第35話 嵐は海の向こうからやってくる 1
ラッセルの墓前で結婚の報告をしたビヴァリーは、侯爵家の屋敷へ戻ると目の回るような忙しさに見舞われた。
貴族の一員となるのに必要だといういくつかの書類に署名し、色々と手を尽くしてくれた家令に改めてお礼を言い、侯爵家の使用人たち全員と結婚祝いの晩餐を楽しんだ。
晩餐に来てくれた司祭には、嘘を告白したことを懺悔し、ギデオンと今後の繁殖計画なども話し合った。
あっという間に真夜中になってしまったので、翌朝旅立つ前にドルトンと散歩に行くことにし、酔っ払ったハロルドはテレンスに回収してもらった。
夜明けと同時に厩舎へ駆けつけて、たっぷりドルトンと二人きりの時間を過ごしたけれど、離れ離れになるのはやっぱり寂しかった。
ハロルドは、案の定ひどい二日酔いになったらしく、侯爵領を発って一日目は馬車の中で伸びていたが、二日目には新聞を読んだり、途中で町に寄って電報を受け取ったり、何か考え事をしていたりと怖いくらいに大人しかった。
ビヴァリーもハロルドとお喋りしたい気分ではなかったので、必要最低限の会話しかないことは逆にありがたかったし、テレンスと話があるとかで宿の部屋も別々にしてくれたおかげで、大丈夫じゃない目に遭うこともなく、ゆっくり眠ることができた。
父ラッセルの死が事故のせいではなく、母デボラのせいかもしれないと聞いて以来、表面上は何ともないふうを装っていたビヴァリーだが、内心、とても平常心ではいられなかった。
ラッセルの死をきっかけに、色んなことがいっぺんに起きて、当時はじっくり考えている余裕などなかったし、港でデボラたちから逃げ出した後は、これからどうするかを考えるだけで精一杯だったが、今思えば色んなことが不自然だった。
厩舎のことなど何もわからなかったデボラが、馬を売り払った再婚相手とどこで知り合ったのかずっと不思議だったけれど、ラッセルが取引を渋っていた相手なら、顔を合わせていたのも納得だし、あんなふうに素早く売り払えたのも当然だ。
ラッセルが繁殖を手掛けた馬が、素晴らしい血統にもかかわらず買い手がつかないことが度々あったのも、同業者の嫌がらせなどがあったからと言われれば、すんなり納得できる。
貴族の仲間入りをしたがっていたデボラは、近隣の貴族の館に出かけ、自分の家でもお茶会を開きたいと、しきりにラッセルに訴えていた。
繁殖用の牝馬を買うはずだった金で、デボラが家具や茶器、高価な紅茶や菓子を買い求めてラッセルと口論になったこともあるし、もしかしたら高価な宝石とかも勝手に買っていたのかもしれない。
ただ、そういったすべての疑問を抜きにしても、あんなに急いで――まるで何かから逃げるように、旅立つ必要があったとは思えない。
あんなふうに、急いで出て行ったのは、何かやましいことがあったからではないかと思ってしまう。
そんな考えが頭を離れず、テレンスによると「少佐が考え事をしているときに話しかけると、虫けらのような扱いをうける」とのことだったので、馬車の中ではテレンスが買い込んだ数々の菓子の味見をするという使命を果たすことに専念していた。
マーゴットは甘い物に目がないが、美味しくないお菓子をこの世の何よりも憎んでいる。気に食わないものを食べさせた場合、土産として差し出したテレンスの命はない。
三日目には、日が暮れる前に王都へ入りたいというハロルドの希望により早朝から馬車を飛ばし、侯爵家のタウンハウスに寄ることなく、まっすぐ王宮へ向かった。
ハロルドはコルディア担当大臣に会うつもりだったようだが、あいにく出かけており、ちょうど午後のお茶の時間だったこともあって、ささやかな結婚祝いをしたいと言うブリギッドに招かれた。
「無事の帰還何よりだ、ハロルド」
「ビヴァリー! できることなら、私も式に参列したかったわ」
並んで座るブリギッドとジェフリーの間には、まだ微妙な隙間があるようだが、毛を逆立てた猫とうっかり猫を怒らせたことに怯える犬、という図には見えない。
(喧嘩はしていないみたい……それにしても、すごく美味しそう……)
早い時間に昼食を取ったきり、途中でスコーンを齧っただけのビヴァリーは、何でも食べられそうなくらい空腹だった。
お腹が鳴らないように腹筋に力を入れながら、素敵な焼き色を持つパイや瑞々しいキュウリの挟まったサンドイッチ、ジャムとクリームという魅力的な中身を覗かせているバンズなどを凝視していると、ブリギッドが「好きなだけ食べて」と勧めてくれた。
「ジェフリー……後で、話がある」
