第40話 馬も走る前には、準備運動をする 2
「リングフィールド卿。お祝いを述べさせてくれるかね?」
(紹介された全員の名前と顔を覚えるのは、無理……)
ビヴァリーが記憶力も限界だと諦めかけていたところへ、談笑する人々を押し退けるようにして、マクファーソン侯爵が現れた。
ハロルドはやや表情を強張らせたものの、あくまでも礼儀正しい挨拶を返す。
「恐縮です」
「コリーンから、先日の狐狩りで結婚を決心したようだと聞いている。こちらこそ、喜ばしい出来事に少しでも役に立てたのなら、光栄だ」
ビヴァリーは、あの夜のことをすっかり知られているのだろうと思うと、消え入りたいくらいの恥ずかしさに襲われたが、ハロルドは涼しい顔で礼を述べた。
「こうして、ビヴァリーと結ばれたのもコリーン嬢のおかげです。ぜひ、お礼をしたいと思っています」
「ところで、このことはビヴァリーの母親――デボラも知っているのかね? 確か、ブレントリーにはいないと聞いた気がするんだが……」
「いいえ、残念ながらまだ……行方を探してはいるのですが」
「それはいかん。真っ先に知らせるべきだ。しかし、結婚については喜んでも、競馬のレースに出るというのは喜ばないかもしれないな。折角、こうして幸せを掴んだというのに、花嫁が落馬して命を落とすようなことになってはいくら後悔してもしきれんだろう? リングフィールド卿」
さも心配だと言うような顔でマクファーソン侯爵が口にした言葉は、まるで脅しのようだった。
「ええ。ただ……レースの最中だけ気を付ければいいというものでもないでしょう。馬に乗っていなくとも、思いがけない出来事で命を落とすことはある。それに……私は、ビヴァリーの勝利を信じていますので」
きっぱりと言うハロルドは、腕に添えられているビヴァリーの手を上から覆うようにして包み込んだ。
「なるほど。随分と自信があるようだ。私の馬には負けないと?」
「何事もなければ、妃殿下の馬とビヴァリーが勝つでしょう」
「私も同感だ」
一触即発の雰囲気を漂わせながら、冷ややかに睨み合う二人の間に割って入ったのは、ジェフリーだった。
「王家主催のレースで何かあっては、王家の恥だからね。十分、安全には配慮する。特に、アルウィンの出るレースで何か起きたなら、我が愛しのブリギッドの心臓が止まってしまうかもしれない。そんなことになったら、私も生きてはいられないからね」
大げさに愛を語るジェフリーに、ブリギッドは今にも真っ二つにしそうなほど扇をきつく握りしめていたが、何とか笑みを保って答えた。
「その通りですわ、殿下。私も、愛するアルウィンとビヴァリーに何かあったら、生きてはいられませんもの」
そんな二人の様子を見ていたマクファーソン侯爵は、胸を押さえて首を振った。
「まったく……妃殿下は、心が広いですな。私の娘にも、ぜひ見習ってほしいものだ。家族を殺した相手の口車に乗せられ、身売り同然に敵国へ嫁がされても、少しも恨むことなく、常によき妻、よき妃であろうとする忍耐力は素晴らしい。妃殿下が男であったなら、我がブレントリーは未だコルディアに苦しめられていたことだろう。そうは思わんかね? リングフィールド卿」
「…………」
ハロルドから立ち上る怒気を感じたビヴァリーは、とっさに何か言わなくてはと思ったが、ブリギッドが先に口を開いた。
「何か、誤解があるようですが……ブレントリーに敗北を喫した時、コルディアの民たちは長引く戦と不作から飢えに苦しみ、余力のあるものは国を捨て、そうでないものは死を待つのみの状態でした。ジェフリー殿下に嫁ぐ代わりに、飢えた民に食料を届け、崩壊したコルディアを建て直す資金を投入してくれるという話を断る理由など、どこにもありませんでした」
ブリギッドは、淡々としているからこそ、深い怒りを感じさせる口調で説明を続けた。
「確かに、男だったなら、コルディアのために武器を取って戦ったのにと、無力な自分を何度も嘆いたことは認めます。リングフィールド卿は、コルディアにとって手強い敵であり、既に回復の見込みもないほど病み衰えていたコルディア王家に止めを刺した人物です。しかし、私が身を売ったのは、冷酷な悪魔ではなく慈悲深い天使だったと、今では思っています。私にコルディアの民を救う力を与えてくれ、私を愛してくれる素晴らしい夫と巡り会わせてくれただけでなく、何も持たない私のために、自分が一番大切にしているものさえも差し出してくれるのですから」
