第21話 必要なものは、馬車じゃなく馬です 3
狐狩りの翌々日。
嵐の後の悪路でかなり時間を食ったものの、無事マクファーソン侯爵領から王宮へ戻ったハロルドは、ビヴァリーに現在使っている使用人部屋から荷物を引き揚げるよう言いつけて、執務室へ向かった。
ジェフリーから事の次第を聞いていたらしいブリギッドには、朝食の席で顔を合わせるなり「馬で踏みつぶす」と言わんばかりの敵意を向けられたが、ビヴァリーと早急に結婚し、しかるべき対応をすると告げると「やるべきことをやるならば祝福します」と言ってもらえた。
ただし、ビヴァリーに、時々ブリギッドの乗馬の相手役を務めさせるという条件付きだ。
ビヴァリーは、この期に及んでもまだ王宮を去りたいような素振りを見せていたが、楽な生活に慣れてしまえば考えを改めるだろうとハロルドは思っていた。
現在は、王宮からの給金だけで生活しているハロルドも、侯爵位と共に広大な領地とさまざまな事業を引き継いだ暁には、ブレントリーで屈指の財産を有する身分となる。
多少、面倒な社交界の付き合いを我慢してもらわなくてはならないが、ビヴァリーには十分贅沢なくらしをさせてやれるし、好きなだけ馬に乗ってもかまわない。
今のビヴァリーの暮らしに比べれば、不利益になることなど何もない。
(ただし、一刻も早く結婚する必要がある)
妊娠、出産の時期についてごまかしている者も珍しくないが、嘘は少ないほうがいいとハロルドは考えていた。
ただ、ジェフリーに頼んだ特別結婚許可書はすぐに手に入っても、ハロルド自身が勝手気ままに王宮を離れられないのが問題だった。
属国となったコルディアには、ブレントリー王国陸軍の一個師団が駐留しているものの、平穏とは言い難い。飢えに喘ぐ民たちが、時々小さな反乱を起こすこともあり、身分を奪われた元貴族たちの不満もくすぶっている。
担当大臣が直接出向くには、面倒な手続きや準備が必要なため、何かあれば元軍人でコルディアをよく知るハロルドが赴くことになると、補佐役に任命されたとき、国王からも言い含められていた。
グラーフ侯爵領までは、王都からどんなに急いでも三日はかかる。
往復するだけでも一週間近い休みが必要だ。
祖父ギデオンに説明することを考えれば、二、三日滞在しなくてはならないだろう。
つまり、十日間の休みを確保するには、その分前倒しで働かなくてはならず、さらにはその間、コルディアで不穏なことが起きないことを祈るしかない。
「無事のお戻り、何よりです。少佐!」
部屋で、直立不動で待っていたテレンスの敬礼を受けたハロルドは、無事とは言い難いと思いつつも頷いた。
「留守中に何か変わったことは?」
執務机の上には、うんざりするほどの書類の山がある。
テレンスには、古い書類を上、新しい書類を下にして積むという考えはないようだ。
得難い部下ではあるが、適材適所という言葉もある。
あらゆるところが筋肉で出来ている肉食獣のほかに、あらゆるところが知識で出来ている草食獣も必要だと思いながら、ハロルドは今にも崩れそうな書類の山の一番下にある紙を引き抜こうと試みる。
「はっ! ブレントリー内ではありませんが、コルディアで少々。飢饉で人手の足りなくなった農村で手伝いをしていた兵士たちが、コルディアの反ブレントリー派と衝突した模様です」
「何だと……?」
少々どころの話ではないだろうと驚いて顔を上げたハロルドは、雪崩を起こした書類の山に慌てて手を伸ばす。
「危ないっ!」
見事な反射神経で雪崩を食い止めたテレンスだったが、大きな手で握り締められた書類たちはぐしゃぐしゃになる。
「間一髪でした!」
山を戻したテレンスは、「ふう」と大きく息を吐く。
「…………」
間一髪ではなく、被害が拡大したようだと思ったが、起きてしまったことはどうしようもない。
ハロルドは、しわくちゃになった書類を手で伸ばした。
