第16話 嵐よりも早く走るのは、お姫様のため 1
「あの丘の木を一周して戻って来るまで。単純に、早く戻って来たほうが勝ちだ」
灰色の雲に覆われて、今にも雨が降り出しそうな空の下、ナサニエルは一番手前に見える丘の上に立つ杉の木を指さした。
「雷が落ちたら?」
いかにもあり得そうな展開をビヴァリーが指摘すると、肩を竦める。
「運が悪ければ死ぬ。それだけだ」
ナサニエルが乗っているのは、青鹿毛の牡馬だ。毛並みの色つやは悪くないが興奮していて落ち着きがない。
一方のアルウィンは、マッチレースなどしたことはないだろうし、異様な雰囲気に緊張もしているようだが、少なくともこちらの言うことを聞こうとしてくれているのが伝わってくる。
「アルウィン、ビヴァリー。無事に戻ってきて」
少し離れて見守るブリギッドの声に、アルウィンが頷くのを見て、ビヴァリーは苦笑した。
どこまでも主に忠実なアルウィンは、ブリギッドの頼みだから仕方なくビヴァリーを乗せてやると言わんばかりだ。
怒りで頭に血が上っていたブリギッドは、ジェフリーの馬から鞍を借りてアルウィンに付け替え、ロングスカートを脱ぎ捨てたビヴァリーを見るなり落ち着きを取り戻した。
危険な真似はさせられないと言い出したが、アルウィンの名誉のためでもあるとビヴァリーが押し切った。
ブリギッドを嘲ったことはもちろんだが、ギデオンやドルトンまでをも侮辱されて黙っているわけにはいかない。
ここに賭け屋がいたら、大半がナサニエルが勝つと予想するだろうが、ビヴァリーにとっては負けを予想されるのはいつものことだ。
「大丈夫。私たちは、勝つ」
もちろんだと鼻息荒く返事をするアルウィンに、少しリラックスさせなくてはと思う。
何度か円を描くようにアルウィンを歩かせた後、ナサニエルに並んだ。
往復約十二ハロンくらいはあるだろうと距離を測り、深呼吸する。
息を止めた瞬間、スタートの合図を任されたマクファーソン侯爵が掲げていた白いスカーフを振り下ろした。
弾丸のように飛び出したナサニエルの馬に驚いたアルウィンは、前に出るどころか後退りしかけたが、ブリギッドが「アルウィン!」と叫ぶと、慌てて走り出した。
しばらく好きに走らせ、ナサニエルの馬まで二馬身ほどに迫ったところで、ビヴァリーはどんどん前へ行こうとするのを抑え、ペースを落とすよう促した。
「まだ早い」
アルウィンは不服そうな素振りを見せたものの、ビヴァリーの揺るぎない指示を感じ取り、折り合いをつけるほうが楽だと判断したようだ。
差が開いても大丈夫だと伝えることでリラックスした状態で悠々と走るようになったが、丘を登る中、駆け下りてくるナサニエルたちとすれ違った瞬間、ぐんと前に出る勢いが増した。
「もうちょっと待ってよ……」
負けん気が強いのは、父親譲りというよりも主のブリギッドに似たのではないかと苦笑しながら、目印の杉を回り込み、丘を駆け下りる。
ナサニエルたちとの差は、軽く十馬身はある。一見平坦に見えるが最後はやや上るため、余力のないナサニエルたちのスピードは鈍るだろうが、アルウィンがどこまで伸びるかわからない。
アルウィンはドルトンの子ではあるが、ドルトンではない。
アルウィンには、アルウィンの走り方がある。
ぽつり、と頬に冷たいものが当たり、ゴロゴロと鈍い雷鳴が空気を震わせる。
ピクリと耳を動かしたものの、アルウィンの集中力は途切れないようだ。
降り始めた雨があっという間に白い幕を張るが、その向こうにブリギッドの姿を捉えた瞬間、アルウィンがほっとしたように「早く戻りたい」という声を聞いた気がした。
「さっさと戻ろうか」
あとは任せると首筋を軽く叩くと大きく頷き、ぐんと歩幅が大きくなる。
飛ぶように走り出したアルウィンの勢いにドルトンを思い出し、ビヴァリーは笑みこぼれた。
手綱を短くしてハミを噛ませ、より歩幅が大きくなるよう促すとコツをつかんで気分が良くなったのか、さらに加速する。
あっという間に青鹿毛の姿が迫るが、背後に付いて泥を被り、馬体がぶつかるような競り合いをするつもりはない。
臆することなく張り合って近づこうとするアルウィンを少し引き離すようにして、再度ブリギッドのいる方を示した。
「目指すのは、あっちでしょう?」
冷静さを取り戻したアルウィンは、再びゴールを目指すことだけに集中し、ナサニエルが必死に鞭を入れるが、突き放すことはできないままゴールが迫る。
「アルウィーンっ!」
ブリギッドの声が聞こえ、最後の最後、ゴール板代わりのマクファーソン侯爵の前を駆け抜ける瞬間、アルウィンの頭がナサニエルの馬に並んだ。
同着で勝負を終え、そのまま見物客の間を駆け抜けるアルウィンが跳ね上げた泥をかぶった人から、悲鳴が上がる。
しばらく走らせ、落ち着かせてから引き返すと、拍手と称賛、祝福の声に出迎えられた。
「よくやったね! いい子だ」
満足そうに唸るアルウィンの首筋を叩いて滑り降りると、ずぶ濡れの泥まみれにもかかわらずブリギッドが飛びついてきた。
「アルウィンっ! ビヴァリーっ! ああ、無事でよかった!」
「まさか追いつくとは思わなかった……すごい馬だな」
ジェフリーが、感心したというようにアルウィンを褒めると、ブリギッドに近づくなと言うように鼻先で押しやられる。
「おい……」
「ビヴァリー! 大丈夫か? 怪我は?」
心配するハロルドの大げさな様子に、ビヴァリーは苦笑してしまった。
「落馬もしてないし、怪我のしようがないんだけど」
「だが……」
大丈夫だとハロルドを宥めていたビヴァリーは、強くなる雨に、さっさと引き揚げていく人々からはぐれるようにして、ナサニエルが近づいて来るのを見た。
「負けではありませんが……駄馬というのは、撤回しますよ。数々の無礼、申し訳ありませんでした。ブリギッド妃殿下」
やけに素直に謝罪するナサニエルにブリギッドは顔をしかめたが、どこかで怒りを治めなくてはならない。「許します」と短く返事をした。
「それにしても……素晴らしい馬だ。ぜひ、今度は競馬場で勝負をしてみたいですね。万全の状態で」
「アルウィンと?」
「アルウィンと……妃殿下の騎手と」
ナサニエルは、黒い瞳をじっとビヴァリーに据えていた。
あの時感じたのと同じ感覚に襲われて、ビヴァリーは身震いした。
勝負に負ける気はしないのに、ナサニエルとは勝負したくないと思う。
何か嫌な雰囲気が、不吉なことが起きると思わせるのか、そう思わせることで相手に何かが起きるのかはわからないが、「死神」というのはただのあだ名ではない気がした。
「ぜひ、勝負したい」
返事を聞くまでは動きそうもないナサニエルに、雨に打たれてすっかり冷静さを取り戻していたブリギッドは即答を避けた。
「わかりました。考えておきます」
◇◆◇
雨に濡れた人々が、マクファーソン侯爵の館へ帰りつき、汚れを落として再び美しい衣装を身に纏い、晩餐を経て広間に集まり始めたのは真夜中近くのことだった。
ダンスを楽しむ人はさほど多くなく、あちこちで談笑の輪が出来ている中、ハロルドはジェフリーとブリギッドの様子を眺めながら、近寄ってくる令嬢たちを何度か冷たくあしらい、ようやく静かな時間を確保していた。
男性だけで別室へ移動する様子もちらほら見受けられ、そろそろジェフリーたちも引き揚げるだろうと思い、ほっとした。
肉体的に疲れているわけではないが、社交辞令の応酬にうんざりせずに笑みを保てる気がしなかった。
狩りを途中で抜けてから、ハロルドの頭は混乱しきっていて、まともに働いていないと言ってもよかった。
頑なに仕事の延長を断られたショックのあまり、ビヴァリーを詰って泣かせてしまいそうになった自分への苛立ち。真っ昼間の戸外でキスをするなどという真似をした自分への怒りが、ぐるぐると胸の中に渦巻いて、まともにビヴァリーの顔を見られなかった。
その上、ビヴァリーが競馬まがいの競争をすると言い出して、落馬や転倒したらと思うととても黙ってはいられず、完全に我を失った。
見事、アルウィンを同着に導き、泥だらけで笑うビヴァリーを抱きしめてキスしなかったのは、ブリギッドが先に抱きついたからだ。
ハロルドは、ビヴァリーが泣くとキスしたくなるのではなく、ビヴァリーを見るとキスしたくなるのではないかという恐ろしい結論に達しかけていた。
(半月あまり、雑事に忙殺されてビヴァリーと会えずにいたせいで、耐性がつくどころか禁断症状に陥っているのかもしれない……)
「そろそろ切り上げよう。おまえも心ここにあらずのようだし」
ワインの入ったグラスを片手に、ぼんやりと広間を見渡していたハロルドは、いつの間にか隣にいたジェフリーに軽く肩を叩かれてハッとした。
「えっ……あ、ああ、そうですね。妃殿下もお疲れでしょうから」
少し離れた場所で、女性たちに取り囲まれて談笑しているブリギッドを見遣る。
ジェフリーのあからさまな行動とビヴァリーが繰り広げたのレースのおかげで、これまでブリギッドを遠巻きにしていた人々も話題に困らなくなったようだ。
マクファーソン侯爵も、これ以上ジェフリーやブリギッドを刺激したくなかったらしく、コリーンとナサニエルの姿は見当たらない。
中立派や親王派の貴族たちとの付き合いが増えれば、ブリギッドも王宮で過ごしやすくなるだろうし、王宮におけるマクファーソン侯爵の力も削ぐことができる。
