第15話 狩るのは、狐ではなく天使 3

 ラッセルの言葉に、ビヴァリーはハッとした。


(こ、こんなこと、しちゃいけないっ……)


 慌ててハロルドを押しやろうとしたとき、ジェフリーの声がした。


「ハロルド!」


 ビヴァリーが押しやるまでもなく、ハロルドは弾かれたようにビヴァリーから離れた。


 まさか、自分が何をしていたのかわかっていなかったわけではないだろうに、ハロルドは茫然とした様子で口元を覆って視線をさまよわせている。


 たった今、襲われていたビヴァリーだったが、あまりのハロルドのうろたえぶりが気の毒になってきた。


「あの、これ……ありがとうございます」


 素早く立ち上がってお尻の下に敷いていたテイルコートを拾い上げ、軽く草を払って差し出すと、ハロルドはようやく我に返ったらしい。


 顔を背けるようにしてテイルコートを引っ掴むと、立ち上がって素早く袖を通し、茂みを越えてジェフリーの声がした方へ歩み出た。


 ジェフリーとブリギッドは親密な時間を過ごせたらしく、ブリギッドの頬はほんのりと上気し、その手はしっかりとジェフリーの手に包まれていた。


 ジェフリーは茂みを抜けると、優雅な音楽と豪華な料理を楽しんでいた人々の目がこちらへ向けられるのを確かめるように見回した。


「狼の群れに戻らなくては。殿下」


「ああ。できればさっさと切り上げたいところだ。日が落ちてからが本番だからな。それまでに十分英気を養っておかなくてはならない。本当は、その前に味わいたいものがあるんだが……」


 ハロルドのたとえにニヤリと笑ってブリギッドを見下ろすジェフリーの眼差しは、その意味を想像させるに十分なほど官能的だ。


「……殿下っ」


「ジェフと呼ぶように言っただろう? 我が愛しのブリギッド」


「なっ……!?」


 頬を赤く染めるブリギッドに喉を鳴らして笑いながら、その腰を抱いてしっかり自分に引き寄せたジェフリーは、熱烈なキスを贈った。


 初心な令嬢どころか、百戦錬磨の貴婦人たちが思わず赤面し、男性陣がソワソワしてしまうくらいの容赦ないキスを受け止めなければならない主に、ビヴァリーは心の底から同情したが、そのキスには絶大な効果があった。


 その場に居合わせたほとんどの客が、ジェフリーとブリギッドの仲睦まじい様子をからかい混じりに祝福し、実に和やかな雰囲気での昼食となったのだ。


 ジェフリーが、わざわざブリギッドへの愛情をあからさまに示した意味を読み取れないようでは、陰謀術策渦巻く王宮では生き残れない。


 マクファーソン侯爵夫妻も、さすがに表立ってジェフリーの怒りを買うような真似をしないだけの分別はあった。


 しかし、娘のコリーンは違っていたようだ。


 空腹を満たし、ブレントリー特有の変わりやすい天気に曇り始めた空を見て、ジェフリーとハロルドがマクファーソン侯爵やほかの客らと今後の予定を話している隙に、ビヴァリーと帰り支度をしていたブリギッドに近づいてきた。


「妃殿下。私の友人をぜひ、紹介させてください。競馬の騎手をしていて、とても馬に詳しいので、きっと話が合うと思うのです」


 にこやかに告げるコリーンは、背が高い細身の青年に腕を絡ませていた。


 青年は狩りに相応しい装いをしていたが、黒い巻き毛の合間から覗く黒い瞳に浮かぶ嘲るような色や姿勢の悪さゆえか、退廃的な雰囲気を漂わせている。


 その顔を見て、ビヴァリーは驚いた。


(ナサニエル……)


 つい先日、嫌な視線を向けられただった。


 どうして、一介の騎手が招かれたのかわからないが、マクファーソン侯爵も持ち馬をレースに出している。繋がりがあってもおかしくはない。


「競馬の騎手?」


 コルディアでは、ブレントリーほど競馬が商業化されていない。馬主は貴族で、騎手は馬主が務める場合がほとんどだ。貴族に限らず庶民までもが熱狂するような大々的なイベントにはまだ発展していなかった。


 ブレントリーでは、本格的な競馬シーズンがこれから始まるということもあり、ブリギッドは興味をそそられたようだ。


「名は?」


「ナサニエルと申します。妃殿下」


「ナットは、大きなレースで何度も父の馬を優勝させているんです」


「優秀な乗り手なのね。何か勝利のコツでもあるのかしら?」


 ブリギッドの問いに、ナサニエルは皮肉気な笑みを浮かべて答える。


「馬を完璧に支配し、操ることです。田舎で野放しに育てられ、ロクな調教もされていない暴れ馬を乗りこなすには、容赦なく鞭を打つのが一番です」


 眉をひそめるブリギッドに、ナサニエルは挑発的な眼差しを向ける。


「そんな……」


「血を流そうと、泡を吹こうと、こちらが主であることを思い知らせなくてはいけない。言葉が通じなくとも、心を通わせれば分かり合えるなんて、幻想ですよ」


 ブリギッドの顔が強張り、青ざめるのを見て、ナサニエルは嬉しそうに微笑んだ。


「心優しい妃殿下には、ブレントリーの馬を完璧に乗りこなすことなど、無理かもしれませんね。そもそも妃殿下に贈られた愛馬の父親は、レースで一度も勝っていないことはご存知でしたか? そんな駄馬の子どもを王子妃に贈るのは、侮辱以外の何物でもないと思いませんか?」


