第36話 嵐は海の向こうからやってくる 2
「ちょっと待て。馬車は少佐のところへ置いて歩いて帰るから、荷物をまとめる」
ブリギッドに招かれたお茶会の後、ビヴァリーを侯爵家のタウンハウスへと送るようハロルドに頼まれたテレンスは、座る場所がなくなりそうなほど買い込んだ菓子たちを一旦馬車から下ろした。
そこから、厳正なる審査の結果、マーゴットに気に入られること間違いなしと判断された菓子たちだけをトランクに詰め込み始める。
「で、どうするんだ? ビヴァリー。妃殿下の馬に乗るのか?」
「それは……どうしようか、迷ってます」
ビヴァリーは、馬車へ向かう途中、アルウィンに騎乗してブレント競馬場のレースに出場するというブリギッドの提案についてテレンスに話した。
ブリギッドは明日まで返事を待ってくれると言ったが、火事のことや母デボラのことなどで頭が一杯の今、自分の頭だけではちゃんと考えられる気がしなかったのだ。
「でも、少佐はダメだと言ったんだろう?」
「うん……」
ハロルドは、ブリギッドの手前言葉を濁したが、その後ビヴァリーには、はっきり「ダメだ」と言った。
「結婚したことを伏せておきたいというよりも、別件で巻き込まれる可能性が高いから、目立つような真似をしてほしくないんだろうな」
テレンスも、五年前の火事についてハロルドと共に調べた結果、限りなく事件に近いと思っているし、それとは別に調べている件で面倒なことになりそうなのだと太い眉をしかめた。
「おまえの母親が直接手を下したとは言い切れないが、夫婦仲はそんなに悪かったのか?」
「……いつも口論していたわけじゃないけれど……母さんには不満があったと思う。父さんには、もっとお金を稼げる仕事についてほしかったんじゃないかな。マクファーソン侯爵のところにいた時も、もっと給金のいいところで働けばいいのにって、時々言ってたから」
「貴族出身ではないんだろう?」
「そうだけど……母さんは、お客さんの世話をしたりするパーラーメイドをしていたから、お金持ちの人たちをよく目にしていたみたいだし、羨ましかったのかも……」
「ふむ。で、向こう側の世界へ行ってみたくなったということか。準男爵夫人になって、余計に欲が出たかもしれないな」
テレンスは溜息を吐くと、どうやってもはみ出る箱を太い指で押し込み、蓋に肘鉄を食らわせて強引にトランクを閉めた。
トランクを開けた瞬間、押し込まれた箱たちが飛び出して驚くか、もしくは押し潰されて無残に砕け散った菓子たちを目撃するかしたマーゴットが激怒するのは確実だが、もう一度詰め直すのは不可能だと思われた。
「少佐が心配するのもわかるが、妃殿下の言うようにコソコソ隠しておくよりは、派手に公表してしまったほうがいいというのも、一理ある。それに、妃殿下は自分とビヴァリーが親しいということを公表すれば、マクファーソン侯爵のところの大蛇はともかく、小物たちはビヴァリーにちょっかいを出さないと思ったんじゃないか? 少佐とジェフリー殿下が親しいことは誰もが知っているしな」
「大蛇……小物……」
「それに、これはあくまでも俺の意見で、こんなことを言ったら間違いなく少佐に殺されるだろうが……注目されると、いくら隠そうとしても過去を暴かれることになる。そうなれば、酷い噂話が流れるかもしれないが、五年前の火事の件やおまえの母親のことについて、情報が寄せられるかもしれない。もしも、有益な情報を得られなかったとしても、敵をあぶり出せる可能性はある」
「あぶり出す?」