「死人は出ていませんが、反ブレントリー派は、ブリギッド妃殿下を諦められないらしく、白い結婚でコルディア王家の血を絶やすつもりだの、暗殺するつもりだの言っているようです」
それもこれも、ヘタレの第三王子のせいだと忌々しく思いながらも、ハロルドはブリギッドが王子だったなら、コルディアは属国になどならなかったかもしれないと思った。
コルディアの国王、王妃は存命で、片田舎の古びた城でブレントリー軍の厳しい監視の下、隠居生活を送っている。
三人いた王子たちは全員戦死し、ブリギッドが唯一残された次代の王族だった。
そのブリギッドがブレントリーへ嫁いでしまったため、コルディアには不満分子が旗印として担ぎ出せる人物はいない。
金と権力に塗れた重臣たちの中で、唯一コルディアがひん死の状態であることを理解していた宰相が、裏切り者の誹りを受けながらも、コルディア担当大臣の代理として現地を統括しているだけだ。
「場合によっては、少佐が派遣される可能性もあるでしょうな」
その可能性は常に頭の片隅にあるが、たとえ王命であっても、今だけは受け入れられない。
「……それは、困る。やらなくてはならないことがある」
「もしや『ビリー』を王宮に引き留めるおつもりですか? すでに妃殿下の馬と騎手の素晴らしいレースの話は、王宮中の噂になっています。もちろん、少佐とビリーの話も」
ニヤリと笑うテレンスに、ハロルドは笑い事ではないのだと苛立ちながら、今後の予定を告げ、協力を求めた。
「テレンス。これから一週間で、今ある仕事はもちろん、心置きなく最低十日間の休暇を取れるよう、溜まっている仕事を片付ける。おまえが軍関連で抱えているものもきっちり片付けてほしい。グラーフ侯爵領へ同行して、結婚式に立ち会ってもらいたい」
「結婚式……ぶち壊したい結婚式でもあるのでしょうか? 少佐」
太い眉を引き上げて怪訝そうに尋ねるテレンスに、ハロルドは深呼吸してからできるだけ落ち着いた声で説明した。
「そうじゃない。おまえに立会人になってほしいんだ」
「はぁ……やったことはありませんが命令とあらば最善を尽くします! ところで、誰の結婚式でしょうか?」
テレンスが教会にいる図を想像するだけでものすごい違和感を覚えるが、ビヴァリーを知っていて、かつハロルドの意に従って動ける人間は今のところテレンスしかいなかった。
「俺のだ」
「…………今、何と言いましたか? 少佐。少佐の結婚式だと空耳が聞こえたのですが」
「空耳じゃない。俺の結婚式で立会人をしてほしい」
テレンスは拳が入りそうなくらい大きく口を開いて絶句していたが、ノックの音で瞬時に口を閉ざして扉へ意識を向けた。
「……ビヴァリーです」
扉の向こうから聞こえた声に、テレンスはぽつりと呟いた。
「ははぁ……なるほど」
ハロルドを振り返った顔には、昔新米士官だったハロルドを挑発したときのような、いけ好かないムカつく笑みが浮かんでいる。
野生の勘なのか、何も言わなくとも秘密を探り当てるテレンスに内心毒吐きながら、「入れ」と返事をした。
「失礼します……」
そっと扉を開けて現れたのは、半月前にここへ連れて来たときと同じ、ハンチング帽は新しいが、それ以外は擦り切れたジャケットに黄ばんだシャツ、サイズの合っていないズボンに壊れかけた靴という王宮では見かけることなどない恰好をしたビヴァリーだった。
ずるずるとトランクを引きずって部屋に入り、入り口近くにそびえ立っているテレンスに気付くと、愛想よく笑って挨拶する。
「こんにちは、テレンスさん」
「おう。狐狩りのレースでは、大活躍だったらしいな?」
「大活躍したのは、アルウィンです」
にこやかに会話する二人のすっかり打ち解けている様子に、何となくのけ者にされたような気がしてハロルドが咳払いすると、ビヴァリーは被っていたハンチング帽を脱いで、ぎゅっと握り締めた。
