第37話 嵐は海の向こうからやってくる 3

 薄いネグリジェとナイトガウン姿で膝の上に乗るビヴァリーが、甘えるようにねだる声を聞いたハロルドは、潜在的な願望が見せた幻ではないかと思った。


(幻では……ないよな?)


 ビヴァリーに余計なことを吹聴したジェフリーを締め上げ、呑気に散歩に出かけていた上司を捕まえてコルディアで不正をしている担当官の帰国日を吐かせ、陸軍大臣を脅して軍の諜報員をマクファーソン侯爵家に潜り込ませることに同意させ、深夜になってようやく帰宅すると、ビヴァリーは寝椅子でうたたねしていた。


 てっきりベッドの中で熟睡していると思っていたので、待っていてくれたことは嬉しかったが、アルウィンに乗ってレースに出る、新聞で五年前の件を暴露して真相を突き止めたいなどと不穏なことを言い出し、しかもハロルドの膝の上に跨って来た。


「ハル?」


 アップルグリーンの瞳に覗き込まれ、呻きそうになる。


(耐えろ……まだ、話は終わっていない)


 これが、男の欲を煽る計算された行動なら逆に冷めるところだが、ビヴァリーの場合は馬でも扱っているつもりに違いない。


「ハル、私……ちゃんと勝つから」


 ビヴァリーが負けるはずがないと、ハロルドも思う。


(しかし、それとこれとは話が別だ)


 ビヴァリーを危険な目に遭わせるわけにはいかない。


 デボラたちの背後にマクファーソン侯爵がいるなら、なおさらブレント競馬場でのレースになど出場させられない。


 たびたび競馬のレースでは事故が起きるが、コリーンと共にいたナサニエルという騎手が「死神」と呼ばれているのは、ただのあだ名とは思えない。


 ブリギッドの言うように、ビヴァリーの存在をいつまでも隠してはおけないし、受け身になれば苦しくなるのだから先手を打つべきだと思うが、今はダメだ。


 コルディアの情勢が荒れた場合、ハロルドがビヴァリーの傍にいられなくなる可能性が高い。


 それなのに、まっすぐな眼差しで、過去に向き合い、さらには貴族社会の高い壁に挑みたいと言われると、今にも崩れそうな理性は頷けと囁いてくる。


 ビヴァリーがやりたいことをやめさせる権利などない。

 ハロルドにできることは、ビヴァリーの力になることだけだ。


(わかっていても……そうできないことだってある)


 愚かだとわかっていても、間違っているとわかっていても、その道を選んでしまうことがある。


 そうしないよう、必死に抗い続けるだけの忍耐力が自分にはあるのだろうかとハロルドは自問し、なければ訓練して強化しなくてはならないのだと自答した。


「ハル……?」


 唇をなぞるビヴァリーが覗き込んでくる。


(急に忍耐力なんか身につくわけがないっ!)


 ハロルドは、唇に触れていた指を引き剥がすと、先ほどからずっと味わいたくて仕方なかったビヴァリーの唇を舐めた。


「ハ……んむぅ」


 とにかく、色々と溜まっていたものをぶつけるようにして、夢中になってキスをしていたハロルドは、ふとこちらをじっと見上げる潤んだアップルグリーンの瞳に気付いた。


 ビヴァリーは、馬に乗るのなら誰かの後ろに乗るのではなく、自分で操り、思う存分走り回るほうを選ぶ。


 ハロルドがダメだと言えば従うかもしれないが、その耳にハロルドの言葉は届かなくなるだろう。


 そこには、喜びもなければ、幸せもない。

 

 自分の言葉を聞いてくれない相手に延々と話しかけるのは、とても虚しく、悲しく、辛い。

 妻にも、子どもにも、現実にさえも向き合うことを拒否し続けた、父親のようにはなりたくない。


 ハロルドは、なけなしの理性をかき集めてビヴァリーを持ち上げるようにして立ち上がった。


「レースに出るのはかまわないが、新聞記事の内容は事前に調整したものにする」


 パッと顔を上げたビヴァリーの顔に、笑みが浮かぶ。


「ありがとうっ! ハル」


 ビヴァリーの嬉しそうな笑みを見て、ハロルドも嬉しくなった。


「妃殿下も関係しているから、勝手に書かせようものなら、ジェフリーが黙っていない」


 ジェフリーは、相変わらずブリギッドとは真の夫婦にはなれていないようだが、ずいぶんと距離は縮まっているようだ。


 ブリギッドは一種の悟りを開いたのか、以前ほどジェフリーに対して腹を立てたり、身構えたり、警戒したりする様子を見せなくなっている。


 素敵な白馬の王子様も、裏側から見ればタダの普通の男だということを受け入れたのかもしれない。


「ブリギッドさまとジェフリー殿下は、正反対だからきっといい掛け合わせになると思わない? ハル」


「確かに、血統からいけばどちらも最高だな」


 ビヴァリーをベッドまで運び、抱き合ったまましっかりと毛布に包まる。


「ブリギッドさまの気位の高さと負けず嫌いなところ。ジェフリー殿下の粘り強さと強かなところを合わせたら、完璧な馬になりそう」


「そうだな」


 いいところだけを受け継げば完璧になるが、悪いところだけを受け継いだら最悪ではないかと思いつつ、ハロルドはビヴァリーの背中を撫でた。


「楽しみ……」


 ビヴァリーも、ハロルドの喉元に顔を埋めてお返しとばかりに背中を撫で、小さな欠伸をいくつか漏らしていたが、やがて穏やかな寝息を立て始める。


 絶対に卑劣なヤツラには傷つけさせないと心の中で固く誓い、抱いた腕に力を込めると、ビヴァリーが唇を綻ばせて呟いた。


「いい子……」


 きっと、馬の夢でも見ているのだろうと思いながら、人肌の温もりから生まれる眠気にハロルドも身を預ける。


「ハル……いい子だから……あとで……林檎……たくさん、あげるね。父さんには……ないしょ」


(林檎とは……?)


 ビヴァリーは寝ぼけているのだろう。

 自分の好物はオレンジだと心の中で反論しながら、ハロルドは眠りについた。

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