「五年前の火事についてやましいことがある人間ならば、その真相がバレているかもしれないと怯え、疑心暗鬼になり、そのうち証拠を隠滅しようとするだろう。少なくとも、実際に行動しなくてはならないかどうか、探ろうとするはずだ。五年の間、何も起きなかったことで、上手く逃げおおせたと思って油断しているだろうから」
「それはつまり……母さんが、私に会おうとするということ?」
「おまえの母親とは限らない。残りの菓子は、おまえと少佐で食べてくれ」
テレンスは、ビヴァリーとマーゴット基準に達しなかった菓子たちを馬車へ放り込み、一路タウンハウスへ向かった。
玄関口でビヴァリーと荷物を下ろすと、テレンスは声を潜めて囁いた。
「おまえの母親は、再婚相手と共に近々コルディアへ向かう予定らしい。その途中、ブレントリーに立ち寄る可能性がある。というわけで……マーゴットの知り合いに、夕食のメインを肉にするか魚にするかをめぐって繰り広げられた夫婦喧嘩の話を、すれ違いと誤解による愛憎入り混じった関係に翻弄される恋人たちの悲劇に仕立て上げられる、素晴らしい劇作家がいるそうだ」
「…………?」
何が言いたいのかわからない、と首を傾げるビヴァリーに、マーゴットへの貢ぎ物の入った大きなトランクを担ぎ上げたテレンスは、「あとでブリギッド妃殿下に紹介しておく」と言い、大股に歩き去った。
暗い夜道で、死体でも入っていそうな大きなトランクを担いだテレンスに遭遇したら、さぞかし恐ろしい思いをするだろうと考えながら広い背を見送ったビヴァリーは、玄関先で辛抱強く待っていた妙に勘のいい執事とやけに親切な家政婦長に出迎えられた。
「お帰りなさいませ、奥様」
「さぞ、お疲れでしょう。お茶をご用意いたしますか? 奥様」
「お、奥様……?」
聞き慣れない単語に戸惑うと「正真正銘、奥様ですので」と言われた。
「旦那様は、どんなに遅くなってもお戻りになるはずですので、心配いりませんよ」
「国王陛下を足蹴にしてでも、お戻りになるでしょう」
「侯爵領では、きっと慌ただしくお過ごしでしたでしょうから、今夜が本番……いえ、ゆっくりお過ごしいただけるよう、準備万端整えております」
「まずは、ご入浴から始めましょう」
家政婦長の迫力に気圧されて後退りしかけたビヴァリーの背後で、執事が玄関の扉を閉め、穏やかな微笑みを浮かべながらわずかにお辞儀した。
「旦那様より、奥様には逃走癖……驚くとあらぬ方向へ飛び出す癖があると伺っておりますので、今後も安全には十分配慮させていただきます」
◇◆◇
「ビヴァリー……?」
軽く肩を揺さぶられて、ビヴァリーは目が覚めた。
「……ハル?」
目の前には、うっかり天国に来たんじゃないかと思ってしまいそうな、天使のようなハロルドの顔がある。
「こんなところで寝ていると、風邪を引くだろう? どうしてベッドで寝ないんだ」
心配してくれているのだろうが、ニコリともしないので、とても偉そうだ。
(ハルはもうちょっと笑ったほうがいいと思うんだけど……)
ハロルドの美しさは、磨き抜かれた剣のように鋭く、近寄りがたい雰囲気が漂っている。
ジェフリーのように、にこやかにしていればもっと接しやすくなるだろうに、ハロルドが人前でにこやかにしていることは滅多にない。
あまり感情を見せないように気を付けているらしく、そのあたりはギデオンと通じるものがあるのだが、ギデオンは目尻に微かな笑い皺があるのでちょっと目元を緩めただけで優しい表情になる。
(ハルも年を取ったら、ああなるのかな……?)
