですから、ハロルドと呼びます」


 まるで町娘のような恰好だが、許可を取るのではなく宣言するところが元王女らしい。


「……では、そのように」


 勧められるままにハロルドは向かい側のソファへ腰を下ろしたが、ジェフリーはブリギッドの横に座ろうとして睨まれ、すごすごと一人掛けのソファへ退散した。


「怪我の具合はどうです? 無理をしていないかとビヴァリーが心配していました」


「お気遣いありがとうございます。寝込むほどではありませんし、何かしていたほうが、痛みも疲れも紛れるものです」


「その顔色で言われても説得力がないわね。とりあえず、明日一日、ビヴァリーと一緒に過ごすと約束しなさい」


 いきなりの命令に驚いたものの、最後の詰めの段階にきている。

 のんびり休んでいる場合ではない。


「お言葉ですが……」


 承諾できないと言おうとしたハロルドを遮って、ブリギッドが問う。


「ビヴァリーから、アルウィンのことを何か聞いていますか?」


「アルウィン……? いえ、ここ数日はまともに話す時間もなく……」


「手短に言います。ビヴァリーは、火事があった日から今日まで、一度も馬に乗っていません」


「まさか……怪我の具合が?」


 頭の怪我については、表面の傷も塞がり、痛みもめまいなどの症状もないと確認してから離宮へ移った。


 いきなりレース並みに走らせるのは無理だろうが、散歩くらいはしていると思っていた。


「目に見える傷は癒えていますが、目に見えない傷は癒えていないのでしょう。アルウィンに触ることもしません。アルウィンの気持ちが落ち着くまでは私と一緒のほうがいいと言っていますが、レースも迫っているのに、明らかに不自然です」


 俄かには信じられず、ハロルドが沈黙していると、ジェフリーが付け加えた。


「あんまり食欲もないみたいでね。ビヴァリーが好きそうなものを色々と用意させてみたんだが、減量でもしているのかと思うほど、食が進まないようだ」


「五年前の真相が明らかになれば、ビヴァリーの父親も報われるでしょうし、コルディアを食いものにしようとしている害虫を退治してほしいと私も思っています。ただ、そのためにビヴァリーを犠牲にしたいとは思いません。ビヴァリーが乗りたくないのなら無理強いはしたくありません。アルウィンには私が騎乗して、レースに出ればよいのですから」