 グレイッシュグリーンの瞳が怒りに染まり、ブリギッドの手がきつく握りしめられるのを見て、ビヴァリーは素早く視線を巡らせた。


 ジェフリーが異変に気付いて足早にこちらへ向かって来るが、ナサニエルの悪魔の囁きを止めるには遅かった。


「……では、おまえの乗る馬はさぞかし優秀な血統なのだろうな?」


「もちろんです。血統も……乗馬の腕も一流ですよ。どんな馬でも乗りこなせるというのが、私の売りです。もちろん……誰にも乗ってもらえない馬でも、乗りこなしてみせますよ」


 ブリギッドがその手を振りかざすより先に、ビヴァリーはブリギッドの前に出た。


「妃殿下の愛馬アルウィンの種牡馬であるドルトンは、確かにレースには出たことはありませんが、素晴らしい馬です。ギデオン様は、誇り高い父親の血を引くアルウィンが、妃殿下に最も相応しいと思ったからこそ、自ら調教してお贈りになったのです。穿った見方をするのは、ギデオン様だけでなく、アルウィンを愛する妃殿下への侮辱でしょう」


 ナサニエルとコリーンは、ビヴァリーが突然反論したことに驚いたようだが、顔を見合わせて意地の悪い笑みを浮かべた。


「駄馬は駄馬だ。御者の子が、いくらそれらしく装っても貴族にはなれないように。そうではなくって? ビリー」


「もっとも、負け馬にしか乗らないというのだから、お似合いかもしれないが」


『ビリー』だと気付かれていたのだと知り、血の気が引いたビヴァリーを支えるようにブリギッドが言い返した。


「そうではないことを証明すればいいのだろう? 勝負しようではないか。私のアルウィンとおまえのご自慢の馬で」


「喜んで」


 ナサニエルがあっさり勝負を受けたのを見て、ビヴァリーはこうなることを見越していたのではないかと思った。


 だとすれば、単にブリギッドを怒らせる以上に何か目的があるに違いない。


「ブリギッド、何をしている? どうしたのだ?」


 ジェフリーが険しい表情で割って入るが、ブリギッドは言を翻す気はないと睨んだ。


「アルウィンとこの男の馬、どちらが優秀か勝負する。私が受けた挑戦だ。あなたには関係ない」


「関係ないだと……?」


 眉を吊り上げたジェフリーが怒鳴りかけるのをハロルドが止める。


「ジェフ、落ち着け!」


「コリーン! 何をしているっ!」


「ただの余興ですわ。お父さま」


 マクファーソン侯爵夫妻も自分の娘が引き起こした騒ぎに血の気を失い、コリーンをナサニエルから引き剥がしたが、まるでわかっていないコリーンを今にも締め殺しそうな形相だ。


「ビヴァリー、鞍を変えろ。こんな腑抜けたドレスで馬に乗るなどコルディア人の恥だっ!」


 ためらいもなくロングスカートを脱ごうとするブリギッドを慌てて止め、ビヴァリーは怒りと屈辱のあまり青ざめている主に申し出た。


「私が乗ります」


「何を……」


 目を見開くブリギッドの耳に、ビヴァリーは囁いた。


「レースでナサニエルと走ったことがあるんです」


「え?」


「私が勝ちました。ちなみに……私は、レースで負けたことはありません」


 驚くブリギッドが呆然としている間に、ビヴァリーはナサニエルに向き直り、ブリギッドの代理として自分が騎乗すると宣言した。


「ビヴァリー!」


 今度は、怒鳴るハロルドをジェフリーが引き止める。


 昼食の間、ハロルドは、貴族ではなく使用人のビヴァリーを礼儀正しく完全に無視していたのだが、どうやら存在していたことを思い出したらしい。


(偉そうに怒ったり、あんなことしたり、謝ったり、無視したり、心配したり……ハルが何をしたいのか正直よくわからないんだけど……)


 ビヴァリーには、抱きしめたかと思えば突き放し、距離を保とうという素振りを見せながらもキスをするハロルドがよくわからなかった。


(何をされても……必要以上に喜んだりしてはいけないとわかっているけど……)


 顔色を変えて、危ないからやめるように言うハロルドを見ていると、うぬぼれたくもなる。


 もちろん、友人として心配してくれているのだろうけれど、少しくらいは特別扱いをしてくれているのかと思いたくもなる。 


「落ち着け、ハロルド。ビヴァリーは、お前よりも優秀な騎手だろう」


「しかしっ……」


 暴れるハロルドをジェフリーがたしなめる様子を横目に、ナサニエルは馬鹿にしたような目でビヴァリーを見下ろす。


「王宮に入り込むとは……色仕掛けでも使ったのか? ビリー?」


「私が何をしていようと、勝負には関係ないでしょう? むしろ、私がここにいたことに感謝してほしいくらいだよ。いつもの『死神』の出るレースのように、妃殿下が落馬したら絞首刑になるかもしれないけれど、私なら罪に問われることもない。もっとも……私が死んだところで、誰の得にもならないだろうけれどね?」


 ナサニエルは目を細めるようにしてビヴァリーを眺めていたが、低い雷鳴の音を聞きつけると、ニヤリと笑って黒い雲に覆われて行く空を見上げた。


「大口を叩くのは、勝ってからにしろ。……嵐が来る前に、さっさと始めよう」

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