二人の顔を頭の中で重ねようとしていると、ハロルドがビヴァリーの右の頬を引っ張った。
「痕がついてる」
愉快そうに目を細め、唇を綻ばせたハロルドを見て、ビヴァリーはさっきの言葉を撤回しなくてはと思った。
(ハルがいつも笑ってたら、落ち着かないかも……)
いきなり倍速になった心臓が肋骨を突き破りそうだ。
「火を足してくれなかったのか?」
ハロルドは、しばらくビヴァリーの頬を優しく揉みほぐした後、暖炉を振り返った。
「え、あ、私が寝ていると思ったからだと……」
部屋の中は暗く、暖炉の炎は勢いを失いつつあった。
晩餐の時間を過ぎてもハロルドが戻らなかったため、侍女たちに寝支度を整えてもらってベッドに潜り込んだものの、目をつぶってもなかなか眠りが訪れなかったので起き出したのだ。
ブリギッドの提案やデボラのことを考えながら、ギデオンが結婚祝いにくれたサラブレッドの血統書を眺めてハロルドを待っているうちに、いつの間にか眠ってしまったらしい。
「眠かったんだろう? 無理して起きて待っていなくていいのに」
「ま、待って、ハル! 話が……」
ビヴァリーを抱き上げようとするハロルドを制すると「明日でいいだろう」と言う。
「明日じゃ、遅いの」
ブリギッドには明日返事をしなくてはならないのだ。
夜が明ける前に話をしたいと言うと、ハロルドは何か言いかけて口を閉じた。
ビヴァリーが寝転がっていた寝椅子に並んで座ると、テーブルの上に置いていたグラスを手にする。
「飲むか?」
微かな匂いから、ワインだろうと思って首を振ると「何か頼むか?」と尋ねる。
「え、ううん。もう遅いし」
二杯目を飲もうとはせず、ハロルドはビヴァリーに向き直った。
「それで……話とは?」
「ブリギッドさまのお話なんだけど……」
じっと見つめる鳶色の瞳は「ダメだ」と言っているけれど、一応聞く姿勢を見せるハロルドに、ビヴァリーは少しだけ近づいた。
「あの、これまでブレント競馬場のレースには、出たことがないの。ほとんど貴族が所有する優秀な馬ばかりが出走するから、負けてばかりいる馬はそもそもいないし、貴族が馬主だと私のような見ず知らずの騎手には預けたくないっていう人がほとんどだし……」
主に繁殖用の牝馬目当てで、ビヴァリーは騎乗する馬を選んできたが、どんな馬主でも騎乗を許してもらえるわけではない。
馬主が貴族の場合、断られることが多いので、よほどでなければ声を掛けなかったし、馬主のほうから声を掛けてきた場合はたいてい断っていた。
ビヴァリーに自ら声をかけて来る馬主は、馬を手放す気がない人物がほとんどなのだ。
「だから……」
ハロルドが、微かにほっとしたように気の抜けた表情をするのを見て、ゴールが近づいた途端に安心して走るのをやめてしまう癖を持つ馬を思い出したビヴァリーは、ナイトガウンの襟をぐいっと締め上げた。
「一度、走ってみたいの!」
油断していたハロルドは逃げようとして仰け反ったが、ビヴァリーは手を緩めずにそのまま膝の上に跨った。
「いつか自分の馬で優勝するって決めているけれど、そのためにはコースをよく知っていなくちゃならないでしょう? ブレント競馬場でのレースはいつも一か月間しかなくて、開催日数が少ないから、とっても貴重な機会だと思うの。コースを実際に走ってみることは重要だし、それがレースならなおさら言うことないし」
「でも、出走する馬が違えば条件も……」
「アルウィンはドルトンの子だし、レースに出たことがないっていう条件はぴったり。一か月しかないけど、アルウィンの状態もいいから、ほかの三歳馬たちに引けを取らないと思う。勝ったらブリギッドさまも少しはブレントリーで過ごすのが楽しくなるんじゃないかなと思うんだけれど……」
「でも、負けたら……」
「負けないから、大丈夫」
ビヴァリーが言い切ると、ハロルドは鳶色の瞳を見開いたが、ふいに居心地悪そうに身体を捩った。
