第38話 嵐は海の向こうからやってくる 4
「ビヴァリーっ!」
王都郊外にある、貴族や王族などが使う広い馬場でアルウィンの調教をしていたビヴァリーは、聞き覚えのある声に振り返り、テレンスの横で大きく手を振るマーゴットの姿を見つけた。
「マーゴット!」
ビヴァリーの護衛をしてくれているテレンスが、ここに来れば会えると教えたのだろう。
アルウィンは警戒する様子を見せたものの、ビヴァリーの指示に従い、ちょっと気取った足取りで二人の傍まで歩み寄る。
「どう? 調子は?」
馬を降りたビヴァリーとアルウィンを見比べるマーゴットに、心配いらないと頷いて見せる。
「いいよ。ギデオンさまのところで調教していたこともあって、アルウィンはもともとバランスがいいし」
グラーフ侯爵領は丘が多く、普通に走らせるだけでも自然と耐久力がつく。
それに加えて、アルウィンはドルトンの特徴でもある瞬発力と圧倒的な脚力を受け継いでいる、文句なしの名馬。レースにまったく出たことのない箱入りだけれど、先日のナサニエルとのマッチレースはいい経験になっているはずだ。
この二週間、みっちり調教しているが日に日に状態がよくなっていくのがわかる。
いたずら好きな面も見せてくれるし、気を許した相手にはまるで別の馬のように甘えるのは、ドルトンと似ている。
「でも、レースに出たことないんでしょう?」
マーゴットの問いに、アルウィンが「それがどうした」と言いたげに、鼻を鳴らして抗議する。
「勘がいいから、大丈夫。私の言うこともちゃんと聞いてくれるし」
「つまり、あの偽物天使様とは大違いってわけね」
マーゴットのハロルド嫌いはなかなか治りそうもない。
そのうち、美味しいお菓子持参でご機嫌伺いに連れて行ったほうがいいかもしれないと思いながら、ビヴァリーは調教の成果は着実に発揮されていると説明した。
「ハルも、最近は言うことを聞いてくれるの。この前も、新しい乗馬服を買おうとするから、よそ行きのは一着あれば十分だって言ったら、ハルが昔着ていたものをくれたの」
今ビヴァリーが着ているのは――ラッセルのハンチング帽はそのままだが――ハロルドが少年時代に来ていた乗馬服だ。
ジャケットはどこも擦り切れていないし、ズボンもちょっと大きいくらいでぶかぶかじゃない。しかも、シャツはシルクだ。
ビヴァリーにしてみたら、これも十分よそ行きだったけれど、あまり断ってばかりいるとハロルドの機嫌が悪くなるのでありがたく貰うことにした。
「サイズも直そうかって言われたんだけど、気になるほどじゃないから」
少し大きめではあるが着心地がよくて気に入っていると言うと、マーゴットは疑いの眼差しを向ける。
「言うことを聞いているのは、餌が欲しいからじゃないの?」
「餌……?」
首を捻ったビヴァリーに、テレンスが「鼻の先にぶら下げるには少々大きすぎるものだ」とヒントをくれるが、思い当たらない。
「ハルが王宮で仕事中に何を食べているかはわからないけれど、家で食べる料理はそんなに量は多くないと思う。すごく美味しいのに、デザートもあんまり食べないし……」
マーゴットは首を振りながら溜息を吐いた。
「餌はあんたよ、ビヴァリー」
「えっ」
「ああいうのに限って、ガツガツしてるんだから! ちゃんと気を付けてるんでしょうね? あの、種馬はっ!」
「ガツガツ……」
確かに、ハロルドは毎晩ビヴァリーと一緒のベッドで眠っているけれど、ただ寝ているだけだ。
「でも、今はガツガツしていないけど……?」
「…………何ですって? 一緒に寝ていて、何もしないってことっ!?」
ビヴァリーは、何となくマーゴットの横でなぜか大きな手で耳を塞ぎ、視線をさまよわせているテレンスを見た。
「テレンスさんは……何かするの?」
一応、ちょっとだけ声を小さくして尋ねてみたのだが、マーゴットが甲高い声で叫んだ。
「何言ってんのよっ! 人外をベッドに入れたことなんかないわよっ!」
「じ、人外っ!?」
耳を塞いでいたはずなのに、聞こえていたらしいテレンスが叫ぶと、アルウィンがガッと前脚で地面をかいた。
ざくざくと地面をひっかくアルウィンの眼差しは「やかましい」と言っている。
「す、すまん……」
「ビヴァリー……私とテレンスがそういう関係だと思ってたの?」
