第39話 馬も走る前には、準備運動をする 1

「きっと、ハロルドさまも喜ばれます」


「文句なしの伯爵夫人ですわ」


「そ、そう……?」


「ええ!」


 ビヴァリーは、力強く頷く侍女二人に、反論はとても許されなさそうだと思った。


 アップルグリーンの瞳の色より一段濃い緑色のドレスは、滑らかで艶があり、一目で高級とわかる光沢を纏っている。


 肩は覆われているものの、首筋やコルセットで無理やり盛り上げた胸元を大胆に見せるデザインは、何だか心許ない。


 帽子の中でくしゃくしゃになっていたチョコレート色の髪は、丁寧に梳かれた上で先の方がくるくると巻かれていた。

 銀のクローバーの葉とフワフワした白い羽で作られた花を象った飾りで留めれば、ちょっとした貴婦人らしく見える。


 色とりどりの宝石をちりばめたネックレスが可愛らしい馬蹄の形をしているのは嬉しいけれど、どうしてこんな格好をさせられたのかさっぱりわからない。


 王宮へ戻り、いつものようにアルウィンに餌をやったり、ブラッシングしたりしようと思っていたら、厩舎でタウンハウスにいるはずの侍女たちが待ち構えていた。


 ハロルドの執務室の隣の部屋までひきずって行かれ、有無を言わさず服を剥ぎ取られ、恥ずかしがる間もなくこんなことになっている。


「あの……」


「ビヴァリー、準備はできているな?」


 ノックと共にドアを開けて入って来たハロルドは、ちょっとだけ目を見開き、次いで嬉しそうに笑った。


 傍らの侍女たちと一緒に顔を熱くさせながら俯いたビヴァリーに歩み寄ると、いきなり頬にキスした上で、馬蹄のネックレスを指先で弄ぶ。


「古いドルトンの馬蹄を持って帰って来て、同じ形にしてもらったんだ」


 気に入って当然だろうと言うように、ハロルドはビヴァリーの手を取って恭しく甲に口づける。


「これも……指輪は邪魔になるだろうと思って、石を付け替えた。どうせ着飾ったときくらいにしか着けないだろう?」


 手袋の上から着けたブレスレットにはエメラルドが嵌め込まれているが、結婚式の時の指輪からやって来たものらしい。


(代々伝わってきた大事な指輪なんじゃないかと思うんだけど……いいのかな?)


 本当は、その形のまま受け継がれるべきではないかと思うけれど、元々がビヴァリーのものではないので何とも言えない。


「ハル、あの……ありがとう……でも、どうしてこんな恰好をしなくちゃいけないの?」


 ハロルドが、ビヴァリーのことを色々考えて用意してくれたことはとても嬉しかったが、理由がわからないと落ち着かない。


「この後、夜会に出るからだ」


「え?」


 言われてみれば、ハロルドも濃紺の夜会用のテイルコートに、白いシャツと蝶ネクタイをし、胸元のチーフは緑。ビヴァリーのドレスとお揃いのものを身に着けている。


「今夜、大広間でブレント競馬場のレースに出走する馬と馬主が発表される。馬主自身が騎手として出場せず、別に騎手を用意している場合は、披露目の意味も兼ねて出席が許されている。既に噂は流れているが、妃殿下の馬が出るということで、みんなビヴァリーに興味津々だ」


「は、ハル……し、新聞に載せるだけじゃなかったの……?」


(レースに出るのもダメ、結婚も公表したくないと言っていたのに……)


 ビヴァリーが突然のことに戸惑っていると、ハロルドは何とも気まずそうな表情になる。


「ビヴァリーがアルウィンの調教のために再び王宮に出入りするようになって、王宮にはたくさん男がいることに気が付いた」


「う、うん? 女の人もたくさんいるけど……?」


「誰も知らなければ、結婚していないと思われて当然だ」


「うん……?」


「結婚していてもかまわず口説く男はいるが、少なくともちょっとは頭が働く男なら、相手を見て喧嘩を売るだろう」


「つまり……?」


「グラーフ侯爵家を相手に喧嘩を売る馬鹿は、そうそういないということだ」


 結局よくわからないと首を傾げていると、ハロルドはやけくそ気味に叫んだ。


ビヴァリーが俺と結婚しているか、新聞の挿絵だけじゃはっきりわからないっ! 公表するなら、間違いのないようにしたい」


 顔を赤くしているハロルドを見ていると、ビヴァリーまで何だか顔が熱くなってくる。


「行くぞ。遅れて行けば行くほど、目立つ。わざわざ来てくれて、助かった」


 叫んだことで恥ずかしさの山を乗り越えたらしいハロルドは、ビヴァリーの手を自らの腕に絡め、侍女たちに礼を言って歩き出す。


(今夜のこと言わなかったのって、絶対わざとでしょ……)