ハロルドもビヴァリーと同じくほとんどまともに食べていないはずなのに、空腹を感じていないのか、素敵なお茶うけたちには見向きもしなかった。
「惚気ではないようだが……何かな?」
引きつりながらも笑みを返すジェフリーに、「百回くらい懺悔しなきゃならないくらいの罪悪感に襲われてのた打ち回る件についてだ」と答える。
サンドイッチを頬張っていたビヴァリーは、慌てて呑み込むと口を開いた。
「あ、あの、申し訳ありませんっ! ジェフリー殿下。結婚式で、結婚しなくてもいいと説明するために、ジェフリー殿下に聞いたお話を司祭様に説明しようとして……」
ジェフリーを巻き込んではいけないと思って説明しようとしたところ、ハロルドに遮られた。
「言わなくていい、ビヴァリーっ!」
「結婚しなくてもいい? どういうことなの、ビヴァリー。結婚式は無事、終わったのよね?」
ブリギッドのグレイッシュグリーンの瞳がキラリと光る。
「え、あの……」
無事と言っていいものかどうか、返答に詰まるビヴァリーに代わってハロルドが答えた。
「ブリギッド妃殿下。色々と予定外のことは起きましたが、無事、婚姻は成立しました」
「私は、ビヴァリーに訊いているのです。控えなさい」
その場を凍り付かせるブリギッドの冷ややかな怒りに、ジェフリーがごくりと唾を飲み込み、控え目にハロルドを援護した。
「ブ、ブリギッド。夫婦のことは他人にはわからないものだ。雨降って地固まるという言葉があるように、ブレントリーでは嵐の後は快晴になると……」
「コルディアでは、嵐の後は川が氾濫し、橋が流されることもしばしばです」
「…………」
「ビヴァリー? 正直に話して頂戴。悪いようにはしないわ」
ハロルドが青ざめているところを見ると、祭壇の前から逃走したことは話してほしくないようだ。
ブリギッドに嘘は吐きたくなかったが、ハロルドが嫌がることをしたいとは思わなかった。
「色々と誤解があって……でも、すべて解決しました。司祭さまの前ではありませんでしたが、私の父の前で誓ったんです。百回くらい懺悔してほしいほど痛い思いはしませんでしたし、馬にも乗っていいと言ってくれましたし、グラーフ侯爵ギデオンさまも歓迎してくださいました。ハル……ハロルドさまは、ギデオンさまの血統なので、いいう……いい夫になってくれると思います」
ビヴァリーは、嘘ではないけれど、避けるべきところは避け、ハロルドのいいところだけを伝えられたはずだと、ブリギッドの様子を窺った。
ブリギッドは、綺麗な弧を描いた眉をさらに弓なりにしたが、納得した様子で頷いた。
「血統は大事だけれど、調教が重要よ? ビヴァリー」
「はい。努力します」
「それで……発表はいつを予定しているの? リングフィールド卿?」
「当分、正式な発表は見合わせるつもりです。今手掛けている案件に、しばらくかかりきりになりそうですので」
無事、ブリギッドの追及を上手くかわせたはずなのに、なぜか冴えない顔つきのハロルドは、ビヴァリーをすぐに社交界へ連れ出す気はないと返答した。
「それは無理じゃないかしら? マクファーソン侯爵令嬢は、あちこちの茶会で『ビリー』の話を吹聴しているわ」
「夜会では、あの陰気な騎手を連れて、おまえが腹黒い女に嵌められたって笑い話をしている」
ジェフリーがブリギッドの言葉に付け足すと、ハロルドの眉間に深い縦皺が刻まれた。
自分が幸せになることよりも、人を不幸にすることにやりがいを見出すコリーンなら、平気で真実を嘘で塗り固め、なかったこともあったと言い出しそうだ。
ナサニエルが何をしたいのかはわからないが、自分の持ち馬でレースに出るのでなければ、馬主に気に入られなければ乗せてもらえない。ご機嫌を取ることは十分あり得る。
ビヴァリー自身の経歴は、とてもあるべき貴族の令嬢のものとは言えないし、労働とは無縁の上流階級の人々にとっては、軽蔑に値するようなものだろう。
そのことで、ハロルドやギデオンが悪く言われたり、馬鹿にされるのは嫌だったけれど、ビヴァリー自身は恥ずかしいことをしていたとは思っていない。
ビヴァリーにとって恥ずかしいこととは、お金がないことではない。
それは、伯爵夫人になろうと侯爵夫人になろうと、変わらない。
できることなら、悪意ある噂ではなく、ハロルドやビヴァリーの言葉を聞いてほしいけれど、貴族社会では不可能なのかと思うと悔しくて、悲しかった。
ハロルドやギデオンは、たくさん自分を助けてくれているのに、ビヴァリー自身は二人を助けるどころか迷惑をかけているだけのような気がする。