そこまで言うと、ブリギッドは優美な弧を描く眉を少し引き上げ、傍らで珍しく険しい表情をしているジェフリーを見上げた。
「殿下」
「何だい? ブリギッド」
マクファーソン侯爵の悪意から守るように腰を抱いて引き寄せたジェフリーを扇の鞭で叩くことなく、ブリギッドは赤い唇を綻ばせて微笑んだ。
「すっかりお伝えするのが遅くなってしまいましたけれど……実は、コルディアまで初めて会いに来てくださった時、馬から転げ落ちそうになった殿下を見て、ひと目惚れしたのです」
ジェフリーはしばらくの間、息をするのも忘れているのではないかと思われるような表情で、恥ずかしそうに扇で赤くなった顔を隠すブリギッドを見つめていたが、ぽつりと呟いた。
「妖精を目にするのは初めてだったので、とても驚いたんだ」
ブリギッドが「頭は大丈夫か」と言いたげな視線を向けると、扇の陰に隠れるようにして素早くキスをする。
すかさず閉じた扇でジェフリーを叩こうとしたブリギッドを笑いながら抱きしめたジェフリーは、まさに有頂天だった。
「傲慢な悪魔のような天使も、たまには本物の天使らしいことをしてくれる」
ハロルドは、ようやく報われたジェフリーに同情したのか、文句も言わずに黙っていた。
「あの狐狩りの後も、お二人の仲は変わりないという話を耳にしていたのですが、どうやら根も葉もない噂だったようですな」
マクファーソン侯爵が上ずった声で取り繕うと、ジェフリーはもがくブリギッドをがっちり抱え込みながらにこやかに返す。
「ブリギッドはこの通り、とても繊細で恥ずかしがり屋でね。あまりうろたえさせたくなくて、極力礼儀正しく振舞っていたせいで、余計な噂が流れてしまったようだ」
「そのようですな。次は、妃殿下がご懐妊という喜ばしい噂が流れることでしょう。リングフィールド卿にも同様に」
「そうですね。願わくば、そうありたいものです」
「ビヴァリー。デボラについて、私もラッセルの知り合いや知人に行方を尋ねてみよう。家族に隠し事があってはいけない。何かわかったら、連絡する」
その連絡は、不穏なものを引き連れてやって来るかもしれないと思いつつ、ビヴァリーはぎこちない笑みを返した。
「ありがとうございます。いい知らせを待っています」
マクファーソン侯爵が会話を聞き取れないほど十分離れてから、ようやくハロルドは大きく息を吐いた。
「人を不愉快な気分にさせる腕は、この国で一番だな」
それでも、昔のように癇癪を起したりしないだけマシだと思いながら、ビヴァリーもほっと息を吐く。
その場に漂っていた緊迫した空気は、ブリギッドに脇腹をつねられたジェフリーの情けない悲鳴で和らいだ。
「いっ……ブリギッド、痛い!」
「もう……いい加減離れてもいいでしょうっ!? これでは、仲睦まじく寄り添っているのではなく、見境なく絡み合っているだけですっ!」
「いやいや、見境なく絡み合うには、もうちょっと密着しないと……」
「殿下っ」
「うっ! そ、そこを攻撃するのは……。いつになったら、ジェフと呼んでくれるんだい?」
涙目になりながら、渋々拘束を解いたジェフリーが尋ねると、そのみぞおちにぐいぐいと扇を押し込めていたブリギッドはつんとそっぽを向いた。
「気が向いたらです」
「……どうすれば、気が向くのかな?」
「それくらい、ご自分で考えてくださいっ」
「考えるより聞いたほうが早い……」
「考えることに意味があるのですっ!」
相変わらずだけれども、ビヴァリーが最初に出会った頃よりはずっと親しげな二人の様子を微笑ましく思っていると、年配の男性が足早に近づいて来て、ハロルドに何かを耳打ちした。
軽く頷きながら鋭い眼差しで広間を見回すハロルドの様子に、少し離れていたほうがいいのではないかと思ったビヴァリーは、華奢な靴に押し込められた足の痛みを和らげたい気持ちもあって、その袖を引っ張った。