 この準備万端ぶりを見れば、ハロルドはだいぶ前からビヴァリーを出席させるつもりだったに違いない。

 ブリギッドもジェフリーもグルだろう。


「逃げようとしても無駄だ。王宮の門番たちには、見つけ次第捕獲するよう通達してあるからな」


 手際がいいだろうと自慢げに言うハロルドに、ビヴァリーはむっとした。


(いつも逃げてるわけじゃないのに……)


「そんなことしない。今夜、王宮に泊まるし」


 意気揚々としていたハロルドが、首が折れそうな勢いでビヴァリーの方を向いた。


「今、何て言った?」


「明日、新聞に記事が載ったら野次馬が来るかもしれないから、しばらく王宮に泊まったほうがいいんじゃないかってマーゴットが。ハルは、執務室で寝ればいいんじゃないかな? 私は、厩舎の上にある部屋が空いているから、そこに泊まらせてもらうつもり。アルウィンとも一日中一緒に過ごせるし、ちょうどいいと思うの」


「……厩舎の上?」


「馬丁の人たちが住んでいるところ」


「……あそこは、男ばかりだろうっ!?」


 ビヴァリーのほうを見ながら、躓くこともなく歩き続けるハロルドの器用さに感心しつつ、頷く。


「女の人はいないかも。でも、みんな女の人より馬が好きだし」


「そういう……そういう問題じゃないっ!」


「じゃあ、アルウィンと一緒に寝ることに……」


「一人で寝るなど、絶対にダメだっ!」


(でも、ハルは藁の上で寝るなんて無理だと思うけど……)


 ビヴァリーが、いつも柔らかなベッドで寝ているハロルドには、馬房の藁の寝心地は耐えられないのではないかと思っていると、廊下の向こうから歩いてくるジェフリーとブリギッドに行き合った。


「おや、ハロルド。今回は、逃げられなかったようだな?」


「おまえもな」


 大広間へ向かって並んで歩きだしたが、さっそくジェフリーとハロルドは舌戦を開始する。

 やり合う二人をよそに、ブリギッドはビヴァリーの装いを褒めてくれた。


「ビヴァリー、とても素敵なドレスね?」


「ありがとうございます。あの、ブリギッドさまも素敵です」


 ブリギッドは、紅色のドレスを纏っていた。


 下手をすれば下品にも見えかねない鮮やかな赤も、妖精のように可憐なブリギッドが着れば大人の女性の一歩手前のような、なんとも危うい雰囲気を漂わせる。


 ストロベリーブロンドの髪は緩く結い上げられ、顔回りに残された髪がふわふわしていて、触ってみたくなる危険な代物に仕上がっている。


(かわいい……)


 ビヴァリーの感想はジェフリーの感想そのままらしく、ハロルドと軽口を叩きながらも、揺れる巻髪に触れようとして、ブリギッドに扇でぴしゃりと手を叩かれていた。


 豪奢な羽飾りが付いている繊細な扇が、なぜか鞭のように見える。


「明日の新聞が楽しみね?」


「はい。マーゴット……あの、友人に試し刷りのものを見せてもらったんですけれど、すごくいいお話になっていました」


「そうだろう? いずれ小説か劇にすべきだと思う」


 ジェフリーの言葉に、ハロルドが「冗談じゃない」と噛みつく。


「個人的な話を面白おかしく仕立て上げられるなんてごめんだ」


「すでに十分面白い話をつまらない話にするほうが難しい」


「面白いだと……?」


 大広間への入り口を目の前にして、ハロルドは口をつぐんだ。


「ジェフ。俺たちが先に入るから、少し待ってくれ」


「面倒だ。一緒でいいだろう?」


 きちんと順番を守ろうとするハロルドに、ジェフリーはさっさと行けと顎を上げた。


 渋々ハロルドが従い、ずらりと並ぶ形で大広間へ入った途端、仰々しく紹介され、人々の視線が一気に集まる。


 何となく、競馬場で大勢の観客の前に曳き出された馬のような気持ちになり、ついハロルドの腕に添えたビヴァリーの手に力がこもった。


 一人として、みすぼらしい恰好をしている人はおらず、ビヴァリーのように場違いな思いをしている人もいないだろうと思った。


 絵画のような美しい貴婦人たちが扇の陰で囁き、尊大な紳士たちは値踏みするような視線を向けて来る。

 どの顔にも笑みが浮かんでいるが、それは歓迎の温かい笑みではないように思われた。


「大丈夫よ、ビヴァリー。調教済みではない馬でも、少しは役に立つはずだから」


 ブリギッドは、そんなビヴァリーの緊張を見て取ると、手にした扇でジェフリーとハロルドを指す。


「どっちの馬のことかな? ブリギッド」


「両方よ」


「発表が終わったら、さっさと切り上げればいい。あとは、くだらない社交辞令の応酬だから」


 用が済めば帰ってもいいのだと言うハロルドに、そんなに長い時間でないのなら頑張れそうだと頷く。


(ハルが一緒だし、大丈夫)