「隠せば隠すほど、人々の憶測を呼ぶものよ。どうせわかってしまうことなのだから、いっそのこと派手に公表してはどうかしら? そのほうが、裏であれこれ言い難い。デビュタントの集まる舞踏会で跪いて愛の告白でもすれば、完璧ね。そうね……ビヴァリーのために、馬の恰好をしたらどうかしら?」
「ハロルドなら、馬でも絵になる」
すかさずブリギッドに同意するジェフリーをハロルドが睨む。
「当然、おまえが後ろ脚の担当だろうな? ジェフ」
「あー……それはどうかな? 私はブリギッドの馬になりたいのでね」
「私は、一流の馬にしか興味がないの」
ブリギッドはにべもなくジェフリーの願いを却下した。
「一応、私も血統的にはなかなかのものだと思うんだが?」
食い下がるジェフリーに、ブリギッドは話しても無駄だというような視線を向ける。
「いくら血筋がよくとも、名馬になるとは限らないし、私は馬を育てるよりも乗り回したいの」
「それは……当て馬と戯れろと言うことかな? ブリギッド」
「あら。当て馬は牡馬よ? 私が戯れなくてはならないようね?」
「ブリギッドっ!」
悲鳴を上げて立ち上がったジェフリーを見上げ、ブリギッドはにこりともせずに答える。
「冗談よ。それに、当て馬はしょせん当て馬よ。本命ではないわ」
「でも、代役を果たすことも……?」
心なしかジェフリーは震えているようだ。
「いつまでも本命と上手くいかなければ、そうなるわね」
「……そんなことは、認められないっ! 権利は夫にある!」
「でも、妻の同意が必要よ。無理やりなんて、野蛮だわ」
「野蛮……」
ふらりとよろめいて椅子に座り込んだ血統だけはこの国一番である王子様は、ハロルドを見つめて憎々しげに呟いた。
「おまえのせいだ。おまえがビヴァリーに野蛮なことをして、純真無垢なブリギッドの耳を汚したんだっ!」
「なっ……ジェフっ!」
ハロルドとジェフリーが互いに罪を擦り付け合い、言い争っている様子を見ながら「似ていないと思っていたけれど、類は友を呼ぶのね」と溜息を吐いたブリギッドは、ふと何かを思いついたように、ビヴァリーを見た。
「ねぇ、ビヴァリー。ブレント競馬場でのレースは王族も観戦するし、もちろん馬主として馬を出走させるのよね?」
「え。ええ、はい。ジェフリー殿下は馬を持っていませんが、ほかの王子様たちと国王さま、王妃さまも一頭ずつ持っていますし、きっと出走させるはずです」
「貴族も参加するの?」
「はい。中には、馬主が貴族以上の身分でなければ出走できないレースがあります」
「ビヴァリーも出るの?」
「いいえ。ブレント競馬場のレースは毎年同じ時期、来月開催される予定ですが、ドルトン……アルウィンの種牡馬の他の子どもはまだ一歳で、調教中ですので出られません」
ビヴァリーが用意した牝馬からドルトンの子が生まれてはいるが、まだ一歳のためレースには出せなかった。
「アルウィンは?」
アルウィンは、ビヴァリーが牝馬を手配する前に、ドルトンの種牡馬としての能力を確かめるため、ギデオンが元々所有していた牝馬に産ませた馬だ。
ビヴァリーが望んだ交配ではなく、だからこそギデオンはブリギッドに贈った。
もちろん、自分が選んだ牝馬から生まれた子でなくとも、ビヴァリーはアルウィンが好きだし、素晴らしい馬だということに変わりはない。
「そうですね。牡馬、牝馬、馬齢などで出走可能なレースが分けられていますから、三歳馬のレースに出られると思います。三歳馬には、人気がある馬がたくさんいます」
そうは言っても、アルウィンなら初出場でもたいていの馬には勝てるだろうとビヴァリーが太鼓判を押すと、ブリギッドはグレイッシュグリーンの瞳を輝かせ、小さな唇を綻ばせた。
「いいわね……ぴったりだわ」
嬉しそうな笑みは、先ほどジェフリーを冷たくあしらっていたのと同一人物とは思えないほど、愛らしい。
(かわいい……かわいすぎるんだけど……)
ビヴァリーがときめく胸を押さえていると、ハロルドの顔を押しやっていたジェフリーもうっとりしたように見つめていた。
「ビヴァリー。出るわよ」
「……はい?」
「リングフィールド伯爵夫人――未来のグラーフ侯爵夫人が最も注目を集めるレースに出るなんて、新聞のトップ記事間違いなしの大ニュースよ」
「……あの」
ブリギッドは、ビヴァリーの手を握りしめて力強く命令した。
「ビヴァリー。私のアルウィンに乗ってブレント競馬場で開かれるレースに出なさい。もちろん、出るだけではダメ。必ず、優勝するのよ!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます