第17話 嵐よりも早く走るのは、お姫様のため 2
くるりと背を向けたブリギッドを慌ててジェフリーが追いかける様子を見ながら、ハロルドは溜息を吐いた。
追いつくなり腰を抱いて、こめかみやら頬やらにキスをして人目をごまかす手腕はさすがだが、せっかく近づきかけた距離を再び引き離してどうするのだ。またしてもブリギッドの部屋から叩き出されるに違いない。
少なくとも、明日王宮へ帰るまで血の雨を降らせるわけにはいかない。
ビヴァリーに、寝支度を整えるという名目でブリギッドを慰めてもらおうと考え、ハロルドも広間を出た。
正式な侍女ではないが、ブリギッドが就寝するまで、ビヴァリーはおそらく自分の部屋には引き揚げず、マクファーソン侯爵家の使用人たちと共にどこかに控えているはずだ。
通りがかった従僕に使用人たちがいると思われる場所を尋ね、階下へ続く階段を下りると、そこは別世界だった。
普段は足を踏み入れることのない領域には、階上の人々が優雅に酒や料理を楽しんでいる様子とは真逆の光景が広がっていた。
夜も更けているというのに、料理人をはじめ、大勢の使用人たちが汗や煤に塗れて忙しそうに立ち働いている。
その大半が、客が寝静まった後も片付けなどのために明け方まで眠ることはできないのだろうと思うと、さっさと会をお開きにしてしまうべきではないかと思えてくる。
一つ一つの部屋を覗き、ようやく一番奥の食堂らしき部屋で数人の侍女たちと談笑しているビヴァリーを見つけた。
「それにしても、ジェフリー殿下とブリギッド妃殿下はお人形さんみたいだったわ」
「お二人は仲が悪いんだって聞いたけど、そんなふうには見えなかったってみんな言ってるし」
立ち聞きはよくないとは思ったものの、話題が話題なだけに、情報収集したいという気持ちもあり、扉の陰で立ち止まったまま耳を澄ました。
「あら、でもお部屋は別でしょう?」
「そこはほら……うちの旦那様がね……」
「ああ……でも、上手くいくとは思えないけど」
「まぁ、ねぇ……」
マクファーソン侯爵は、ジェフリーとブリギッドに別々の部屋を用意していた。
配慮というよりは、不仲を知っているという脅しだ。
侍女たちは、それ以上は言わなかったが、黙って聞き役に徹しているらしいビヴァリーに話を振った。
「ところで、リングフィールド伯爵ってどうなの? あなた、愛人なんでしょう?」
ハロルドとしては、そういう噂が流れる可能性は考えていたので、たいして驚きもしなかったが、ビヴァリーは違ったらしい。
「え、ええっ!?」
「ねぇ、いくら貰っているの?」
「も、貰ってない……けど」
「え? じゃあ、タダで?」
「お、お金は貰ってないから、ハロルドさまとは……何も、していないけど」
「またまたぁ……嘘でしょう?」
「嘘じゃ……」
「ふうん? じゃあ、金貨百枚払うとか言われたら?」
「そ、それは……そのときになってみないと……」
「まぁ、あの天使様と一晩過ごせるなら、こっちがお金払いたくなる気持ちになるだろうけど」
「同感!」
呆れるほど躾の行き届いていない侍女たちの会話やビヴァリーの仕事の詳細な説明などそれ以上聞きたくもなく、ハロルドは足早に狭い通路を通り抜け、階段を駆け上がった。
もしも今ビヴァリーの顔を見たら、後悔するに違いないことを口走ってしまいそうだった。
一度はきっぱり打ち消した疑いが、再び頭をもたげ始めるのを感じ、ハロルドは首を振った。
(立ち聞きした内容だけではビヴァリーの本心はわからないし、今の自分は酔っている。とてもまともに物を考えられる状態じゃない)
性急に判断するなと、燃え盛る怒りが理性を焼きつくさないよう深呼吸を繰り返す。
愚かなことをしでかさないよう、途中ですれ違った従僕にブリギッドの部屋へ出向くようビヴァリーへの伝言を頼み、割り当てられた二階の客室へ引き揚げた。
途中、念のためジェフリーの部屋をノックしてみたが返事はなく、無事ブリギッドの部屋に入れてもらえたのだろうと思って自室の扉を開けると、そこには完全に酔っ払ったジェフリーがいた。
「遅かったな、ハルぅ。ビヴァリーとイチャついていたのかぁ?」
かなり酔っているらしく、ジェフリーは花柄のクッションを抱き締めながらグラスに注いだワインを呷っている。
目元を赤くして、緩んだ笑みを浮かべるジェフリーは壮絶な色気があるが、男だ。
眺めても何ら楽しくないし、むしろ苛立つだけだとハロルドは舌打ちした。
「ここで何をしているんだ? 跪いて身も心も差し出さなくていいのか?」
「跪こうとしても、蹴り飛ばされる……」
抱き締めたクッションに顔を埋めて、ジェフリーが呟く。
「自業自得だな」
「そもそも、最初からブリギッドは毛を逆立てた猫のように、人を寄せ付けなくてだな……」
「おまえが何かしたんだろう?」
「……何もしていない」
「嘘を吐け」
傍若無人が服を着て歩いているような王子様に限ってそれはないと断言したハロルドに、ジェフリーは顔を上げると押し殺した声で叫んだ。
「本当だっ! 婚約中はもちろん、結婚式の後も何もしていないっ!」
酔っていても、ここが敵地であることを忘れず大声を張り上げないあたりはさすがだと感心したが、「何も」が指すことについて認識に差があるのではないかと気づき、コートを脱いだハロルドは振り返った。
「……何も、とは?」
ジェフリーは、花柄のクッションをきつく抱き締めながら悲壮な面持ちで告白した。
「ブリギッドは男並みに勇ましいけれど、深窓の令嬢どころか、洞窟の奥深くに眠る宝石だ。温室栽培の薔薇並みに繊細な箱入りなんだ。結婚式の最中、あんまりにもガチガチだから、唇ではなく頬にキスしなくてはならなかったし、ダンスのホールドを組むだけで真っ赤になるから一曲で切り上げるしかなかった。しかも小鳥のように軽かった! さすがに初夜のしきたりは知っていたようだけれど、私が寝室に現れた途端、怯えた兎みたいに硬直して真っ青になるし。ベッドに押し倒したら触れる前から涙ぐんで震え出し…………自分が野獣のように思えて、とても……できなかった。できるわけがないだろうっ!?」
まさかの告白に、ハロルドは何と言っていいかわからなかった。
「…………」
「あんなに華奢で、小さくて、妖精かと思うほどかわいいんだっ! 襲いかかるなんて、無理だっ!」
要するに白い結婚であるということらしい。
ハロルドは、予想もしていなかった長年の友人の告白に驚きすぎて、その手から奪ったワインを一気に飲み干した。
「おまえ……下手したら、婚姻無効を訴えられるとわかっているのか?」
「そんな恐ろしいことを言うなっ! そんなのは嫌だっ!」
涙目で訴えるジェフリーに、ハロルドは小声で怒鳴り返す。
「ヘタレが何を言うっ!?」
「おまえは、処女を相手にする責任の重大さをわかっていないっ! 痛くて辛くて苦しいものだと思わせてしまったら、その先ずっと恨まれるかもしれないんだぞ? お互いに愛情があれば、それも一種の通過儀礼だろうが、そうじゃなければただの拷問になりかねない。ブリギッドは貢ぎ物みたいに結婚させられて、ブレントリーに対していい感情を抱くなんて無理だろう。嫌々、義務のためだけに好きでもない男を受け入れるなんて、悲惨すぎる。だったら……無理にしなくてもいいんじゃないかと……思ったり……」
「つまり、上手く抱ける自信がなくて、プライドが傷つくのが嫌だから手を出さず、妃殿下が辛い思いをしているのを傍観していたということだな」
「うっ……」
「馬鹿か、おまえはっ!」
バシッとジェフリーの後頭部を叩いて、ハロルドは抱き潰されそうになっているクッションをむしり取った。
ブリギッドの相手に、第二王子を差し置いて第三王子であるジェフリーをと考えたのは、腐れ縁の友人が、ほとんどの場合においては傍若無人でも、自分より弱い相手の気持ちを思い遣る優しさを持っていると思ったからだ。
思った通り、ジェフリーはブリギッドの心情を慮ってくれたが、思った以上に優しすぎ、思った以上に女性経験が少なかったようだ。
「そもそも私は、未婚の処女をつまみ食いするような真似はしたことがないんだ。せいぜい未亡人とか、夫婦関係が破綻している夫人しか相手をしたことがない。焦がれるほど好きだと思ったこともないし、『ブランカ』で男同士で遊んでいるほうが楽しかったし……いちいち、何をしているのか、どう思われているのか、何が好きなのだろうとか、そういったことを考えずにいられない相手は、ブリギッドが初めてなんだ……」
両手で顔を覆い、妻が初恋なのだと恥ずかしそうに言う友を見て、ハロルドはクッションを握りしめた。
喜ぶべきか、呆れるべきか悩むところだ。
「それで、しばらく色々と努力してはみたんだが、どうにもブリギッドの神経を逆なでするらしく、結果、何もしないほうがいいという結論に……」
「色々とは……?」
「宝石やドレスや花を贈った。もちろん、女官長や世話役の夫人たちのアドバイスを聞いた。絵画や本も贈った。ブレントリーの流行を知るのに役立つようなものをと思って、女性たちの間で人気のある恋愛小説なんかも贈ってみた。渡す前に、ちょっとだけ読んでみたんだが、政略結婚の妻と夫の昔からの愛人とのドロドロした闘いがなかなか面白かった」
「それは…………面白いだろうな」
「妻のほうも、自分を助けてくれる馬丁と恋に落ちて駆け落ちをするんだが、夫に見つかって、馬丁が射殺されるという展開で……まぁ、なんだかんだあって最後は幸せになるんだが、泣けたな」
選書を間違っていることに気付かない様子のジェフリーに、悪意はなかったのだろう。
悪意がないからこそ救いがたいと、ハロルドは溜息を吐いた。
「とにかく、洗いざらい妃殿下に話すんだな。おまえがどうしてヘタレなのかを」
「そ、そんなことをしたら嫌われる……」
怯えるジェフリーに、ハロルドは言い聞かせた。
「大丈夫だ。もうどん底までおまえの評価は落ちている。今以上に嫌われることは……ないっ!」
「…………」
「とにかく、入れてもらえるまで部屋の前で粘れ」
「いや、それはちょっと……他人の館では……」
「他人の館だから――敵の館だからこそ、妃殿下は入れざるを得ない」
ブリギッドは、マクファーソン侯爵の挑発を受けて立った。
ここで、ジェフリーとの不仲を肯定するような真似は絶対にしないだろう。
細切れにしたいほど夫に腹を立てていたとしても、少なくとも部屋には入れてくれるはずだと説明すると、ジェフリーは冷ややかな目をハロルドに向けた。
「おまえ……他人のこととなると本当に腹黒いな?」
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