第5話 可愛げのない馬は、天使だった 2

「準備はいいですか?」


 ガチガチに固まっている様子のハロルドを振り返り、ビヴァリーは問いかけた。


 本来であれば、後ろにビヴァリーが乗って抱えるようにしたいのだが、ハロルドはビヴァリーよりも背が高かったので後ろに乗せるしかなかったのだ。


「ゆっくり歩くだけですから」


 頷いた顔は青ざめ切ってはいるが、鳶色の瞳には強い光がある。


 馬に跨る様子や馬上での姿勢から、ハロルドが馬に乗ったことがあるのは明白だった。

 落馬したり、馬に蹴られたり、何か嫌な思いや怖い思いをして乗れなくなってしまったのかもしれない。


 馬――ドルトンが動き出した途端に、ハロルドの呼吸が早くなったことに気付き、ビヴァリーは気を紛らわそうと話しかけた。


「ハロルドさまは、おいくつですか」


「十五だ……」


「ずっと王都に住んでいるんですか?」


「ああ……生まれたときからずっとだ。王都から出たことはなかった」


「そうなんですね。私は逆に王都に行ったことがありませんけれど、どんなところですか?」


「どんなって……色んな人が、たくさんいて……店もたくさんあって……どこを向いても建物ばかりで……息が、詰まる……」


 ハロルドの口から紡がれる王都の印象は、否定的だ。


 生まれたときから住んでいるなら、故郷と呼ぶべき場所だろうに、愛着はないのだろうかとビヴァリーは不思議だった。


「ギデオンさまのお屋敷よりも大きい建物がいくつもあるんですか?」


「街中は混みあっているからさほどないが、王宮はああいう建物がいくつも繋がっている。この馬場よりも広い庭がいくつもある」


「へぇ……じゃあ、乗馬も出来そうですね」


「……そんなことをしたら、庭師に袋叩きにあう」


 王宮の庭は何十人もの庭師が丹精込めて世話をしており、枯れた花や葉をそのままにしておくことも許されず、いつでも美しくなければいけないのだと言うのを聞いて、ビヴァリーは首を捻った。


「落ち葉や枯れ葉も綺麗だと思うけれど、作り物の庭では邪魔なのかな……」


「王都では、完璧なもの以外は排除されるんだ」


 静かに告げるハロルドの言葉を聞いて、ビヴァリーは心底驚き、思わず振り返った。


「えっ……じゃあ、誰も住めないじゃないですか」


 ドルトンも驚いたのか、足を止めて耳をこちら側へ向けている。


 ハロルドもまた、なぜか驚いたような顔をしてビヴァリーを見下ろし、問い返す。


「誰も住めないとは……?」


「だって、完璧な人なんて見たことがないから。父さんはぜんぜん貴族らしくなれないし、母さんは思い通りにならないとキーキー叫ぶし、家庭教師は間違ったら叱るくせに、どうして間違うのか理由を聞いてくれないし。町の学校に通っていたときに教えてくれていた司祭さまは、いつもお祈りの途中でつっかえていたし」


 唯一、『馬』は完璧な生き物だと思っているけれど、こぼれ落ちそうなほど目を見開いているハロルドにそんなことを言ったら、馬鹿じゃないかと思われそうだ。


 王都の人は違うのかもしれないと思いながら、さらに付け足した。


「もちろん、完璧な淑女もいるかもしれないけれど、もしかしたらコルセットがきつくて内心ヒーヒー言ってるかもしれないし、完璧な紳士もいるかもしれないけれど、夜は歯ぎしりとかいびきがすごかったりするんじゃないかな……と思うんだけど」