マーゴットはどうやったらそんなふうに思えるのだと、呆れた表情でビヴァリーを睨む。
「……違うの?」
「違うっ!」
「違わないっ!」
同時に正反対の答えを叫んだ二人に、ビヴァリーはアルウィンと顔を見合わせた。
「テレンス。いつ、私とあんたがそういう関係になったのよ?」
マーゴットは、「違わない」と叫んだテレンスを見上げる。
「家に連れて来たときから、そういう関係だと思っていた……」
テレンスは、「違う」と叫んだマーゴットを見下ろす。
「連れて来たんじゃなく、誘拐してきたんじゃないのっ!」
「いや、しかし、一応回復してからについては同意の上で……」
「同意の上で家事をしていただけでしょうっ!? キスもしてないでしょうがっ!」
「そういうことは、結婚してからでよいと思っていた。俺は、少佐と違って手が早くはない」
「で? いつ結婚する気だったわけ?」
「それは……」
言葉に詰まったテレンスは、逞しい筋肉ではち切れそうなズボンのポケットから、うっかりすると太い指のひと捻りで潰してしまいそうな繊細な金色の指輪を取り出した。
マーゴットの瞳と同じ、青いサファイアと思われる小さな石が申し訳程度に付いているが、逆にそれが派手に見せびらかさなくとも自分の美しさは知っているマーゴットらしいとビヴァリーは思った。
「……今日だ」
マーゴットは、サファイアと同じ青い瞳を見開いた。
「あんたねぇ……馬鹿じゃないの? 許可書もなしに、どうやって結婚するのよ!」
「許可書は……ある」
「は?」
「すでに……用意してある。用意して……知り合いの司祭にも渡してある」
額を押さえたマーゴットがビヴァリーに視線を向ける。
「……なんだか、ビヴァリーと同じ運命を辿っている気がするんだけど」
同感だ、とビヴァリーが頷くと、テレンスは真面目な顔で訴えた。
「だから、俺は少佐とは違う! 先に手は出していないっ!」
「それなのに、結婚許可書を用意しているほうが恐ろしいわよっ!」
マーゴットに叱られたテレンスは「いくら何でも、誰彼かまわず家に連れて行ったりはしない……」と小さな声で抗議した。
「本当に、もう……こんなことのためにわざわざ王都の外れまで来たんじゃないのに」
ふうっと大きく息を吐いたマーゴットは、手にしていた小さな鞄から折り畳んだ紙を取り出して、ビヴァリーへ渡した。
「偽物天使様のお眼鏡にかなうかどうかわからないけれど、出来たわよ。妃殿下とその馬とあんたの記事。明日掲載予定。挿絵は……見てのお楽しみね!」
試し刷りなのか、あちこち汚れていたが、びっしりと文字で埋めつくされた紙面には、『妃殿下の騎士は、未来のグラーフ侯爵夫人! 悲劇によって引き裂かれた恋人たちを馬が結び付ける』という何とも恥ずかしい見出しがついている。
「五年前の火事のことについては、あんたが父親の死について今でも事故だと信じられずにいること、母親に会いたいと思っていることを書いてあるだけよ。主に、あんたと偽物天使様の運命の出会いやマクファーソン侯爵家での手に汗握る嵐の中でのレース。ビヴァリーがこれまで劇的な勝利を収めたレースに、あんたに自分が乗る馬を買えって言われたおかげで大金持ちになった人のインタビュー。妃殿下の馬が偽物天使様とあんたを結び付けたことなんかが、笑いあり涙ありの素晴らしい物語調で書かれているわ。新聞記者に代わって、そのあらすじを書いた劇作家はいつかお芝居にしたいって言ってたわよ」
「……ハルがいいって言わないと思うけど」
「でしょうね。あんたが男だとずっと信じていたなんて、言いたくないものね。あ、でもその記事にはちゃんと書いてあるわよ。ジェフリー殿下が最終チェックをしたときに、書き足すよう指示したらしいわ」
「…………」
明日は、もしかしたらジェフリーの命日になるのではないかと、ビヴァリーは思った。
「とりあえず、今日の夜から明日、最低でも明後日までは王宮内にいたほうがいいわね。タウンハウスに戻るのはやめなさい。野次馬の中に、どんな人間が混じっているかわからないもの」
「うん、そうする」
アルウィンと過ごす時間をできるだけ長く取りたいビヴァリーには、ちょうどいい。
ビヴァリーが王宮に泊まって、朝から晩までアルウィンとだけ過ごしたいと何度言っても頷かなかったハロルドも、今回はきっと首を縦に振るだろう。