「え……な、なんだってっ!? ブリギッドっ!?」


 青ざめるジェフリーに、ブリギッドはきりりと眉を吊り上げた。


「二番目のお義兄さまはご自分で乗るのでしょう? だったら私だって……」


「いや、ちょっと待ってくれ、そういう問題ではなく……もし、落馬したらと思うと……」


「誰が乗っても、落馬する可能性はあります」


「じゃあ、出走を取りや……」


「……取りや?」


 冷ややかなグレイッシュグリーンの瞳で睨まれ、ジェフリーは口をつぐんだ。


「ビヴァリーと話してみます。ビヴァリーに限って、馬に乗りたくないということはないでしょうから。明日の朝、アルウィンを貸してもらえますか? ブリギッドさま」


「かまいませんが……アルウィンに乗れるのかしら?」


 ドルトンにそっくりなアルウィンに好かれている自信はないが、ビヴァリーのためなら何とかなるだろう。


「……交渉してみます」


 ブリギッドは疑わしいという眼差しをハロルドへ向けた。


「貢ぎ物は?」


「貢ぎ物?」


「手ぶらで交渉するつもりですか?」


 馬の交渉に賄賂が必要なのかと目を見開くハロルドに、ブリギッドはテーブルに置かれていたガラス製の小さな瓶をハロルドの方へと押しやって、厳かに告げた。


「いつもは調教の後など、頑張ったご褒美にあげているのですが、特別に賄賂を許可いたします」


 瓶の中には、小さな角砂糖がぎっしり詰まっていた。



◇◆◇



 夜も明けきらぬ早朝。


 馬たちが鼻を鳴らし、興味津々の様子で各々の馬房からこちらを見ているのをひしひしと感じながら、ハロルドは興奮した様子で首を高く掲げているアルウィンを見上げた。


 黒鹿毛の美しい馬は、小柄とは言い難い堂々たる馬体だ。傍にいるだけでかなりの威圧感を醸し出し、人間を――おそらくハロルドを見下している。


 いかにも偉そうなところが、父親のドルトンそっくりだった。


「話がある」


 アルウィンは、ガツッと前脚で床を鳴らし、ふいっと顔を背ける。


「とにかく、表で話そう。ここはひと……馬の目が多すぎる」


 馬房の扉を開けようとすると目を剥いて噛みつこうとするので、すかさずその鼻先に貢ぎ物を差し出した。


 アルウィンは、いきなり角砂糖を奪い取ると、さっさと扉を開けろと体当たりしてきた。


 偉そうな馬にも、貢ぎ物は有効らしい。


 ほっとして扉を開け、取り敢えず頭絡と曳き綱だけを着け、厩舎の外へ連れ出した。


 いきなり鞍を乗せるなんて自殺行為はしたくない。


 しばらくゆっくりと厩舎の周辺を歩き回りながら、姿を見せ始めた馬丁たちに軽く手を挙げて挨拶だけしておく。


 気が済むまで歩かせるつもりでウロウロしていると、アルウィンが突然足を止めた。


 振り返れば、「用があるんなら、とっとと話せ」と言いたげに鼻を鳴らす。


 ハロルドは、ポケットから二つ目の角砂糖を取り出し、アルウィンに差し出した。


 アルウィンは、ほんの僅か抵抗する素振りを見せたものの、再び口にしてそっぽを向く。

 片方の耳だけはハロルドの方に向けているので、一応聞く気はあるようだ。


「ビヴァリーのことなんだが……おまえに乗りたがらないなんて、おかしいと思わないか?」


 馬相手に、真面目に話している自分を他人が見たらどう思うかは、この際考えないことにした。

 考えなくとも、正気を疑われることはわかっている。


「火事の後からずっと、乗っていないんだろう?」


 アルウィンはその通りだと大きく頷いた。


「……何故だと思う?」


 答えが返ってくるとは思っていなかったが、案の定アルウィンは「馬鹿じゃないのか」という目でハロルドを睨んだ。


 昨夜、ブリギッドとジェフリーと話した後、部屋へ戻ったハロルドは、眠っているビヴァリーを無理に起こして話すことはしなかった。


 今朝も、枕元に厩舎にいるとだけ書いた紙を置いて、先に起き出した。


 アルウィンを買収する必要があったのと、面と向かって聞いたところで、ビヴァリーが上手く話せるとも思えなかったからだ。


 馬の問題は馬で解決するしかないと、五年前の経験から知っている。


「いや、まぁ……理由は何となくはわかるんだが……ビヴァリーは、火事を起こしてしまったのは自分のせいだと思っている。厩舎に住んでいた馬丁たちの持ち物も、ほとんどダメにしてしまったし、おまえたちも家をなくして田舎暮らしになってしまった。まぁ、こちらのほうが王宮より何倍も快適なはずなんだが……」


 アルウィンは「それで?」と首を捻る。


「乗りたくないというより、自分はおまえたちに嫌われてしまったんじゃないかと怯えている気がする。ビヴァリーにとって、おまえたちは家族も同然の存在で、大事に扱うべきものなのに、恐ろしい思いをさせてしまったことを悔いている……と俺は思うんだが、どう思う?」


 悪くない推測だと言うように鼻を鳴らしたアルウィンは、ガツッと前足で地面を蹴る。


「だから、乗ってしまえば解決するはずだ」


 昔ビヴァリーが自分にしてくれたように、馬に乗って、一緒に走ることの楽しさを体感できれば、少なくとも今の状態から少しは前進できるのではないかと、ハロルドは考えていた。


 自分が相手に受け入れられるかどうか不安なとき、ただ立ち止まって遠くから眺めているだけでは、何もわからない。


 その姿や表情がよく見えて、声が届く距離まで近づき、話してみないことには始まらない。


「ビヴァリーを乗せてやりたいんだ」


 アルウィンは、わかったというように頷き、ハロルドが角砂糖を忍ばせているポケットに鼻を擦りつけた。


「…………」


 取り敢えず一つ差し出すと、次はないのかと睨まれる。


「一人で乗るのは無理だろうから、一緒に乗りたい」


 アルウィンがぴたりと動きを止めた。

 頭を上げ、「何だと? もう一回言ってみろ」と睨み下ろす。


「乗せてくれたら、角砂糖を……」


 耳がピクリと動く。


 じっと睨み合っていると、ふんと大きく鼻を鳴らして再びポケットに鼻を擦りつけてきた。


「後払いだ」


 先にやってしまって、言うことを聞かなかったら意味がない。


 ハロルドが頭を押しやると、ぐいぐいと押し返してくる。


「こ、のっ……」


 押しつ押されつの格闘を繰り広げていると、様子を見ていたらしい馬丁がおずおずと近づき、援護を申し出た。


「あのう……引き離しましょうか?」


「いや……鞍とハミを……持ってきてくれないか?」


「はぁ……でも、乗せないかもしれませんよ? アルウィンは、ブリギッドさまかビヴァリーしか乗せたがりませんから」


「今、交渉中なんだ。とりあえず、頼む」


 馬丁が走り去るのを見送って、ハロルドは再びアルウィンに話しかけた。


「角砂糖の残りは三つある。一つは前払い。残り二つは後払い。おまえの協力でビヴァリーが元気になったら……オレンジを差し入れてやろう」


 アルウィンが押すのを止めたので、角砂糖を一つやる。


「交渉成立だな?」


 アルウィンはゆらゆらと尾を振って、考え中だと言うようにハロルドを見下ろしていたが、馬丁が鞍を持ってくると頷くように首を下げた。


 アルウィンが大人しく鞍を着けさせるのを見た馬丁は、目を丸くしている。


 ハミを噛ませ、準備万端整ったとき、アルウィンがふと顔を上げて嘶いた。


 その視線の先には、ハンチング帽を被ったビヴァリーがいる。 


「アルウィン? ハル……どうしたの?」


「せっかく乗馬に最適の場所にいるのに、乗らないのは勿体ない。そう思うだろ? ビヴァリー」 


「う、うん……でも……」


「アルウィンも快く乗せてくれると言っている」


 アルウィンが肩越しに頭を乗せて擦り寄ると、ビヴァリーがアップルグリーンの瞳を大きく見開いた。


 態度は偉そうだが、なかなかの演技派だ。


「二人くらい乗せても大丈夫だろう? 走らせるのではなく、ちょっとした散歩だ」


「でも……」


 いつものビヴァリーなら喜んで駆け寄って来るはずなのに、立ち竦んだまま俯いている。


 待っていてもらちが明かないと見て、ハロルドは大股に歩み寄るとその腰を掴んで抱き上げた。

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