 あまりにもハロルドが身動ぎしないので、最後の方は尻すぼみに小さな声になってしまった。


 その場に漂う気まずい沈黙に抗議するように、ドルトンが前脚で地面をかいて鼻を鳴らすと、ハロルドは片手で顔を覆い、肩を揺らして笑い出した。


「コ、コルセットにヒーヒーって……歯ぎしりって……いびきって……」


 喉を震わせてひとしきり笑ったハロルドは、きっぱりと言った。


「確かに、ビリーの言う通りだな。完璧な人間なんていない」


 じっと見つめる瞳は、確かに空を悠々と舞う鳶と同じ色をしているのだと気付いた途端、ビヴァリーのみぞおちがザワザワした。


 急に息苦しくなって、見つめ合うのが恥ずかしくなる。


 俯いた視界を自分よりもずっと大きくて骨ばった手が横切り、ふわりと手綱を握る手を包まれた。


「代わってくれ」


「え……?」


「鐙も寄越せ」


 言われるままに鐙から足を外すと、ハロルドは自らの足を鐙に引っ掛けて、ビヴァリーに密着するように身体を寄せてきた。


 固い胸板や逞しい太股に触れ、細いと思っていたけれど、自分とは違う生き物なのだと実感した。


 カッと全身が熱くなり、どうしてこんな風になるのかわからないと唇を噛んだビヴァリーの耳元で、ハロルドが囁く。


「ギャロップは無理かもしれないが……」


 ドルトンは、ハロルドの巧みな足さばき手綱さばきからの指示を余すことなく読み取って、滑らかに加速していく。


 風を受けて走る爽快感に笑みをこぼしながら振り返ると、ハロルドも笑い返してくれた。


 馬場を三周してラッセルたちの元へ戻ると、珍しいギデオンの満面の笑みに出迎えられる。


「さすがはビリーだ。可愛げのない馬も見事に乗りこなす」


「……誰が可愛げのない馬だ」


 ハロルドは、ふてくされた様子でぼそっと呟くと軽々と馬を飛び降り、ビヴァリーへ手を差し伸べた。


 自分で降りられると言おうとしたが、大きな手に腰を掴まれ、引きずり降ろされる。


「わっ」


 勢い余ってハロルドの肩に落ちかかったが、しっかりと抱き止められて安堵した。


 しかし、ほっとしたのも束の間、思い切りしがみつくような格好で胸が当たっている上、お尻の下を支えられていることに気付いて、燃え上がりそうなほど顔が熱くなる。


「ずいぶん軽いな……?」


 ハロルドが何か言っているのも聞こえやしない。


 地面に下ろされたビヴァリーは、倒れてしまわないよう足を踏ん張ることに全神経を集中させなくてはならなかった。


「ハロルドが王都に戻るまでひと月ほどは、領地に滞在するつもりだ。顔を出しに来たら、相手をしてやってくれたまえ」


「はい。いつでも大歓迎ですよ」


「ビリーも頼む」


「えっ……あ、は、はい……」


 ギデオンの言葉に、目を瞬きながら頷く。


 ラッセルにドルトンの世話をするよう言われ、ギクシャクとした動きで馬房へ向かおうとしたビヴァリーの前にハロルドが立ちはだかった。


「次は遠出したい。どこか、景色のいいところを案内しろ」


「え」


 顔を出すというのは、今のように軽く乗馬を楽しむという意味ではないのだろうかと首を傾げると、ハロルドはニヤリと笑う。


「そのうち、競馬場でどっちが早いか勝負しよう」


 一度は競馬場を走ってみたいと常々思っていたビヴァリーは、一も二もなく頷いた。


「でも、まずはもっと食べて大きくならないとダメだな。そんなんじゃ、パブリックスクールの荒っぽい歓迎に耐えられないぞ」


 やけに実感のこもったハロルドの言葉が理解出来ずにビヴァリーが固まっていると、ぐいっと帽子のつばを押し下げられる。


「またな、ビリー」


「は、はい。お気をつけて……ハロルドさま」


 暗くなった視界を取り戻そうと帽子を引き上げながら顔を上げると、ハロルドがむすっとした表情で振り返る。


「ハルだ」   


 伯爵さまを愛称で呼ぶなど、とんでもないことのように思いながらも、期待に満ちた鳶色の瞳を見てしまっては逆らえない。


「ハ、ハル……」


 ためらいがちに呼ぶと、輝くような笑みが返って来た。


 心臓が今にも口から飛び出しそうに跳ね上がり、頭がぼうっとして……その日ビヴァリーは、馬以外にも完璧に美しいものがあることを知ったのだった。

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