「……というわけで、あんたの護衛の仕事は今日の夜からなくなるわね?」
マーゴットは、これで用は済んだと言うように、突っ立っていたテレンスから指輪を奪うと自ら左手の薬指に嵌めた。
「あら、ぴったりじゃないの」
「寝込んでいる間に、測っておいた」
まるで悪いこととは思っていないようなテレンスに、マーゴットは青い瞳をくるりと回して溜息を吐いた。
「メアリとご馳走を作っておくから、早く帰って来なさいよ? テレンス」
「ご馳走……何か祝い事でも?」
真顔で問うテレンスに、マーゴットは「馬鹿じゃないの」と呟いてふいっと顔を背けて歩き出す。
しばらく歩いて、テレンスの手が届かないところまで行くと、くるりと振り返った。
「結婚のお祝いに決まってるでしょっ! でも、式は私が花嫁のドレスを縫い上げてからにしてちょうだい。ビヴァリーがレースで優勝する頃には、出来上がっているはずだから」
「マーゴット…………マーゴットぉぉぉっ!」
咆哮を上げて駆け寄ろうとするテレンスの襟首をアルウィンが齧って引き止める。
「早く帰って来なかったら、あんたの大事なキュウリを引っこ抜いてやるからねっ!」
顔を真っ赤にして叫び、走り去るマーゴットを見送るテレンスは、号泣していた。
「うっ……い、いくら餌をやっても懐かなかった黒猫が……」
(餌って、貢ぎ物のお菓子のことかな?)
どんなに頑なな野生の動物だって、あんなふうに餌を与え続けられたなら、相手が自分を食べる気満々の天敵でも、うっかりその罠にハマるだろう。
ビヴァリーは、テレンスの根気強さと意外な計算高さに感心した。
「アルウィン、もう放していいよ」
泣き濡れるテレンスを放り出したアルウィンは、褒めてくれと言うようにビヴァリーに頭を擦り寄せる。
「うん、おまえは本当に、いい子だね」
マーゴットが見えなくなるとようやくテレンスは泣き止んだ。
「しばらく、王宮から出られなくてもアルウィンに問題はないのか?」
襟と一緒に多少髪も毟られたようだが、元々ふさふさしているので問題はなさそうだ。
「ここ二週間ほどかなり負荷をかけてきたから、ちょっと休憩してもいいと思う。あまり絞り過ぎると接触が不安になるし、アルウィンが戸惑うかもしれないから」
「まぁ、確かにいい馬ばかりが出るだろうな。公式発表はまだだが、マクファーソン侯爵のところの馬も出るらしい。騎手は『死神』だ」
「何本かかけ持ちするかもしれないけれど、アルウィンを出す予定のレースには絶対に乗るだろうね」
「妃殿下に勝負を挑んだことは、知れ渡っているからな。ある意味、今回妃殿下がアルウィンを出すということは、真っ向からその挑戦を受けて立ったということにもなる。負けられないな?」
テレンスの言葉に、怒ったアルウィンがどんとその胸を頭で小突いた。
「うおっ」
「負けるつもりはないよね? アルウィン」
テレンスは、ちらりと雲が増え始めた空を見上げた。
「降り出す前に、王宮へ戻ったほうがいい。ちなみに、新聞記事に追加された内容は、明日の朝まで少佐には黙っておくべきだな」
「知らせておいたほうが、いいんじゃ……?」
「今夜、王宮で出走馬の発表を兼ねた前祝いのようなパーティーが開かれる予定だ。そこで少佐とジェフリー殿下が殴り合いでもしたら困る。まぁ、そうなったら記事の注目度は跳ね上がるだろうが」
相乗効果というものか、とビヴァリーは納得し、だったらやっぱり知らせたほうがいいのではと思った。
「あの、テレンスさん」
見上げただけで、テレンスは首を横に振った。
「やめておけ。今の少佐は、まさに当て馬のように欲求不満で苛ついている。理性を失った少佐に襲われたくないだろう?」
調教はまだ途中だ。暴走したハロルドを完全に止められる自信は、ビヴァリーにはまだない。
自分もハロルドも怪我をしたら大変だ。
「やっぱり、やめておいたほうがいいかも……」
「ああ、そうだ。それから……」
テレンスは、何事か言いかけて止めた。
「それから?」
「いや、何でもない。急いで戻ろう」
テレンスが何を言いかけたのかビヴァリーが知ったのは、王宮に戻った途端、タウンハウスにいるはずの顔なじみの侍女たちに拉致された後だった。
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