「あ、あの……荷物を詰めて、一応軽く部屋は掃除しました。それで、あの……前の屋根裏部屋がまだ空いているかわからないので……マーゴットに連絡したいんですけれど」
「
何故そんなことを知っているのかわからないが、テレンスが部屋と言うより物置でしかなかった以前の棲家の様子を教えると、ビヴァリーはがっくり項垂れた。
「そうなんだ……あそこより家賃の安いところって、なかなかないのに……」
いったい、どこへ行くつもりだとハロルドが問い質すより先に、テレンスがトランクを担ぎ上げた。
「心配はいらない。もっと広くて快適で、三食昼寝付き。しかも家賃はタダという素晴らしい家が用意されている」
「え?」
「少佐。花嫁をタウンハウスへ運んできます」
いちいち説明しなくて済むのはありがたいが、何もかもわかっているというように振舞われるのも、それはそれで居心地が悪い。
「これを執事に」
ビヴァリーに客用の寝室を宛がい、不自由なく過ごせるよう必要なものを用意するよう簡潔に書き殴った手紙を差し出すと、テレンスはポケットに突っ込みながらしみじみといらぬ感想を述べた。
「少佐は銃もお得意でしたので、一発で命中していることでしょう。グラーフ侯爵もさぞかしお喜びになるはず。おめでとうございます」
「テレンス……」
色々と反論したいことはあったが、何を言っても言い訳にしかならない気がする。
ビヴァリーは、しばらくしてからテレンスの『一発で命中』の意味に思い至ったらしく、顔を真っ赤にしている。
「あの、ハル……ハロルドさま……」
テレンスに促され、部屋から押し出されかけていたビヴァリーが振り返った。
アップルグリーンの瞳は、戸惑いと不安に満ちていた。
「こんなことはしなくても……」
ハロルドは、傷口に塩を塗り込まれるような、ジリジリとした痛みを覚え、つい素っ気ない返答をしてしまった。
「する必要があるから、そうするんだ。王宮では、あっという間に噂が広まる。質問攻めにされても、ビヴァリーには上手くかわせないだろう」
「それは……そうですけれど、でも……」
「何を言おうとも、無駄だ。誰でも出入りできるような使用人部屋やあの屋根裏部屋に置くわけにはいかない。テレンス、連れて行け」
テレンスに半ば抱えられるようにして運ばれて行くビヴァリーを見送って、ハロルドは深々と溜息を吐いた。
警戒心がないこともそうだが、ハロルドが何かをするたびに驚いたり戸惑ったりするビヴァリーに苛立ちが募る。
(どうして、何も期待しないんだ?)
マクファーソン侯爵領から王宮への帰路は、ブリギッドとビヴァリー。ジェフリーとハロルドという組み合わせで馬車に乗ったため、ゆっくり話す時間はなかった。
途中、王領地で一泊したが、ブリギッドがハロルドをビヴァリーに近寄らせなかったので、交わした言葉と言えば挨拶くらいだ。
そんな短い交流でも、ビヴァリーが少しも浮かれていないことはわかった。
王宮に戻り、もう厩舎での仕事はできないと告げると、アルウィンと離れ離れになることにはがっかりした様子を見せたものの、その先にあるハロルドとの結婚を喜ぶ様子など欠片も見受けられなかった。
(つまり、俺は馬以下か……?)
ジェフリーの言う通り、祭壇の前にいるのが馬だったら、ビヴァリーは喜んで結婚しそうだと思うと自虐的な笑いがこぼれそうになる。
戸惑うビヴァリーを見るたびに、何かが間違っているような気はしたが、正しい行いをすればそんな気持ちも消えるはずだ。
(間違いは、正せばいいだけだ。ビヴァリーも、これが最善の方法だとそのうちわかるはずだ。自分も、ビヴァリーも、もしかしたら生まれてくるかもしれない子どもも、誰も不幸にならない)
ビヴァリーが、自分との結婚を望まないかもしれないという考えがちらりと脳裏を過ぎったが、そんなことはあるはずがない。
そんなことは、考えたくもなかった。
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