「ビヴァリー?」
「ハル、あの辺に座って待っていてもいい? 足が痛くて……」
少し年配の夫人たちが壁際に寄せられた椅子に座ったりしているから、そうしていいかと尋ねると、ハロルドは表情を曇らせた。
「一人にはさせられない」
ジェフリーとブリギッドが、再び次から次へと挨拶に来る人たちに笑みを振りまくのに忙しくしているのを見て、わいわいと騒いでいる士官学校の友人を呼びに行こうとするのを慌てて止める。
「こんなところで、何かする人はいないでしょう? 逃げ出したりもしないから」
「こんなところだからということもある」
「ハル……お願い?」
「…………」
じっと見つめると、ハロルドはやがて悔しそうな表情になり、偉そうに命じた。
「何かあったら、すぐに呼ぶんだ。いいな?」
ビヴァリーを椅子まで導き、すぐ傍の床まである窓を押し開けて、先ほど話していた男性と二人でテラスへ出て行く。
ビヴァリーは細心の注意を払って椅子に腰を下ろし、深々と息を吐いた。
(はぁ……どうしてみんな、こんな窮屈な恰好をずっとしていられるんだろう。拷問みたいなんだけど……)
お尻のあたりを膨らませたデザインのせいで、深く腰掛けられず、座り心地は良くないが、足の痛みは激減した。
(こっそり靴を脱いでも見えないよね……?)
俯き、ドレスの中でそろそろと靴から足を引き抜こうとしていると、ふと頭上が翳った。
ハッとして慌てて足を靴に突っ込んで顔を上げたビヴァリーは、目の前に黒い壁を見て、危うく悲鳴を上げそうになった。
「飲み物はいかがですか?」
そこに居たのは、少しおどおどした様子のビヴァリーと同じくらいの年頃と思われる、若い給仕係だった。
「え、あ、あの……お酒じゃないものはありますか?」
「りんご酒でもよろしいでしょうか? さほど強くはないかと……」
「はい」
差し出されたトレイからグラスを受け取ったビヴァリーは、小さく折り畳まれた紙片がトレイの上にあることに気が付いた。
「これ……?」
青年を見上げると、青ざめた顔で微かに震えていた。
「どうか、受け取ってください! でないと、後で何をされるかわからないんですっ」
押し殺した声で懇願され、言われるままにビヴァリーが紙片をつまみ上げると、青年はあっという間に身を翻して人波に消えてしまった。
驚き、戸惑いながらも手にした紙片を広げたビヴァリーは、そこに書かれていた言葉を見て思わずぐしゃりと握りつぶした。
心臓が一気に鼓動を速め、カッと身体が一瞬熱くなった後、急激に血の気が引いて行く。
ごくりと唾呑み込み、辺りの様子を窺い、誰にも見られていないことを確かめてから、ドレスの襞を直しているようなフリをしつつ、もう一度手の中に握り込んだ紙を広げた。
――明日の夜、厩舎で待つ。
何のために会うのかは、書かれていない。
でも、そこに記されたイニシャルが、待ちわびていた人からの連絡だと示している。
「ビヴァリー、大丈夫だったか?」
「えっ」
いきなりハロルドに呼びかけられ、ビヴァリーは再び紙片を握りしめた。
「誰にも、何もされなかっただろうな?」
ハロルドに言わなくてはと思っているのに、なぜかビヴァリーの口はまったく別の言葉を紡ぎ出す。
「う、うん。りんご酒をもらって飲んでいただけ」
心臓が痛いくらいに早鐘を打ち、背中にじっとりと汗が滲んでくる。
(ハルに、隠し事するのはよくない……よくないけど、でも……)
「本当に、ただのりんご酒だろうな?」
疑い深いハロルドがグラスを寄越せと言うので手渡すと、あっという間に飲み干して、通りがかった給仕係から新たなものを受け取る。
その隙に、ビヴァリーは足の様子を確かめるフリをして、握りしめた紙片を素早く靴の中へ押し込んだ。
「足が痛いんだろう? もう引き揚げよう」
「え、う、うん、でも……」
楽しげな音楽が流れ出し、人々が踊り始めるのが見えた。
踊らなくていいのかとビヴァリーが視線を向けると、ハロルドは首を振った。
「もう十分見せびらかしたから、箱にしまう」
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