「ビヴァリー……丘の上でも話したと思うが、別件でビヴァリーも巻き込まれる可能性があると……」
「もしも、五年前の火事の真相がわかったら、その別件も解決する?」
もぞもぞと動き、ビヴァリーの下から逃れようとするハロルドの脇腹をぎゅっと膝で締めつけると、ぴたりと身動ぎするのをやめた。
「私のことが新聞に載れば、母さんも見るかもしれない」
「……そうとは限らないだろう?」
「誰かから、話を聞くかもしれない」
ハロルドは、身動ぎするのはやめたものの、呼吸が浅いようだ。
時々、調教で激しい運動をさせることもあるが、あまり心臓に負担をかけ過ぎてもいけない。
心配になってハロルドのガウンの襟から手を入れようとすると、腰に腕が回り、力いっぱい抱きしめられた。
「ダメだっ!」
「落ち着いて、ハル。深呼吸するの」
少し湿り気の残る髪を撫でてやり、首筋から背中へと手を滑らせると軽く身震いする。
「……競馬に、興味があるとは思えない」
「新聞って、インタビューが載ったりするんでしょう? もし、私が五年前の火事の話を……父さんの話をしたら、興味を持つかも」
「……そんなことをしたら」
「会いに来るかもしれない」
「おまえの母親ではなく、人殺しをなんとも思わない犯人が来るかもしれない」
「いきなりそんなことをしたら、余計に疑われると思うけど……」
「疑いを疑いのまま、揉み消せる相手だったら? 何も知らないと思っているから放置していただけかもしれないだろうっ!?」
浅い呼吸を荒くして怒るハロルドに、ビヴァリーはずっと胸の奥で燻っていたことを伝えた。
「ハル……私、知りたいの」
高い頬骨をほんの少し紅潮させているハロルドを見下ろし、強張った頬を撫でながら、色んなことを聞かされた末に思ったことを正直に打ち明けた。
「何があったのか、どうしてなのか、知りたいの。知らないままだと、父さんの夢をちゃんと叶えられないかもしれない。それに……」
形のいいハロルドの耳をなぞり、くすぐったそうにピクリと震える様に微笑む。
「聞いてもらいたいの。噂や嘘じゃなくて、ちゃんと私の言葉を聞いてもらいたい。みんなには理解してもらえないかもしれないけれど……聞く耳を持っている人には、聞いてくれようとする人には、きっと伝わると思うから」
ブレントリーでは、貴族とそうではない者の間には高い壁がある。
でも、その壁の高さは、人によって違う。
もしかしたら、軽々と飛び越えられるかもしれないし、飛び越えられないほど高いかもしれない。
確かめるには、どれくらいの高さがあるのか目にし、測り、試してみなくてはならない。
壁を前にして立ち尽くすだけでは、絶対に越えられない。
「称賛よりも批判の声のほうが、大きく聞こえるものだ。新聞が必ずしも味方になるとは限らないし、真実だけを書くとも限らない。誰も、聞いてくれないかもしれない」
「うん。でも、大丈夫。ハルが聞いてくれるから」
ハロルドの眉間の皺が少し薄れたのを見て、ビヴァリーは形のいい額が見えるように髪をかき上げ、毛並みを整えた。
気持ちよさそうにハロルドが目を細め、ビヴァリーを抱いていた腕の力を緩める。
「ギデオンさまも、マーゴットも、ブリギッドさまも、テレンスさんも……ジェフリー殿下も聞いてくれるから。それに、馬たちはいつでも私が言いたいことをちゃんと聞いてくれるから!」
どうやら言うことを聞きそうだと思い、嬉しくなって笑いかけた途端、ハロルドの唇がきゅっと引き結ばれた。
(ハルって……最初の頃のドルトンみたい……ついうっかり、言うことを聞きそうになって、そんな自分を警戒するみたいな……)
ビヴァリーは指でハロルドの唇をゆっくりなぞりながら、ドルトンがなかなか言うことを聞いてくれなかったときしていたように、できるだけ優しい口調でお願いした。
「ハル……お願い?」
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