 深呼吸したビヴァリーは、せっかくなのだから楽しまなくては損だと、初めて足を踏み入れた大広間の様子を見回して、感嘆の溜息を漏らした。


 天井には美しい絵画が描かれ、いくつものシャンデリアがきらきらと輝きながら柔らかな光を人々の上に投げかけている。


 たくさんのドレスの裾で撫でられている石床は、歪んだところも欠けたところもなく、磨き抜かれて鏡のようだ。


 優雅な音楽に交じるざわめきは、決して耳障りなものではない。


 ほどなくして国王夫妻が現れると、高齢の国王に代わって王太子である第一王子が、王家の主催で開かれるブレント競馬場のレースについて、出走馬と馬主、騎手の名をさっそく読み上げ始めた。


 発表されるたびに拍手が起き、朗らかな笑い声があちこちから上がる。


 知っている馬の名前を耳しているだけでレースへの期待と興奮で緊張も忘れ、ふと視線を巡らせたビヴァリーは、広間の隅で壁に寄りかかるようにしてワインを飲むナサニエルを見つけた。


 その傍らには、身を寄せるコリーンがいる。


 鋭い眼差しを向けるナサニエルに気付いたコリーンが、ビヴァリーを見て、青い瞳に嘲るような光を浮かべた。


「氷から生まれた女みたいね」


 ブリギッドの感想の通り、薄い青のドレスを纏ったコリーンの冷たい美しさは、氷そのものだ。


 マクファーソン侯爵はほとんどのレースに参加するらしく、そのうち半分以上にナサニエルが乗ることになっていた。


 やがて、アルウィンとブリギッド、そしてビヴァリーの名も読み上げられたが、拍手と共に笑い声ではなくどよめきが広がった。


 ブリギッドは、「きっと、ビヴァリーとは誰だと思ってる人も多いんじゃないかしら」と肩を竦めた。


 すべての出走馬が書かれた紙が侍従の手によって広間の一角に貼り出されると、人々が押し寄せ、覗き込み、口々に予想を主張して、俄かに騒がしくなった。


 紳士淑女の集まりのはずだが、競馬場で賭け屋に群がるギャンブル狂とそう変わらない。


「ビヴァリーの名前には、ちゃんとリングフィールド伯爵夫人という肩書きを付け加えておいたぞ、ハロルド。まぁ、わざわざ言わなくとも、一目瞭然だと思うがね」


 ジェフリーの言う通り、ハロルドの元へ大臣や伯爵、侯爵といったビヴァリーにとっては雲の上の存在の人たちが、次々と祝いの言葉を述べにやってくる。


 ハロルドと公私共に面識のある人々ばかりということもあり、ビヴァリーに居心地の悪い思いをさせるような眼差しを向けたり、不躾な質問をしたりする人はいなかった。


 わっとハロルドを取り囲むようにして殺到した士官学校の友人だという青年たちは、手短に祝いの言葉を述べた後「いったいどこに隠していたんだ?」と軽口まで叩く。


 ハロルドは「おまえたちが見つけられない場所だ」と答え、肩をぶつけてくる青年らを小突き、キスするために、ビヴァリーの手を捕えようと伸びて来る手を叩き落とすことに余念がない。


 賑やかな青年たちとハロルドの気安い遣り取りを聞きながら、ジェフリーとブリギッドのほうに目を遣ると、そちらには行儀のよい紳士や淑女が群がっていた。


 ちょうど、背の高い痩せた鷲鼻の男が恭しくブリギッドの手に口づけているところだったが、ビヴァリーはその男が唇に嫌な笑みを浮かべているのを見て、つい顔をしかめてしまった。


(何だか、嫌な笑い方……)


 そう思ってしまったことが伝わったのか、挨拶を終えた男と目が合った。


 男は、ビヴァリーに近付いてくることはしなかったが、薄い唇の片側だけを引き上げるように微かな笑みを浮かべた。


(何……?)


 知り合いではないはずなのに、男の眼差しはまるでビヴァリーを知っていると言いたげだ。


「ビヴァリー、どうかしたか? 疲れたか?」


 ハロルドに、あの男は誰なのか訊いてみようと思ったが、一瞬目を離した隙に、その姿は大勢の人の中に埋もれてしまっていた。


(きっと、気のせいだよね。だって、こんなところにいる人たちで知り合いなんていないもの……)


「ううん、何でもない。大丈夫」

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