属国との関係を悪化させたくないと考えている者にとって、ブリギッドを排除しようとするマクファーソン侯爵のような存在は、できれば王宮から遠ざけたい存在だ。
「それにしても、おまえの『ビリー』の腕前は並大抵ではないな。レースでも通用するだろう」
「ええ……自分も、正直言ってあれほどとは知りませんでした」
「このままブリギッドの専属でもいいが、できれば正式に王家で雇いたいくらいだ。きっと、兄上たちはこぞってビヴァリーを自分たちの馬に乗せたがるだろう。給金を増やすと言えば、本人も乗り気になるのではないか?」
ジェフリーの言葉に、ハロルドは昼間の遣り取りを思い出し、苦い表情になった。
「どうした? まさか、すでに断られたのか?」
鋭い指摘に渋々頷く。
「はい。衣食住の心配もないし、給金もきちんと支払う。今までのような暮らしに戻らなくともよいと言ったのですが……」
「何か、気に食わないことでも言ったんじゃないのか? おまえは、時々ひどく傲慢になるからな」
訳知り顔で頷くジェフリーに、ハロルドはぼそっと言い返す。
「妃殿下を怒らせてばかりいるあなたに言われたくないですよ。ジェフリー殿下」
「ブリギッドは、何も言わなくとも怒るし、何か言っても怒る」
「つまり、何もかもが気に入らないということでしょう」
「おまえ、身も蓋もないことを……」
ハロルド以上に苦い表情になったジェフリーだが、奥の手があるだろうと言い出した。
「私の場合、既に使えない手だがおまえには、まだあるだろう? 結婚すればいい」
「は?」
「おまえと結婚すれば、否が応でも貴族になって、前の暮らしには戻れなくなる。本来であれば屋敷に引き籠らねばならないところだが、馬に乗る自由を認めてやると言えば、何でも言うことを聞くかもしれないぞ?」
「ジェフ……」
いかにも王族らしい強引極まりないやり方を語るジェフリーに、ハロルドは額を押さえた。
「お前が提示したものでは不服だったのだろう? ならば、それ以上を求めているということだ。大金を手にする方法はいくつもあるが、金持ちの男を捕まえるというのもその一つだ。たとえ表面上だけであっても、妻と言う役目を務めるのも立派な仕事だからな」
確かに、その論理でいけば、仕事の報酬としてしか金を受け取りそうもないビヴァリーを説得できそうだが、そもそも結婚する気はない。
それに、そんなことをしてビヴァリーを手に入れたいとは思わない。
そんなことをすれば、ビヴァリーとの関係だけでなく、ビリーとの思い出も何もかもが台無しになるということくらい、ハロルドにもわかる。
金を払ってビヴァリーを買う男たちと同じ存在には、なりたくなかった。
「金を払ってビヴァリーを買うような真似はしたくない。義務や契約による貴族同士のような結婚は、したくない」
ジェフリーはなぜか大きく目を見開いて、ハロルドの肩を掴んだ。
「ハロルド、おまえ自分が何を言っているのかわかっているのか? ……いや、わかっていないな」
「いったい何なんだ……」
酔っているのかと顔をしかめると、ジェフリーは真面目腐った顔で忠告する。
「友よ。おまえは結婚に夢を見過ぎだ」
「…………」
馬鹿にしているのかと睨むと、ジェフリーは結婚がいかに大変かを力説した。
「愛情で結ばれたとしても、いつまでも夢のような時は続かない。男はいつまでも夢を見ていようとするが、女性のほうは目が覚めるのが早い。妻をいつでも上機嫌で慈悲深い女神に保つためには、たとえ踏みつけにされようとも、毎日その前に跪いて、金だけではなく身も心もすべて差し出さなくてはならない。結婚とは、聖夜にありつける晩餐を楽しみに、一年のほかの日々は空腹を我慢するようなものだ。罵られ、蔑まれ、嫌われようとも、上機嫌な妻の笑顔を見る一瞬の悦びや幸せのために、苦痛を耐え抜く強靭な精神力が求められるのだ」
大げさな、と言いかけたハロルドは、ジェフリーの背後に真冬の月のように輝くグレイッシュグリーンの瞳を見つけ、口をつぐんだ。
「なんだ? 経験者の貴重な助言に異議でもあるのか?」
「ええ、ありますわ。殿下」
「…………」
背後から聞こえてきた声に、文字通り血の気が引いたジェフリーは、恐る恐る振り返り、そこに踏みつけにされても金も身も心も捧げるべき相手を見つけて、引きつった笑みを浮かべた。
「あ、ああ……ブリギッド。そろそろ引き揚げようか……」
「私は、上機嫌で慈悲深い女神であった記憶がありませんし、もちろん跪いて身も心も差し出された記憶もありません。つまり、私は結婚していないということですね。ジェフリー殿下」
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